太平記 38話「一天両帝」▽ あらすじメモ★ 尊氏 京都に幕府開く 南北朝に

後醍醐帝比叡山に 尊氏と和議 帝は還御 義貞は敦賀に向かう

湊川の戦いで新田・楠木連合軍は敗れは楠木正成(武田鉄矢)、正季兄弟は壮絶な死を遂げた。

都を巡って、足利尊氏(真田広之)軍と新田義貞(根津甚八)軍の壮絶な戦いが、いつ果てるともなく繰り広げられたが、次第に足利軍が優勢となり、追い詰められた後醍醐天皇(片岡孝夫)は比叡山に動座した。その帝の元に、尊氏はひそかに和議の使いを送った。

東寺・足利の本陣
雪の降る尊氏本陣に、足利直義(高嶋政伸)が駆けつけてきた。
尊氏は母にもらった地蔵の絵の手本に描く日課を行っていた。
直義は任せると言いながら、断りもなく後醍醐に和議の使者 を送ったことを怒った。
尊氏は謝りつつ「戦の苦労は、良い潮に和をつかむため、今が最も良い潮時と思う」
さらに「帝が、足利に下るわけには行かない。帝と持明院統の上皇との和議を結ぶ、そうすれば 帝は洛内にお戻りになる。さすれば 新田の立場が無くなる。帝が新田より、離れればことは片付く。帝は私にとって 特別な方、体面を守ることで、御還幸が果たせるなら 何でもする。」

近江 坂本の義貞の陣洞院実世からの使者が来て、後醍醐が尊氏と和議し、還御されることになったと知らせてきた。義貞にはまったく寝耳に水であった。

比叡山の行在所
京へ戻るために後醍醐が立ち上がったところだった。
そこへ義貞の家臣・堀口貞満が 駆け込んでくる。
「無礼者!」とののしられても、貞満は「本日のにわかな御動座に異議がござります。我が主君は官軍の総帥です。何の仰せもなく 京に戻られるとは いかなる仔細か」と非難する。
公家達が「これは持明院との和議」と言うが、貞満は「どう名分をつけようと それでは義貞が逆賊の汚名を着ること に!」と反撥する。
そこに、義貞がやってきた。
後醍醐は「自分が京へ帰るのは考えあっての こと。今は屈しても 末に勝てば負けにあらず。ここは目をつむって 山を下り やがて官軍の立つのを待つ。いかなる困難に耐えても、その時を待つ。去れば、そちも ここを脱して北陸に行け北畠親房は伊勢に、四条隆資懐良親王らも各地に派遣する事にしたと告げた。
義貞には皇太子の恒良親王尊良親王を奉じて越前へ向かうよう命じた。そして恒良親王に帝位を譲ずるので 逆賊の汚名を着る心配はないと付け加えた。「義貞、そちが頼りぞ!」との一言に、義貞は平伏する。
間もな後醍醐帝は京に戻り、義貞は親王らを奉じて、雪の中、越前の敦賀を目指した。

新田義貞 勾当内侍と別れを惜しみ 吹雪と敵襲の中 越前 金ヶ崎城へ

堅田に陣を張った時、思わぬ人が義貞を訪ねてきた。どうしても会いたいと追いかけてきた勾当内侍(宮崎萬純)だった。
雷鳴の中、寝所で二人は抱き合いながら語り合う。
「内侍は、あなたさまにお会いして、初めて人を愛する喜び を知りました…。」
内侍はどうか連れていってほしいと義貞に頼むが、冬の厳しい北陸の冬は都育ちの内侍には無理、春になって 体制が整ったら呼び寄せると約束する。

結局これが、勾当内侍と義貞の永遠の別れとなった。

この年 建武3年は、例年になく寒気の厳しい年であった。
義貞一行は敦賀近くの木芽峠で猛吹雪に遭い難渋を極めた。吹雪と度重なる敵襲に苦しみながら、ようやく越前 金ヶ崎城に入った。

尊氏 花山院に幽閉している後醍醐帝と会い 古い制度では無理 廉子接近

花山院
比叡山を下りた後醍醐天皇花山院の旧内裏に軟禁されていた。
尊氏が見舞いとしてやって来たのは3日後のことだった。
「さぞやこの尊氏にお怒りのことと、幾重にもお詫び申し上げまする」と 言う尊氏に、
後醍醐は「飾る言葉は要らぬ。まことを申せ。まことのそちの思いを」と応じる。
前に「天下を率いて立とうとは思わぬ」と言っていたの は偽りだったのか、と尋ねる。

尊氏は「この一年天下の大いなるうねりに乗って 東国より転じて 西国 九州まで駆けめぐり、その中で得ること誠に多く それ故、すでに一年前の尊氏とは違うのはやむを得ないと承知下され
帝は 延喜 天暦 の御代を理想に掲げられ、全て帝の御親政にて公家一統の政を始められた。
されど あえなく 政を誤り、武士だけでなく庶民の多くも喜ばないのを見てきた」と語る。
後醍醐は「建武の新政はまだ緒に着いたばか り」と反論する。
しかし尊氏は後醍醐が理想とした延喜・天暦の時代とは「世が変わりすぎていた」と鋭く突く。武士の数も多くなり、民の生業のむずかしさ、 何より人の考えが変わっている。古い制度ではとうてい治めるのは無理であると尊氏は後醍醐に言う。
「どうあっても、幕府を認めよと申すか」と言う後醍醐。尊氏は旧北条とは違い、今までにない公武一体の世を作り、朝廷にお仕えする所存です。」
しかし後醍醐は「尊氏、朕は決して理念を捨てぬぞ。そちは朕のもとを離れたが、義貞は命を懸けて戦っておる」と言う。
尊氏「義貞も武士であり、仮にこの尊氏を倒して時代の覇者となれば、義貞もまた幕府を作ろうとするだろうと言って「武士とはさようなものでござりまする!」と断言する。
後醍醐も「武士とはそのようなものなれば、朕とは永久に相容れぬものぞ」と言い切った。
「無念にござりまする。」と尊氏は言った。

引き上げようとする尊氏を、阿野廉子(原田美枝子)が呼び止めた。
廉子は尊氏を一室に招き、「わらわは早くから足利殿に 肩入れしていたつもりじゃ」と尊氏に取り入ろうとする。
尊氏は今後は持明院統・大覚寺統 交互に帝の御位(みくらい)におつきになられる、良き伝統に戻るとして、現在の光明天皇の皇太子に准后様の二の皇子 成良(なりよし)親王を擁し奉りたい。
これを聞いた廉子は喜び、
尊氏は帝の御位が正しく受け継がれるには、三種の神器を持明院の帝にお渡しいただかねば なりません。それには准后様のお力添えが何よりかと。
廉子は尊氏の手を握り、「これからは何事も足利殿におすがりいたしましょう」と言うのだった。

三種の神器得て 光明天皇誕生 尊氏 京都に幕府開く

建武3年11月2日
狸小路室町・里内裏
三種の神器が後醍醐天皇から持明院統の帝に譲られ、皇位の継承が光明天皇に行われた。
そして尊氏は光明天皇に「源尊氏 権大納言に叙す」。
それは かつて源頼朝が幕府を開いた、まさにその官位であった。

建武3年11月7日。尊氏は17ヶ条からなる「建武式目」を制定、京都に幕府を開くことを宣言した。これによって 幕府が公家に変わる政権であることを明らかにした。

尊氏は重臣達を集めて「今より後は、全て直義に任せたいと思う」との意向を告げる。
高師直が「隠居されるのか」と尊氏に聞くが、尊氏は「そうしたいが、そうもまいるまい」と答え、一同に直義を補佐してやって欲しいと頼む。
一同は礼をするが、師直はなぜか、遅れて頭を下げた。
そんな師直を直義は厳しい目で見つめていた。

御池・足利尊氏亭
尊氏は、丹波にいた母・清子(藤村志保)、妻・登子(沢口靖子)、子の千寿王を都に呼び寄せた。
久々に皆が 顔を合わせたことを喜びあう。
清子が「政はみな直義どのに任せているとか?」と聞くと尊氏は「直義はわしより筋の通った政をする」と答え、直義は「いや、いざというときは兄者に出ていただかねば」
清子は「兄弟力を合わせて、いつまでも仲良う頼みまするぞ。父上もかなわなんだ夢を 見事に果たされたのじゃから」と微笑む。
直義は尊氏に「花山院の先帝の警備をゆるめるのはいかがか、北畠親房らの活動も活発で、油断がならない」と言う。
しかし尊氏は「後醍醐は自分達にとって特別な帝であり神器を譲ってくれた人に滅多な扱いも出来ぬ」と答える。

千寿王の望みを聞くと「海がいい」と言い。
登子は「ずっと丹波の山奥にいたので鎌倉が恋しいのでしょう。」
尊氏は「では、琵琶湖を見せてやる」と言って笑っているのだった。

後醍醐が吉野へ 南北朝始まる 北畠顕家たちが上がってくる

錦小路・足利直義亭
12月21日。都を震撼させる事件が起こった。先帝・後醍醐が花山院から 姿を消したのである。直義は警護の兵士を怒鳴りつけ、畿内各地に追っ手をむける。

高師直(柄本明)や細川顕氏などが集まり、直義を問い詰める。
直義は怠りなくやっていたが、緩やかにせよとか 言ってきて、「大御所の温情が仇になってしもうた」と答えた。
師直が直義に「もっと早く、しかるべきご沙汰をなさるべきでしたな。帝という錦の御旗は我が手にあるうちは良いが 離れるとやっかい至極です。」とささやく。

そこへ尊氏がやって来て、直義が謝っていた。
佐々木道誉(陣内孝則)がいつものド派手な装束で、笑いながら姿を現し「後醍醐は女装までして逃げたらしい。さすが先帝はただ者ではござらぬわ」と大笑いする。

尊氏は「こたびの事は、先帝の御意のままに出でしこと。されば、以後の責任は我らにはない」
そして尊氏は、後醍醐一人のために警固は容易ではなく、しかも期限のなきことで 幕府にとって 莫大なる負担になる。かといって遠国に 流すというわけにもいかず、悩んでいたら今回の出来事。むしろ「先帝 自ら 他所へ移られたのは 不幸中の幸い」というべきである、と言うのだった。
これを聞いて道誉も「さすが足利どの、我らには思いも及ばぬお考えじゃ」
師直が「畿内には 北畠・楠木など虎視眈々と隙をうかがい 力をためております」

尊氏は「何もすることはないのじゃ。いずれ収まるところに収まる。」
道誉は「果たして足利どのの申されるように参りますかな?」
尊氏は「案ずることはない。運は天の定むる所 人知の及ぶものにはあらずだ」

大和国・吉野
京を脱出した後醍醐は北畠親房(近藤正臣)らの手引きで1週間後の12月28日には 河内 大和を経て吉野 金峰山にたどり着いた。
「すみやかに延元の年号を復し、足利を討伐するのじゃ!」と後醍醐は宣言する。ここに吉野と京に二つの朝廷が開かれることとなった。世の人はこれを「一天両帝・南北京」と称した。南北朝動乱の始まりである。

陸奥・霊山
後醍醐天皇は足利討伐の綸旨を諸国に発した。
とりわけ 奥州の北畠顕家(後藤久美子)への期待は大きかった。
顕家は「帝は吉野に移られた。直ちに上洛し、足利を討てとの仰せだ」。顕家は足利方の佐竹など周囲の敵を破った上で上洛する決意を固める。「なんとしても公家一統の火を絶やしてはならぬ。帝の御心を忘れてはならぬぞ!」顕家は家臣達に言い渡した。

錦小路・足利直義亭
尊氏が、地蔵尊の絵を描いていると、道誉がきて「そうやって絵筆をとっていられるのも長くはあるまいの。吉野の帝は 足利討伐の綸旨を諸国に発しておられる。やがて奥州の北畠顕家が上がって来るのも必定。握らなくてはいけないのは 剣でしょう。」
そして「今度こそ、吉野の先帝を敵として、戦わねばなりません。2つの朝廷を認めるわけには 行きますまい」
尊氏が「むつかしい世になってしもうた」というと、「それもこれも足利どのの曖昧な態度ゆえぞ。いつまでも 先帝に特別な思い入れをいたしておっては 進むべき大道を見失ってしまう。」と道誉は言う。
尊氏は「一度墨につけた筆は白くはならぬ。もはや引き返すことはならぬ。

▽まとめ&感想

湊川の戦いのあと後醍醐帝比叡山に、尊氏と和議 帝は還御 義貞は敦賀に向かう。
新田義貞 勾当内侍と別れを惜しみつつ吹雪と敵襲の中 越前 金ヶ崎城へ。
尊氏 花山院に幽閉している後醍醐帝と会い。古い制度では無理と説明。廉子接近。
三種の神器得て光明天皇誕生 尊氏 京都に幕府開く
後醍醐が吉野へ南北朝始まる 北畠顕家たちが上がってくる。
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尊氏 京都に幕府開きました。 どこかなと思ったら、この時室町に住んでいなく 、あとの人が室町幕府と呼んだことらしいです。
室町幕府の誕生と崩壊が同じ日に大河ドラマであるなんて 驚きでした。

尊氏 廉子をうまく取り込んで、三種の神器得たんですね。気になりました。
新田義貞 報われない役柄ですね。35話「大逆転」あたりゆっくり見たかったです。
安部龍太郎著の『義貞の旗』読んで待っていたのに 残念でした。