元弘の乱 勃発、足利高氏にも出陣の命
1331年8月27日 元弘の乱 勃発。後醍醐天皇(片岡孝夫)が笠置山で倒幕の旗をあげた。
六波羅勢は2万の兵力で囲んだ。対する後醍醐天皇方 1000人に満たず。
9月3日 鎌倉に六波羅勢が笠置山を攻撃したが、敗れてしまったことが伝えられた。
幕府は大軍を鎌倉から送ることを決定し、北条高時邸に、長崎高資(西岡徳馬)らが行き、北条高時(片岡鶴太郎)、覚海尼(沢たまき)に挨拶。
高時は亡くなった足利貞氏の供養のために写経をしていた。それを讃える高資に、高時は「そちや円喜ほど足利をいじめぬいた者はおらん。しらじらしいぞよ」と答える。
高資が幕府総力を挙げて、軍を送ると一決。幕府軍の兵数と大将軍の名簿を出し、後聴許を仰ぎたい。高時がそれを眺めると、「足利高氏」の名もある。高資は、喪中の足利に出陣を命じて、どうするか見届けたいと説明する。
その日のうちに、足利家には執権の赤橋守時(勝野洋)が出向いて出陣を要請した。「飾りで、面目ござらぬ」と頭を下げられ、高氏(真田広之)は立つと伝える。喪中の出陣要請に直義(高嶋政伸)らは憤る。高氏は何も言わず、清子と母が見守る中、貞氏の位牌に「父上」と声をかけるだけだった。
幕府軍の第一陣が旅立った。(赤い三つ鱗の旗印を掲げ、大将は馬で、歩兵は駆け足で大変そう)
尊氏軍は4.5日遅れの出発と定められた。
朝食をとりながら登子(沢口靖子)が、直義が最近自分に良く声をかけてくれること、高氏が直義に「何も言ってくれない」と言っていることを高氏に話す。
不安そうな表情を見せる登子に、高氏は「わしは兵は出すが、戦をするとは申しておらん。笠置を見に行くだけじゃ。矢は一本も撃たぬ。」と言う。
翌日、登子は千寿王を連れて守時邸に挨拶に。守時は「新たな帝がお立ちになり、戦は大きくはなるまい」と登子に語る。しかし登子が高氏が「矢は一本も撃たぬ」と言ったと伝えると、守時は不安になる。
九月上旬、高氏は直義や師直と共に兵を率いて鎌倉を旅立った。
後醍醐帝が、夢の’大樹の南の陰に天子の座’から、楠木正成頼る
後醍醐帝が、笠置山に立てこもり、二週間立とうとしていた。帝のわずかな兵は傷つき、敗色が濃くなってきた。ときおり武士などが加わってくるものの、期待したほど、集まらなかった。
いらつく後醍醐天皇は日野俊基から聞いていた楠木正成のことを千種忠顕(本木雅弘)に尋ねる。忠顕は正成が紀伊・大和の悪党達をことごとく滅ぼした。
すでに綸旨を送ったのに、3日立っても正成が駆けつけてこないことに「北条に与したか」と公家達は怒る。こちらから使者を出せば馳せ参じるはずと進言する。しかし公家達は「帝が武者ごときに勅使を..」とさげすむ。
その夜、後醍醐天皇は夢を見る。菩薩の使いの童子二人が天皇の前に現れ、「大樹の南の陰に天子の座がある」と教えて消え去っていった。
翌朝、後醍醐天皇はまわりの者に「この夢、解けるか」と問い、自ら「木の南じゃ!文字にいたさば『楠』と読めよう!」。天皇は万里小路(までのこうじ)藤房(大和田獏)に勅使として正成をとく召すよう命じる。
楠木の本拠 河内国・水分(みくまり)では、笠置攻めのための物資の徴収、事実上の略奪が北条の兵士達によって行われていた。すべて奪われた農民達が泣い て正成に訴え出るが、正成は自分が「笠置方でも、北条方でもない」と、守護代からの、兵を出せという命令を断ったためたった。
怒った家臣の神宮寺正房・和田五郎が、正季(赤井英和)に従って笠置へ駆けつけようとしていた。正成(武田鉄矢)は正二人を叱り、止めようとするが、飛び出していく。
正成のところに、妻の久子(藤真利子)が長男の多聞丸が、名前をかけるようになったと伝えに来た。正成は誉めるが「聞の字がいかん」といって、息子の手を取り字を書かせてやる。そうしながら、「愚かな事じゃ。わずか二百の兵で……。みな妻も子もある…」と案じる正成。
久子に「殿の顔を見れば……。まだ間に合いまする」と言われ、正成は正季に追いつこうと馬に乗り、出かけようとしたとき、金剛寺の了源坊らが、「よりの勅使でございまする」と、たいまつを手に飛び込んできた。万里小路藤房を乗せた輿が入ってくる。
中納言という高貴な殿上人の来訪に、館の侍女達は物珍しそうに藤房をのぞいてはコソコソと、ただでは済まないだろうと、しゃべっている。
正成は藤房と対面した。「詔(みことのり)です。謹んで、うけたらまれい、帝が楠木を召せと言われている……。この冥加ありがたくお受けなされ」正成に向かって言い渡す。
正成は「力無く才無く、……、ひらにご辞退申し上げる」とあくまで断った。
これに「この藤房もここは動けぬ。思案の付くまでここで待とうぞ」
藤房は帝が見たという夢の話を語り出す。「… 河内の楠木を頼れとの正夢じゃ。……この藤房、夢などは信じぬ。が夢にすがらねば、笠置は…、主上のお命が…」と涙ぐむ藤房。正成は黙っているだけ。
正成と久子は庭にある柿の木を見ながら、大きくなった。この里では嫁に行くとき、柿の木を持っていくもだと言われ、嫁ぎ先の庭に植え、毎年秋になると良い実がつくように祈り、年を取って死ねば、この木を切って薪にして焼いてもらうのだ。
正成は言う。「男はこう言われるのじゃ。その木を長う生かして使えと。まちごうても己の手で切るようなまねはせぬこと。だが、男には戦があるでの。戦は女・子供を巻き込むつらい修羅だ。… わしはそれが嫌なのじゃ」
久子は「殿、木も生き物でございます。家の主が誉れとなれば、木の誉れ ……、帝 直々のお声掛かりとは、武士たるものの誉れ、殿の誉れは久子の誉れ、家門の誉れです」
「木のためにお迷いなさいますな!……」と突然斧をとり、柿の木に振り下ろした。久子は凍り付いたままそれを見つめる。
そんな妻をじっと見つめた正成は、干し柿を口にしながら、「久子…長い戦になるぞ…長い戦に…」と言い、「多聞丸を、頼む!」と立ち上がった。
翌日、正成は鎧姿で馬に乗り、正季以下の楠木党を集め。「参る!」と言って、正成が馬を走らせ、郎党達がこれに付き従う。
楠木正成が立った。河内の片隅で立ち上がったこの土豪が、のちに大きく世を変えることとなる。
正成の挙兵を高氏が知るのは旅の半ばである、笠置はまだ遠い。
足利尊氏の陣は、白地に二つ引両の旗印を掲げ、大将は馬で、歩兵は徒で進んでいた。
▽まとめ&感想
元弘の乱 勃発、六波羅軍は惨敗し、鎌倉から多くの兵を出すことに。
足利高氏も「笠置を見に行くだけじゃ。矢は一本も撃たぬ。」と出陣
後醍醐帝が、夢に現れた’大樹の南の陰に天子の座’から、楠木正成を頼り万里小路藤房を勅使にたて、依頼。楠木正成が立った。
間がずいぶんとあって、最近のとだいぶ違いますね。
万里小路藤房の公家の口上見事でした。
「殿の誉れは久子の誉れ」には驚きました、正成さん頑張るんでしょうね。
「年を取って死ねば、柿の木を切って薪にして焼いてもらう」すごい言い伝えですね。
