後醍醐帝 名和悪四郎 阿波の岩松の助けで隠岐脱出
西日本各地の反北条の叛乱は勢いが盛んになってきた。河内では楠木正成が持久戦を続け、播磨国、四国の伊予でも倒幕の狼煙が上がった。幕府は、これを討つために、大軍を派遣する必要に迫られた。幕府軍に駆り出された御家人達は自前で兵糧を調達しなければならない 。御家人達しだいに幕府を恨むようになっていく。幕府はまず財政の面で、内部から崩壊しようとしていた。後醍醐帝の隠岐脱出計画の成否がすべての者の運命に関わっていた。
元弘3年(1333)閏2月23日。隠岐では後醍醐帝(片岡孝夫)脱出の時が迫っていた。伯耆の名和悪四郎とましらの石(柳葉敏郎)が、物陰からうかがっていると、後醍醐帝の寵妃・小宰相(佐藤恵利)が外に出てきて、警備の兵に「帝が動かれるのは明日の夜」と伝え幕府に情報を漏らしていた。名和たちは慌てるが、そこへ金若(かねわか)という後醍醐帝に仕える少年が現れ、小宰相のことを帝に伝えることを承けたまる。
後醍醐帝は阿野廉子(原田美枝子)に破って出ることを伝え「そなたにも走ってもらわねばならん」「迎えに参るのは、島の心ある武士、かねてから朕に心寄せる、阿波の海賊 岩松党、伯耆の名和一族と」。廉子は帝が小宰相に漏らしたことを激しく責め、彼女を連れて行かないで欲しいと懇願する。
後醍醐は「あれは連れて行く。あれは哀れな女子じゃ」。小宰相が持明院統と鎌倉方と行き来があることを知っていた。そして「明日の夜」と教えたのだと。「朕は今宵ここを出る」「朕が頼りに思うは廉子だけぞ。それを疑うでないぞ」と廉子を抱く。そこへ金若がやって来て小宰相はやはり仰せの通りとを告げた。後醍醐帝は「夜明け前に。名和達に伝えよ」。
島の侍や名和一党の手によって警備の兵士達が殺され、後醍醐帝は夜の闇の中を走った。分かれて、廉子や小宰相、千種忠顕(本木雅弘)らも走った。石は身重の小宰相を背負い、敵が現れると刀を振るって走り抜けた。後醍醐帝は海岸にたどり着き、名和悪四郎らに出迎えられる。後醍醐帝は岩松党の用意した船に乗り込み、石が小舟を漕いで廉子と小宰相を乗せて、帝の船に向かった。荒れる海上で小宰相は船べりにつかまり、あれは帝の船であろうか?と身を乗り出したとき、廉子が舟から突き落とした。唖然とする石だった。やがて小宰相の打ち掛けが海面に浮かんできた。
先帝隠岐を脱出、鎌倉は驚き金沢貞顕は足利出陣を不安がる
同じ2月24日、播磨で挙兵した赤松則村は摂津、現在の尼崎まで攻め込んできた、驚いた幕府は六波羅の兵5000を送ったが、わずか1000人の赤松軍に敗れた。河内の楠木正成(武田鉄矢)も千早城で六波羅軍に敗れなかった。
そのさなかに、後醍醐帝が隠岐を脱出したので、鎌倉の驚きは一通りでなかった。
足利高氏(真田広之)のもとにも一色右馬介(大地康雄)から「隠岐の帝が島を出た」の知らせが届く。「また大きな戦に?」と不安がる登子(沢口靖子)を「案ずることはない」となだめながら、高氏は直義(高嶋政伸)や重臣達を集める。幕府は、大騒ぎです。楠木だけでなく反北条勢が動くかもしれない。幕府は急ぎ手を打たなければならない。先に送った軍勢が2ヶ月も楠木を攻めあぐんでいる。北条は第2陣を出陣させ、鎌倉が手薄になる。
先帝の隠岐脱出は幕府を揺り動かしていた。金沢貞顕(児玉清)が赤橋守時(勝野洋)に「あれだけ送って、まだ楠木の首が取れん。…… 誰を出陣させるのか、長崎殿に任せてはまずい」と密かに進言する。「例えば足利一族、今回は送らない方がいい。貞氏殿が死んでから何かが変わった。…… もし足利殿に悪心あらば、軍を率いて一旦は三河辺りまで行き、取って返し鎌倉を攻める。」
守時は「足利殿は我が妹の婿ぞ」と言うが、貞顕はあくまで万一の事としながら、長崎が出陣させようとしたら阻止して欲しいと頼む。
幕府評定において、長崎円喜(フランキー堺)は軍勢の内訳を示した。見ると「足利高氏」の名も入っている。
母との会話で北条に立ち向かうことを決意
そのころ清子(藤村志保)は寺に詣でていて、寺の外に出ると、高氏が待っていたので、庭に良い木があると誘う。
清子は「この世には己の力ではどうにもならぬ事がある。それゆえ御仏がおられるのじゃ」
高氏「しかし御仏は表に並ぶ貧しい乞食を救えません。あの乞食を生む北条殿の政を正してはくれない。誰かが世を変えねば。」
清子は「己に、世を変える力があるか分からぬのに、北条殿に立ち向かうのか?世のためにそなたを死なせとうない。世を正すために我が家を失いとうない。」
高氏は正成が「大事なもののために、死するは負けとは申さぬもの」書いていた。戦ってみたい。一方で家族のことを思うと、父上のように何事もなく……。
清子は「この世には己の力ではどうにもならぬ事がある…これもそういう事であろうかのう。足利家はそなたに預けたのじゃ。母は何も申しますまい」と言うのだった。
執権 守時 高氏に出陣依頼しに来訪
高氏が執権殿の来訪を聞き戻ると、守時が、「幕府は西国の謀叛に対し、新たな軍を送ることになり、足利殿にもお入り願いたい。ご意向を伺いたい。」
高氏「行かぬとは申さず」
守時「行かせとうないのだが…らちもない夢を見まして…それがしが足利殿と戦をいたす夢なのじゃ」
高氏「よしんば戦をいたすとしても、赤橋殿は我が兄。敵ではなく、我が味方にしたいもの」
守時「北条は腐り果てたとは言え、我が一族。それがし、これに弓を引くことはできん。愚かな守時よ。…… お受けいただいたと。かたじけのうござる。」
守時が去った後、高氏は「三河の吉良殿に早打ちで使者を送れ。戦じゃと」命じる。
「諸国の足利一門に使者を走らせよ。足利が総力を挙げて戦をいたす。馳せ参じられよ!と告げよ。」大番役で千早城攻めに参加している新田義貞(根津甚八)のもとに右馬介に使いを。
道誉が、足利の監視役になる事に
北条高時邸には長崎父子、貞顕、守時が集まっていた。足利が鎌倉を攻めても、幕府軍が有利と読んでいた。
高時は「外様をまとめて外に出すのは危ないと申すのだろう。… わしの犬は檻の中におるゆえ可愛いのじゃ。噛みつくものは檻の中が良いぞ。」
円喜は、控えていた佐々木道誉(陣内孝則)を呼ぶ。
道誉を高氏より先に近江に戻らせ、兵を整え、高氏と合流して都に入る。
もし、足利軍が三河で反転したら、判官殿が背後を突く。近江と鎌倉の挟み撃ちにするという策であった。
高時に「貞顕 よいの。」といわれ、貞顕はしぶしぶうなずいた。
高時の前から下がった、円喜は道誉に「判官殿、隠岐の先帝の始末は任せていた。それを逃げられた。この騒ぎの元はそこにある。」と責める。
高資が「足利には我らも思うところがある。それゆえあえて鎌倉より出す。しかと見張られよ」
円喜は閉じた扇子を道誉の首に突きつけ、「こたびそむけば、鎌倉にいる一族郎党、みな首をはねる!」と凄む。
その頃、河内の楠木軍は幕府軍の攻勢にじりじりと後退し、金剛山千早城に立て籠もって必死の抵抗を続けていた。斜面を攻め上ってくる幕府軍に、丸太や石を浴びせ妻の久子や侍女達も弓をもち、矢を放った。楠木軍は地の利を生かし僅かの兵で知力を絞って、この砦を守っていた。
この寄せ手の幕府軍の中に新田義貞(根津甚八)もいたのである。
▽まとめ&感想
後醍醐帝 名和悪四郎 阿波の岩松の助けで隠岐脱出。
それに対し、鎌倉は驚き金沢貞顕は足利出陣を不安がる。
母との会話で北条に立ち向かうことを決意。
執権 守時 高氏に出陣依頼しに来訪。道誉が、足利の監視役になる事に。
今回は、隠岐脱出の阿野廉子(原田美枝子)は先帝に小宰相とどちらをとるか迫り、海に突き落とすあたり、石と同様唖然としました。
母との会話、「この世には己の力ではどうにもならぬことがある 」二回出てくるこの言葉の、意味を変えていくのにうまいなと思いました。
来週は、新田義貞が出てくるので、楽しみです。
原作の「私本太平記」ようやく5巻読めました。今まで読んだ本では、足利は嫌われているようで、どうして北条に立ち向かうようになったのか、分かってきました。長いけど、読み応えあり、頑張って読破します。