太平記 29話「大塔宮逮捕」▽あらすじメモ▽

護良親王派と足利側にらみ合い、回避するため尊氏 正成の支持表明願う

建武元年(1334)秋、都は開戦前夜の様相を呈していた。護良親王(堤大二郎)の館には、足利尊氏の台頭を恐れた護良は、反足利勢を結集して一気に決着を付けようとしていた。戦支度をした楠木正季(赤井英和)がやって来て、護良は「楠木、頼りに思うぞ」と声をかける。

一方の足利側も兵を六波羅に集結させ、都は一触即発の殺気立ったものになっていた。足利尊氏(真田広之)、高師直(柄本明)佐々木道誉(陣内孝則)吉良貞義(山内明)らが話し合っていた。弟が立ち楠木正成(武田鉄矢)がどう動くか わからない。関東の武士達はほぼ高みの見物だろうと思われた。

その夜、両陣営は互いの出方を探り合い 双方にらみ合いの様相になった。

そんな時、通りで警戒していた足利の兵達が道に迷ってウロウロしている一行を見つけ、六波羅に連れてきた。それは楠木正成の妻・久子(藤真利子)と長男・正行(まさつら)達だった。
師直は「良き人質 留め置くか」と言うが、尊氏は別の考えがあった。
久子と侍女達はのんきなもので、「あれが五条の大橋!」などと、足利の兵と話したりしている。
そこへ尊氏が現れ、久子正行は挨拶をする。
尊氏が従者が少ないことに驚くと、正成の許しも得ずに、せっかく戦も終わったのに、我が殿は国にも戻らず、お勤めのため 都に居続けているので、さみしかろうと河内より来た。
そして正成が文で都で一人、武家とを選ぶなら 足利の御殿と申していたと言い、その尊氏に会え 本当に都にたどり着いた心地がする と言うのだった。

富小路 楠木亭にいる、正成に、久子達が足利の奉行所へ連れられたことが伝えられ、正成達は驚く。さらに 久子達を足利尊氏本人が、正成の館まで送り届けに来ていることを聞き、神宮寺正房は正季とともに 尊氏を迎え撃とうとするが、正成は「正季にも伝えよ。我が楠木党は宮にもつかん、足利にもつかん。わしの命に逆ろうて戦を起こす者は成敗いたす!」

そのころ尊氏は久子と正行を、敵に襲われないよう牛車に載せ、正成邸へ向かっていた。
尊氏は久子に都の情勢を教え、正季も自分の敵に回っていることを話し、自分が戦を回避したいと思っていることを語った。
正行が 御殿は戦が嫌いか?と尋ね、嫌いでござると聞き、父上と同じでと喜ぶのだった。

楠木正行、このとき9歳。後に尊氏と戦い、23年の短くも波乱の人生を閉じることになる。

尊氏の一行が正成邸に着き、久子と正行を正成は「はるばる良う来た」とねぎらい、尊氏に礼を言う。尊氏は「明日の戦に楠木殿の援軍をたまわりたく」と言い出す。
「どちらにもつかぬ」と拒絶する正成だった。
「お逃げになるのか、戦になれば都が戦場となり、灰と化す ・・戦を止めてみせましょうぞ」という尊氏の言葉に、邸内に上げた。
正成が尊氏の支持を表明してくれれば、弟の正季 他の武家達が護良親王から離れ、戦は避けられると説く。
「戦になればこの立派な館も灰になりまするぞ」と尊氏が言うと、正成は「この館はもともと 何とかという大納言の館、しかし隣の御所が焼けては困る」
正成は庭を見せ、広いが 端から端までまだ歩いていない、庭でなく山だ。帝はここに住み御所を守れと言われた。河内の国司になり、正直荷が重い。北条一門に邪魔されずに市場の交易ができ、河内をこの手で立ち直せる 夢のような話しだ。この夢だけは手放したくない
「北条の世より 帝の御代の方が わしらにとっては はるかに良い。帝の御代を壊そうとする者 があれば黙っては見過ごせん」と正成は言い、
「ただこう申す者がおる。足利殿は鎌倉に幕府を開くつもりだ。足利は北条に化けるつもりだと。河内・大和の者はそれを恐れておる」と尊氏に告げる。
これに尊氏は、正成から聞いた「戦は大事なもののために戦うもの。大事なもののために死するは負けとは言わぬ」という言葉をあげ、己の私利私欲のために戦ったことはないと語気を強めて言うのだった。

尊氏 有力武家招集 正成の助けで 帝の都を戦で焼く企て許せないと決議

翌 早朝 尊氏は都の有力武家に強引な招集をかけた。正成が真っ先に馳せ参じたため新田義貞(根津甚八)名和(小松方正)などほとんどの有力武家が六波羅に馳せ参じた。
尊氏は「洛中で戦の準備をする者がいる。帝のいるこの都を戦の業火で焼き払うくわだて、これは許せない」と言って、都の平穏のための協力を求める。
正成がただちに賛成し、諸将も「いかにも 恐るべし」とこれに従う。
ただ義貞は「我らが力添えをいたすとは いかなることだ?」と尋ねる。
「それがしに従っていただき 戦の張本人を都の外へ 追い払うていただく」と尊氏。
これに義貞は「足利殿に味方せよと言うことか? それがし 武者所に勤めるもの。足利殿の命をうけるのは筋違い」と反発し。
「はて、武者所も都の中にある司。都が灰となっては 何のための武者所ぞ。この足利は 帝より都の守りを命じられし左兵衛督
「御辺の申される張本人は、二品の宮 護良親王であり、 宮には宮の思し召しがあろう」と意見する。
しかし尊氏は「宮の思し召しとは いかなる思し召しだ? たとえ宮であろうが、都に火を付ける者は帝とて、お許しになるまい。それを見て見ぬふりをする者も許せぬ!」

ここで正成が結城や名和の賛同を得る。義貞にも「こたびは足利殿に従うてみてはいかがじゃ」と勧める。
尊氏が「御異存ございませぬな」と言うと、正成が「ははーっ」と即座に平伏し、一同もそれに倣う。最後に 義貞 義助の兄弟も平伏した。

二人だけが残り、「これでよろしゅうござるか?」と言う正成に尊氏は黙って深々と頭を下げる。
正成は 紀伊・飯森山の北条残党による反乱を押さえるために出陣すると尊氏に告げ、留守の間 都と帝を守ってくれと頼んだ。

足利尊氏が有力な武家をことごとく手中に収めた。この情報はあっという間に都中を走った。

「みな逃げたのか…!」味方と思っていた武士達が次々と引き上げし、護良親王は呆然としていた。
正季の姿もいつの間にか姿が見えず、吉野の僧兵大和の豪族達も引き上げた。新田の軍が六波羅に集結してると知らせが届いた。
叡山じゃ!この護良には叡山の兵がある!」と護良は強気を崩さず、「足利め!ついに正体を現したわ!これで帝も私の思いが おわかりになろう。武家と合戦じゃ」とつぶやく。

政のため我が子を足利に委ねる後醍醐天皇

一方、内裏では歌の勉強をする恒良親王のそばで、阿野廉子(原田美枝子)名和長年が密談していた。廉子は「宮はこの恒良を押しのけて、次の御位に就きたいのじゃ。」と言い、長年も「人心はすでに宮を離れたと奏上をなされたら いかがかと」と提案する。

その日、都に不意の初雪が降った。古式にならい 宮中で初雪の宴を開くと、夕刻に護良親王が里内裏に召し出された。
内裏を歩いていた護良はふと足を止めて降る雪を眺め、「雪か、内裏で雪を見るのは何年ぶりであろう。いくさ、いくさであっという間の数年であった。」としみじみとつぶやき、手を伸ばして雪を受け止めた。
そのとき、案内をしていた公家が「申し訳ございませぬ!」と逃げ出した。
数名の武士を率いた名和長年が現れ、護良は身を翻し走り出すが、武士達が取り囲む。
「ここは御座所近くじゃ、下がれ下がれ!」と護良が武士達を一喝する。
長年は「是非もない。お縄をかけろ」と冷たく命じた。
暴れる護良を武士達が押さえつけ、縛り上げられる。
長年が「帝の御命じゃ。御叡慮でござる」と言い渡す。
「御叡慮!? いつわりを申すな!帝はみの 父ぞ!これが御命か!父君ーっ!これが帝の、御叡慮かーっ!みかどーっ!!」絶叫しながら護良は 長年らに連れられていく。

夜になり、雪が静かに降る庭を後醍醐天皇(片岡孝夫)が眺めていた。
「まことにこれでよろしゅうございますか、お上?」と廉子
「朕が思案のすえじゃ。これでよい。都を戦から救うにはこうするほかあるまい」と後醍醐は言う。
「朕の名を使い、各地より兵を集めたとも聞いた。我が子のために政 揺るがせない。朕は帝ぞ」
そして後醍醐は護良の身柄を足利にゆだねるよう命じた。「あれほどの者じゃ。よもや宮を 殺しはしまい」と名和に伝えよ。

足利家に引き渡され幽閉された護良のところへ、尊氏が訪ねて、「かかる仕儀となり、さぞやこの尊氏をお恨みでしょう」と言うと、
護良は「奇妙じゃのう。これは帝の御意志じゃという。子が道を間違うたというのなら、なぜ帝ご自身の手で殺さぬ。なぜご自身の敵に子を渡す。…」とつぶやくように言う。
そして尊氏がいずれ武家を集め 幕府を作り、しこうして 帝と戦うと予言するように言う。
「そちは 武家の棟梁 源頼朝の血を引く者ぞ、武家がそれを望めば そちは公家と戦い 、武家がそれを望めば 帝に抗し奉り、幕府を開くと 欲するだろう。そちにはそれだけの器量がある。それゆえ、殺しておきたかった。」そう言って護良は自嘲するように笑う。

「望むと望まざると、まろは帝の子。そちは武家の棟梁。それゆえ、あい争うた。そして、負けた。むなしい 限りじゃ 」うつろに語る護良を、尊氏は涙を浮かべ黙って見つめた。

翌11月、護良親王は足利尊氏の手により、直義がいる鎌倉へと送られた。都に置けば宮派に奪い返される恐れがあったためである。 出御なる。
この事件は足利尊氏の実力を見せつける形になり、武家も公家も急速に警戒の念を深めることになった。

▽まとめ&感想

護良親王派と足利側にらみ合い、回避するため尊氏が正成の支持を願う。
そして尊氏 有力武家を招集し正成の助けで新田義貞を説得 帝の都を戦で焼く企て許せないと決議した。後醍醐天皇は政のため我が子を足利に委ね、護良親王は鎌倉に送られた。

突然 正成の妻と子が京に現れ、尊氏が牛車で 正成の元に行きました。
直接 正成にお願いし 新田義貞を説得でき、ついには 護良親王は、都に火を付ける者になってしまいました。