所Japan 12/21(日) フジテレビ
「ドラマで描かれない明智光秀!大河女優も驚く比叡山焼き討ち(秘)真実」
実は明智光秀という人物 間違った思い込みで 解釈している人が多いんです。
三日天下・陰気・裏切り者・不器用
そこで 「所JAPAN」が誇る 歴史学者・磯田道史先生と城郭考古学者・千田嘉博先生が 歴女・高島礼子と共に 現地調査で 思い込みを 次々と ひっくり返します。
プレゼンターはこの人
「麒麟がきました」 川島明(麒麟)です。
明智光秀とは、比叡山延暦寺とは
明智光秀って こんな人。
織田信長の家臣に明智光秀という人物がいました。
光秀は信長のために精力的に働きますが、パワハラまがいの扱いを受けます。
そのいらだちが爆発してついに 主君である信長に謀叛を起こします。本能寺の変
同じ信長の家臣 秀吉に仇討ちされ天下統一の夢は ついえた。
磯田先生と千田先生が打ち出したい光秀のイメージ
明智光秀はトップクラスの有能な武将
磯田先生と千田先生と高島さんが 比叡山 駐車場に。ここは 京都と滋賀それぞれの絶景が一度に楽しめる場所。
女優・高島礼子さん。2009年の大河ドラマ「天地人」で上杉謙信の姉を熱演。
今では 歴史番組の司会もこなす歴女。
京都と滋賀その間にそびえる この山こそ明智光秀の真実を探る今回の舞台。
比叡山延暦寺は伝教大師最澄が788年に開山。天台宗の総本山で法然・親鸞・最澄などを輩出
歴史に名を残す多くの名僧がここで修行を重ねました。
山全体に広がる敷地は東塔 西塔 横川の3つに分かれ、締めて甲子園球場およそ500個にもなる土地に100棟を超すお堂が点在。それらを総称して延暦寺と呼ばれています。
有名なのは国宝 根本中堂 、ここには 最初に最澄がともしたといわれる不滅の法灯があり なんと 1200年間 一度も消える事なく燃え続けています。
ここで問題、この不滅の法灯から生まれた ごく普通に使う 四字熟語は?
油断大敵 です。
1571年 比叡山延暦寺焼き討ち 光秀やる気満々
高島さん 紙芝居朗読
織田信長は、朝倉義景 浅井長政と対立をしていたんですね。
信長は朝倉と浅井を追い詰めますが 比叡山が2人を匿ってしまった。
比叡山に対し怒った信長が 焼き討ちを命令。
比叡山延暦寺を全焼させ、女子供も含め 数千人を虐殺してしまった。
信長が 焼き討ちを命令。で その家臣 明智光秀は
消極的だったと思われがちですが。
この思い込みもう通用しません。
実は、光秀を実行責任者に指名。… 光秀はやる気満々
光秀は これまで小説などで、信長が新しい人・光秀は保守的な人 忠誠的な人 だから お寺とかを大事にする人っていうイメージを日本人は植え込まれてるわけですよ。
(磯田)光秀は出世欲の強い上昇志向の男だったのです。
近年その意気込みが伝わる古文書が 発見されました。
これは焼き討ちの10日前 光秀が地元の豪族に送った直筆の書状。
「仰木の事は 是非とも なでぎりに 仕るべく候」と書いてあって。
なでぎりっていうのは、皆殺し、 みんな なでるように全部斬っていくって事。
仰木村っていうのが、比叡山の登り口にある 比叡山側の村の事なんですけど。
「そこの人間は皆殺しに しちゃうぞ」と言ってる
実際 光秀が行った焼き討ちは すさまじく 比叡山の中腹にはそれを物語る場所があります。
それが この祠。中には 約250体の石仏があり、焼き討ちの犠牲者を供養しようとつくられたもので 当時の悲しみを伝えています。
焼き討ちの遺恨なし 当時は最強の要塞 関所を設け、流通を支配
明智光秀に焼き討ちされた比叡山。遺恨は残っているはず。
比叡山の住職で要職を務めた祖父を持つ小林隆真さんによると。
信長・光秀の焼き討ちへの怒りは一切 なし。
私の祖父が昔 「新生比叡は信長に巧あり」と言っていました。
なんと 信長・光秀に、焼き討ちされたからこそ 今の比叡山があると言うのです。
まずお坊さんのイメージ
ちょっと痩せてて、精進料理 食べ、一切 欲もなく。煩悩もない。
当時から延暦寺には 徳の高いお坊さんがいる。 穏やかで信心深い。
ところが これが最大の思い込み。
信長や光秀が あの比叡山を焼いてしまうなんてひどい人じゃないのと 思うけど ちょっと事情が違うんです。
当時のお坊さん 登場してもらいます。
怖い。薙刀持っています。
比叡山なんかだと5000人動員可能っていわれてますね。
当時 こういう強いお坊さんの事を悪僧って呼んでた。
それで 悪っていうのは悪いってイメージあるんですけどねむしろ 強いっていうイメージの方がね
持ってるわけですね。
弁慶とか こういうルックスで。
(陣内)ああ 確かに弁慶や。
実はですね このお寺 全山難攻不落の要塞 お城になっていた。
平和で静かな場所。そんなイメージの比叡山延暦寺ですが。
比叡山延暦寺は、戦国武将の城を超えた最強の要塞の理由
1.無限に作られた平場
駐車場になっているこの場所のすぐ横に平らなところがある
この平場は、お堂を建てるために人工的に作り替えた場所
最新の山の航空レーザー測量で作られた赤色立体地図を見ると山の尾根に沿って無数に作られていたことが分かる。山全体に広がる無数の平場。
もはや 比叡山は自然の山というより、人工物で覆われた巨大構造物。
戦国時代には こうした平場に今の5倍 500棟以上もの お堂が建ち どんな城も 比べものにならない強さだったといいます。
2.侵入者を許さない人工崖(切岸 きりぎし・急な斜面)
3.お堂を守る巨大な土の壁(土塁)
平場を陣地にして守る時に防御の盾になるんですよね。
石垣:山にお堂を建てる際に 基礎として石を積んだ。
特に比叡山は 当時 最先端の石垣の技術を誇っていました。
穴太衆(あのうしゅう)という比叡山お抱えの石積みのスペシャリスト集団が、形もサイズもバラバラな石を理想的に組み合わせ高くて頑丈な石垣を作った。
なぜ比叡山はこうまでして 守りを固めたのか。
当時の比叡山延暦寺は 将軍や豪商をもしのぐ大富豪。しかも お賽銭や寄付を集めただけではありません。実は、信長や光秀が許せなかった方法だった。
それは京に入る 東海道・東山道・北陸道で必ず通らなければならない 交通の要所だった。
なんと 関所を11か所も設け通る度 通行料を取り立てていたんです。
そして年利50%の高利貸しを営んだり さらに 酒・絹・油などの流通を支配。
莫大な利益を、ぬれ手にあわで吸い上げ、今の価値にすると 少なくとも 500億円以上もの資産を
築いていたんです。
そのあげく、僧侶とは思えない振る舞いをする者もいたそうで。
武力と金と権力を持っていた、比叡山延暦寺。
当時 滋賀県一帯を治めようとしていた信長にとって敵をかくまった以上の最大の天敵でした。
そこで、信長に仕え始めたばかりの光秀が衝撃の戦略で挑んだのだ。
ただ 比叡山だけがやっていたわけでなく、普通の大名もやっていた。
有力な神社・お寺は金を稼ぐ、城を築く、関所を作る
この巨大な組織 比叡山延暦寺に、織田軍の新人 明智光秀 絶対に成果を上げなくてならない。
難攻不落の要塞に、5000人もの僧兵、 潤沢な資金、比叡山延暦寺はどの戦国武将よりやっかいな存在でした。
光秀 宇佐山城を拠点に 新しい道を作り 穴太衆の石垣
ここで功績を残せば 一発ブレーク出来るというような。
織田信長に仕え始めたばかりで、難敵 比叡山延暦寺攻略を任された ルーキー光秀。
その拠点としたのは、比叡山から 直線距離で 僅か2km、目と鼻の先に光秀が 初めて城主となった
宇佐山城があります。
大河ドラマではスルーされたこの宇佐山城での戦いに、思い込みを覆す明智光秀の有能さが刻まれていました。
やって来ました。宇佐山城の入り口へ。
車道を外れ、森の中を進んでいくと 竪堀(山の斜面に沿って地面を削った防禦の仕掛け)
磯田先生が 自ら熱演! よく分かりました。
比叡山の間近で鉄壁の守備を固めていた明智光秀。
そのうえで 光秀は、宇佐山城を究極の 嫌がらせ城として 延暦寺弱体化作戦を発動。
やって来たのは宇佐山城 三の丸。(うわー すごいこの景色)
光秀が焼き討ち前に行った策略
1.比叡山の財源を立つ
比叡山の生命線を断つ作戦…新しい道を作って 無料で通した。
比叡山の道を通るとお金取られる。新たな道をつくった事で、関所で比叡山が吸い上げるお金は 激減。
そのうえ 無駄なお金を、払わなくてよくなった人々の信長・光秀への好感度も上がった。
2.敵からヘッドハンティング
続いて やって来たのは宇佐山城の城壁。
ここで 先生方が先ほど比叡山で見たのと全く同じ技術を発見。
すごいロケですね。
すると 目の前に現れたのは、信長や光秀が見ていたと思われる石垣。
穴太衆、比叡山専属だったはずの彼らの石垣が、なぜ 敵対する宇佐山城にあるのか。
これは 信長や光秀が穴太衆に接近。ヘッドハンティングして寝返らせた成果。
優れた技術を、手に入れるとともに 工事の様子を比叡山に見せつけプレッシャーをかけたと
考えられます。
『所JAPAN』「比叡山・宇佐山城回」をご覧くださいまして、ありがとうございました。宇佐山城への散策路は整備されていますが、少しわかりにくく、また放送されたように急傾斜や崖になっているところもありますので、見学の際は十分ご注意ください。 pic.twitter.com/IY3ckVIQK5
— 千田嘉博_城郭考古学 (@yoshi_nara) December 21, 2020
光秀 焼き討ち 仰木村と延暦寺の一部 瑠璃堂から京に逃げる道あった
光秀は比叡山弱体化を外側から緻密に進めたうえ焼き討ちを実行。
「油断大敵」という言葉を生んだ 比叡山延暦寺の油断。
そこで光秀が、焼き討ちを仕掛け、あの広大な延暦寺が全焼。
光秀は比叡山延暦寺を焼き尽くさなかった
比叡山が 全て焼き尽くされたというのはウソ
実は、光秀は 麓の町は念入りに攻撃したものの、延暦寺は一部だけに とどめていたのです。
発掘調査の成果で根本中堂、大講堂は焼けた痕跡がある。
それ以外の所 火災を受けた痕跡が見つからない。
光秀が焼き討ちにノリノリだった、と紹介した書状を磯田先生は こう解釈。
「仰木の村は なでぎり 皆殺しにしろ」と書いてあるんですけど、逆を言うと 仰木村は、しないと
いけないんだけれども、他はやらないと言ってるようにも読めるわけですよ。
じゃあ 仰木はどんな村かっていうと、比叡山と関係のある村で登山口。
ここに、僧侶も降りてきているし、比叡山関係の仕事をしてる人も住んでいる。延暦寺そのもの。
そして もう1つ、無抵抗の人々まで虐殺したというのも思い込みの可能性が。
実は、その真実を物語る1つの建物が今も比叡山に残っています。
場所は西塔エリアの外れ。焼き討ち前の姿を今に残す唯一の瑠璃堂。
通常は非公開の その内部を、今回 特別に見せていただける事に。これまで 扉を開けられた記録がない 瑠璃堂。来年 焼き討ち450周年を迎えるに当たり特別公開されたといいます。
果たして その中には薬師瑠璃光如来(左手に薬坪、右手の薬指を曲げており 病を治してくれる。)
なんで、瑠璃堂の扉を開けなかったのか?
元々 この道 下がっていくと、京都に行ける道があった。
今は もうなくなっているが、人の往来があり、たくさんお参りされたと思う。
袋小路になって、来られる人が少ない。セキュリティ上の問題。
瑠璃堂の公開は11月末で終了。
京都に逃げていく途中のお堂がボツンと焼け残っている。あの道路は包囲されていなかったか、おそらく 人間を逃した筈。琵琶湖の方から攻め上っていくんだけれど 京都側は開けていた可能性がある。
光秀は 信長の命令はちゃんと守った。だけど抵抗しない者は 割と去らせて、被害者を少なくしてことを収めていく。光秀は知っていて 残したかもしれない。
もしかすると 光秀は 薬師瑠璃光如来の神々しい姿に 本来の比叡山延暦寺の姿を重ね合わせたのかもしれません。
功績を認められた光秀は その後 比叡山の麓に城を築きこの地を治めました。
焼いた人がその土地を治める。普通だったらものすごい逆風でないですか。
ところが、光秀に対して 領民が 反乱を起こした記録はない。
光秀は教養がある。お公家や文化人と交流があり 味方に引き入れた。お寺は俗なことやらせない。
教養は室町 行動は江戸時代を先取りしている 武将のような気がします。
▽まとめ&感想
1571年 比叡山延暦寺焼き討ち 光秀はやる気満々だった。
焼き討ちの遺恨なし 当時比叡山は 最強の要塞で関所を設け、流通を支配。
光秀 宇佐山城を拠点に 新しい道を作り 穴太衆の石垣の技術で山城作った。
焼き討ちは仰木村と延暦寺の一部で、瑠璃堂から京に逃げる道残していた。
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元々の 比叡山、悪の集団だったんですね。
前に 比叡山 旅したとき 、何も知らずにあたふたと廻ってきました。
京都と滋賀 ゆっくり 見下ろして見たかった。
太平記でも度々動座したり、出てきます。京から登り口 どうかなと地図を眺めています。