『義貞の旗』あらすじメモ&感想 太平記 新田義貞の生き方

集英社文庫 安部龍太郎著『道誉と正成』に続いて『義貞の旗』を読みました。
帯には、士道太平記
暴政を為す幕府を倒し、帝の新政を実現せよ。
この国の礎が築かれた時代、何が人々を突き動かしたのか

『道誉と正成』の続きかと思ったら、新田義貞が中心の太平記でした。
同じ人物でも描かれ方がぜんぜん違う事に驚きました。

第一章 京都大番役:義貞は京都大番役を命じられ鎌倉に

新田荘は赤城山の南の麓の、利根川流域にあった。
新田義貞の新田宗家は安養寺に広大な屋敷を持っていた。
元寇以来、元との交流が活発となり、論語など読まされていた。
脇屋義助、堀口十三郎、妻 知子(常陸 小田城主 真知の娘)、
子 太郎(後の義宗)、執事 船田入道義昌

月田右京亮 .. 多重債務の御家人
分家 岩松経家(4代前 足利家から婿養子に 幕府内の地位、新田義貞より上)
分家 世良田宿の 世良田入道義満 (菩提寺の長楽寺を隠れ蓑に、所領を集めていた。)

京都大番役(内裏や院の御所の警護に当たる)が回ってきた。20年に一度が通例で、7年前につとめていた。経費は自分持ちで、150貫必要でしたが、やりくりがつかず、やむなく、月田右京亮より強奪して調達。

1332年 9月 大将は岩松経家で、新田義貞 、世良田義満の嫡男・兵庫助らが出発し鎌倉についた。
侍所所司の大仏高直をたずねた。

昨年 8月 後醍醐天皇の謀反で、笠置(かさぎ)城を攻め落とし、隠岐に流罪とした。
持明院統の光厳天皇を、守らなければならない。
また後醍醐天皇の皇子、大塔宮 護良親王楠木正成と行方をくらました。これを捕らえるのが急務です。
本来は、佐貫の荘のつもりでしたが、渡良瀬川が氾濫、変わってもらった。
実は、佐貫の荘 太田貞友が義父・大仏貞直に泣きついていた。

足利高氏の本拠地の足利荘は、新田荘の東側にあり、渡良瀬川を境としていた。
同じ源氏の一門で、八幡太郎義家の孫・義重が新田荘を、その弟が義康が足利荘を開いていた。
高氏の弟・足利兵部大輔高国(後の直義)は、兄のように陽気な人付き合いは出来ないが、深謀遠慮をめぐらした駆け引きなら人後に落ちないと自負していた。
高氏が、新田荘に餞別を30貫文と指示、高国は岩松経家に手形を渡し、先帝方の動きを探るよう、別に50貫文渡した。

後醍醐天皇 側近 千草忠顕、阿野廉子、世尊寺行尹、房子
皇子 大塔宮 護良親王、山海坊

鎌倉幕府 …… 執権 北条守時安藤入道聖秀
六波羅探題……北条仲時、名越遠江入道

大塔宮方———
新田義貞……弟 脇屋義助、堀口十三郎、妻 知子、子 太郎(後の義宗)、執事 船田入道義昌、月田右京亮 、岩松経家、 世良田入道義満、側室 宣子、徳寿丸
楠木正成、赤松円心、三男 則祐、名和長年

足利方———
足利尊氏……弟・兵部大輔高国(後の直義)、執事・高師直(こうもろなお)
佐々木道誉

第二章 上洛:鎌倉で宣子と徳寿丸と過ごし上洛

義貞は主発前に、先妻の叔父安藤入道聖秀の庵を訪ねた。
ここには、側室の 宣子(上州一ノ宮の抜鉾神社の神職の娘・正月の流鏑馬に巫女の姿で参加)と徳寿丸に久しぶりに会った。甲斐武田家の当主が、宣子に気を寄せていたので、義貞に目をつけていた。

誰を大将にするか、もめていた。初め、金沢貞将殿だったが、固辞され、大仏高直に打診、そこで補佐役として聖秀に声が掛かったが断った。

帝が、征夷大将軍を任命し、将軍が執権を任命するのが道理なのに、
執権が、天下の権をもち、将軍と帝を意のままにしている。
執権の制度は、3大将軍・実朝公が急逝されたため、便宜にもうけたもの。
ところが外戚の北条家が独占、天下の権をほしいままにしている。

大仏高直を大将に京に向かった。義貞に武田勢の嫌がらせが相次いだ。
六波羅探題の北条仲時らに挨拶、都の人心は幕府から離れ、先帝の還御を願っていた。

第三章 世尊寺房子:世尊寺家の牛車を助け、捕まり、放免・多くの出会い

持明院の御所、仙洞御所とも呼ばれ、当代の父 後伏見上皇と、叔父 花園上皇が住まわれ、流罪となった後醍醐天皇を支持する人からは、仇敵視されていた。
寒さをしのぐ炭は、坂東から来たものには高かった。
義貞は公家のものらしい牛車を六波羅の役人栗山備中から助けた。牛車に宣子に似た女性が乗っていた。六波羅北の政庁の人屋(牢)に入れられ、ひげ熊と、千阿弥と、知りあった。
何日か過ぎ、詮議が行われ、争った六波羅の役人栗山備中南の検段の隅田次郎左衛門道治も臨席。あの日妙心寺で世尊寺行尹(せそんじ ゆきただ)卿が神護寺の僧と密会の報があり、行尹卿は先帝の信任が厚かったので、車が出てきたとき呼び止め、威丈高に取り調べてた。そこへ、義貞が力ずくで注意した。世尊寺家に仕える青木左馬助が証言してくれた。義貞は放免となり、わびとして、一緒にいた二人も放免された。
ひげ熊は粟田口で、頭領をしており、米と炭を大量にくれた。
青木左馬助は扇を1本届け、晴明神社に招いた。世尊寺行尹は安藤入道聖秀と知り合いだった。房子が聖護院の山海坊と戻ってきた。山海坊の元に、さる方の使いで、岩松経家が来ていて、畿内の様子を逐一教えて欲しいと頼まれていた。

楠木正成護良親王が紀伊、大和、河内の身方をつのり、今月内に兵を挙げるとのこと。赤松円心、名和長年も身方につくなら、先帝を隠岐から救い出せる。

第四章 大塔宮護良:義貞は楠木正成の千早城攻撃、大塔宮と出会う

1333年 正月 六波羅探題で、新年の顔合わせに、義貞も参加した。
検断の糟谷宗秋の話では、大塔宮護良が吉野で、楠木正成が、河内の千早城で兵をあげた。これに、紀伊、大和、河内の悪党や土民が加わり、三,四千人の勢力になっている。大塔宮の兵は大和川を下り、山崎まで姿を現し、正成らも赤坂城を奪回して、泉州・堺まで兵を進めている、
長崎と阿曽が率いる3万5千の兵が上京。
六波羅は、隅田次郎左衛門を大将とし、5千の兵を摂津に送った。
義貞は、敵情視察で、摂津の四天王寺にいた。堀口十三郎が配下の忍びを使い戦況を調べていた。隅田殿は、敗退していた。正成軍は工夫した半弓と槍を使っている。
隅田軍がなぜ攻めぬのか、見ていると、強雨を避け雨宿り。(鎧や鞍が濡れると手入れが大変)。正成軍がここを狙って攻め込み、逃げようとする隅田勢が押し寄せる舟橋を固定する綱を切った。多くの隅田勢が犠牲に、その中で義貞は、栗山備中を助けた。

義貞勢に出陣命令が出た。大仏高直の指揮下、楠木正成のいる千早城の攻撃に向かった。この方面の大将は、長崎四郎左衛門で、総勢二万。新田勢の指揮を執るのは、岩松経家。行軍とはいえ、登山だった。自分で、鎧櫃を背負い、足軽には武器を、人足には兵糧を運ばせた。
千早城四の丸で評定が開かれた。佐々木道誉もいた。堀口十三郎が城の見取り図を作ってきた。ここは天然の要塞で、大和国五条と河内国富田林を結ぶ最短の千早街道が麓をとおっている。
名越勢が楠木勢に奇襲され、紋の入った旗など奪われ、さらされた。名越勢が馬の白菊を頼んで、死を覚悟し突入全滅した。大番役は後方部隊に回った。
山の中に攻め入るよう進言したのは、佐々木道誉、兵糧の輸送を一手に引き受け、長引くほど儲かると言われてた


大塔宮は吉野から脱出。後醍醐天皇方の摩耶山に立て籠もっていた赤松円心が京に向かった。新田義貞は堀口十三郎の見つけた、千早城への間道を上ると、山海坊に案内され、大塔宮 護良親王に出会う。幕府を倒し、帝の親政で誰もが平等で暮らせる世を築かねばならない。義貞は魂を打ち抜かれた。

第五章 旗挙げ:義貞は大塔宮・楠木正成に協力幕府に反旗

後醍醐天皇名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国(うきのくに:鳥取県倉吉市)の船上山に入った。
千早城の楠木正成は窮状を極め、大塔宮は新田義貞に協力を求める書状を出した。

義貞は、綸旨をもらい四の丸の兵糧米を空堀に投げ込み、新田荘に急ぎ帰った。越後の新田一族に挨拶し堂鳩を預かってきた。。岩松経家が足利高国に挙兵を伝えていた。
経家に幕府からの使者が来た。平塚郷を没収し、長楽寺に寄進せよ。上洛軍の費用6万貫負担せよ。幕府の徴税吏が世良田義満の屋敷に乗り込み、1万貫出すよう迫った。助けを求められた、義貞は徴税吏を撃退。
もはや、幕府に対して、兵が挙げるしか我らの生きる道がない。
足利に岩松経家が挙兵を伝えても幕府に報告しなかったのは、足利も挙兵を考えていた。足利荘にいる千寿王も共に立とう。越後の一門衆に堂鳩を放った。

第六章 分倍河原:義貞軍は鎌倉街道を南下

清和源氏の嫡流新田義貞は33歳だった。
安藤聖秀より、新田討伐隊を出陣させるようだと、書状が届いた。
5月8日、帝の御為に……、新田義貞出陣、岩松経家ら、世良田兵庫助、越後の一門が加わり、上野の国府(前橋市)に乱入、米や銭を諸勢に分けた。
翌日、足利の4歳の千寿王も岩松経家と共に来た。

時の勢いは凄まじい。鎌倉街道を南下し始めた、義貞勢に続々加わり、3万となった。
5月11日小手指河原で幕府軍に圧勝。逃げた兵を討つため、分倍河原で戦った。苦戦したが、相模の三浦義勝が加わり、勝てた。

六波羅探題が後醍醐天皇方の軍勢に攻め落とされ、北条仲時以下432人自害。
上洛した足利高氏が後醍醐天皇方に寝返った。

宣子は男装束に着替え、徳寿丸を胸に結び、聖秀に別れを告げ、鎌倉から落ちた。

第七章 鎌倉攻略:義貞軍は鎌倉を稲村ヶ崎から攻略

挙兵から、9日、新田義貞の軍勢は、藤沢宿に。総勢10万を超えていた。四つの切り通しに軍勢を分けることに。大仏坂は、足利の千寿王。小袋坂は堀口・世良田。化粧坂は義貞・義助。極楽坂は大館・江田氏。どの切り通しも攻めあぐねていた。
鎌倉は、武家の聖地、攻めているのは、雲の上と仰ぎ見ていた大名・武将達。言いようのない緊張と重圧があった。稲村ヶ崎から、大館殿が入ったが戻れず討ち死。

名越の白菊に宣子と徳寿丸が乗って現れた。
大潮で稲村ヶ崎から攻めた。実朝の防波堤が現れ、由比ヶ浜に上陸、攻め込み、各切り通しが、前後から攻められ、破られた。北条高時、長崎円喜が東勝寺に集まり、抵抗するも、自決した。執権館で安藤聖秀も自決。

第八章 論功行賞:建武の新政で足利尊氏 新田義貞 重用

鎌倉攻略から2ヶ月後、新田義貞は、一万余りの軍勢を連れ都に向かった。
後醍醐天皇の御世始めの除目を行う、併せて、諸将の論功行賞を行うので、上洛するよう朝廷からお達しがあった。
千早城攻めの陣所から抜け出して、5ヶ月も経っていない。
宿所は、壬生寺で一万余りの軍勢がそのまま入れた。
粟田口のひげ熊は、上洛祝いに、米、野菜、酒、薪などを大量に持ってきてくれた。

翌日、大塔宮が身を寄せている下鴨神社に向かった。山海坊が迎えに来た。
大塔宮から関東での働き大儀でした。綸旨をいただいたからできました。
私の発行した、綸旨が無効だと父君が言い出して、申し訳ない。

匂当内侍で帝の側にいる、世尊寺房子に文を書き、堀口十三郎に持たせた。口頭で返事があった。帝と宮様の仲を裂こうとしているのは、女御の阿野廉子足利兄弟
足利兄弟が大塔宮の征夷大将軍職を奪いたがっていた。源氏の幕府を開きたく、だからこそ多くの武士が集まっていた。
足利兄弟は、従5位左兵衛守に任じられ、尊氏、直義の名を賜った。

8月5日 足利派、大塔宮派は分けられ、後醍醐天皇の着座後、千種忠顕が恩賞の沙汰を読み上げた。
筆頭は、足利尊氏は従3位鎮守府将軍に任じ。常陸、下総、従来の上総、三河。
直義は、従5位上 左馬頭、相模、遠江を知行。
次は、新田義貞は従4位上 上野、播磨が、嫡男・義顕は越後、弟 義助には駿河が与えられた。
倒幕の立役者・楠木正成は従5位上 河内、和泉のみ
大功の赤松円心は叙位もなく、本貫の佐用荘が与えられたのみ。
愕然と肩を落とす、大塔宮派だった。

しかし、建武の新政が混乱のなかで始まった。
いきなり4カ国知行と言われ、戸惑った。 上野・越後は執事の船田入道義昌に目代(もくだい)を任せ、駿河は義助が目代、播磨は赤松則祐に目代を頼んだ。

新田義貞山海坊大塔宮の参内が停められたことを知らせてきた。
陣定めで、都で幕府を開こうとしたが、尊氏が病気を理由に参加しない。全員参加でなければ開けないので、計画は潰された。尊氏を罷免するよう帝に求め口論となった。

大塔宮は、新田義貞に、楠木と赤松と共に、足利尊氏を討つことを願った。

数日後、開かれた陣定めに、尊氏が参加し、大塔宮の将軍職が解かれた。

第九章 帝の信任:新田義貞は後醍醐天皇に面会

新田左兵衛督義貞は夢にうなされていた。
後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子が、継子・護良親王を排斥していた。
大塔宮 護良親王が捕らえられ、足利直義が執権となっている鎌倉に流された。

1335年 中先代の乱で、北条高時の遺児・時行が諏訪頼重らに奉じられ叛乱を起こした。帝の親政に失望した東国の武士が、鎌倉を攻め落とした。
8月2日 京に居る足利尊氏は、時行軍を討伐するため、征夷大将軍に任じてくれるよう求めたが、は許さなかった。
尊氏は許しを待たず、5万の兵と共に鎌倉に向かい、半月以上経っても連絡がなかった。
8月末、尊氏からの知らせでは、鎌倉を攻略、北条時行勢を敗走させた。しかし、大塔宮の行方は分からないままだった。
後醍醐天皇は、尊氏に北条討伐の恩賞として、従二位の位を授け、上洛するよう命じたが応じなかった。
尊氏は新しい幕府を開こうとしていた。
新田義貞は、世尊寺房子に呼ばれ、世尊寺行尹のもとへ。
足利直義大塔宮が弑されていた。義貞は、足利を討伐する大将を打診された。
大膳坊(栗山備中)が、放免頭になっていたので、義貞は、山海坊に会わせてもらった。
義貞は、山海坊から大塔宮の彫った白木の不動明王を受けとった。
世尊寺行尹からの使い房子が来て、東山の蓮華王院三十三間堂で後醍醐天皇に面会。
大塔宮にそっくりで、「護良が世話になった」とねぎらいの言葉があった。
そして、「なぜ引き受けぬ」と言われた。
新田義貞は「引き受けよう、俺のためだ。宮様から頼まれたんだ。父君を頼むって」
匂当内侍を連絡係と使うよう命じられた。

第十章 箱根 竹下合戦:足利尊氏追討のため箱根で合戦

新田左兵衛督義貞後醍醐天皇のお召しによって、参内し、足利尊氏追討の宣旨を受けた。
義貞は総勢6万7千を率いることになった。二条富小路の内裏から、前後を華やかな騎馬武者に囲まれた、輿が出てきた。東征軍の総大将である一ノ宮尊良親王の輿であった。
義貞にとって、足手まといになりかねないが、の推し進めている、天皇親政、天下統一の象徴として、動向を迫られた。
義貞は大番役で上洛以来3年、大将軍になった。粟田口のひげ熊が兵糧を運ぶため、馬500余り用意していた。大膳坊が指揮をする放免隊300余名が加わった。
一刻も早く鎌倉に着きたかったが、近江の柏原宿で公家の一人が途中、墓参りを言い出した。義貞は、足利軍勢は三河あたりで、我が軍を迎え撃つだろうから、打ち払いつゆ払いをします。後から、ゆるゆるときていただきたいと義助と嫡男・義顕を残した。

矢矧川(岡崎市)で義貞は、足利兄弟のいない高師直の指揮する足利勢を矢矧川で攻め込んだ。
天竜川沿いの鷺坂での合戦でも勝ち、尊良親王の本隊と合流、降伏したものを加え十万にもなっていた。
足利尊氏が、戦いを避け参籠している噂が拡がっていた。
12月5日 義貞は、駿河の丸子川の西岸まで進み、対岸には、足利勢が5万布陣、直義も参陣していた。義貞は、義助に指揮を依頼、十六騎党と名付けた精鋭馬廻り衆と放免衆を連れ、上流に渡り、身を潜め、手越河原の足利勢の寝込みを襲った。
義貞は、安倍川を渡ろうとしていた、大塔宮を殺した直義を、掴み連れ去ろうとした。脇にいた、細川顕氏、佐々木貞満が応戦。道誉の弟 貞満が切りつけられ亡くなった。
直義は武将に向いていないと、常々思っていたので、鎌倉に帰った。

12月9日 手越河原の戦いで大勝した義貞らは、三島に着いた。
驚いたことに道誉が1万の兵を連れ降人された。途中墓参りした,近江の柏原は道誉の本拠地で丁重なもてなしを受けていた。
義助は、本隊を率いて、竹下に向かってくれ。敵は足柄峠を越え竹下に出ようとする。麓に柵を築いて、弓隊を配して出口を塞げ。道誉隊には、柵の守りに入ってもらった。
ところが、道誉隊が寝返り、敵と1手になって攻めてきて、義助の本隊は大敗、三島に敗走。

第十一章 京都争奪戦:新田隊足利隊京で争う

新田左兵衛督義貞は12月下旬、木曽川のほとりにいた。(当時木曽川と長良川は墨俣で合流、川幅220m以上あった)
尊氏は、15万の兵を連れ、三河の矢矧に到着したという。
都から、勅使が来て至急帰洛するよう伝えられた。
佐々木道誉の北近江をどうやって通るか、問題だった。粟田口のひげ熊が馬借や車借は中山道をよく通るので、道誉の配下の者とも顔なじみなので、先に通ってみると言う。
新田隊は、何事もなく北近江を通過し、都に戻れた。

後醍醐天皇が、心細くなり帰洛を求めていたのだった。
1336年 足利勢 15万は北近江に到着、源氏の 氏神 石清水八幡宮に布陣しようとしていた。
新田勢は、淀の大渡しで圧勝したものの、義助軍が山崎で総崩れに。
後醍醐天皇が上皇達と東坂本に逃れた。
義貞は奥州の北畠顕家と合流、足利軍の三井寺を攻め、比叡山の大衆が加わった。
義貞軍は京の足利軍を攻め続けた。
佐々木道誉軍が、鹿ヶ谷に向かっていた。

第十二章 それぞれの心:楠木正成は足利尊氏と和解を考え、帝は畿内固めたい

新田義貞は摂津の豊島河原(大阪府池田市)の戦いで、足利尊氏軍を打ち破り、九州まで、敗走させた。
義貞は、奇妙なことに、相手の顔を見、目を合わせただけで、相手の心が分かるようになっていた。
後醍醐天皇に対面し、足利方は九州に落ち延びた。博多の港を押さえられては面倒なことになるので、一刻も早く追討の軍を送っていただきたい。
当時日本では鋳造せず、元から輸入した銭を流通させていた。
帝は、畿内が治まっていないと義貞を行かせなかった。
上皇方も不満をつのらせていることが気になっていた。
陸路の総大将に、楠木正成が任じられたが、華々しい働きをしたが、山岳戦に長けた土豪に過ぎず、大将の器でないという意識を持っていた。

尊氏は博多近くの多々良浜で、天皇軍を破り、北部九州を征服し、元との貿易を支配し、自由に銭を使用できた。
鞆の浦に名和の水軍を出し、足利方に寝返った播磨の赤松円心の白旗城を攻めることにした。
奥州の北畠顕家が戻ることになった。
楠木正成足利尊氏と和解するよう帝に奏上していた。
新田義貞楠木正成を訪ね、正成から、3年前の御礼を聞いた。
正成は、帝の元で足利尊氏に、幕府を開いていただいて、帝の理想と武家の幕府が折り合う制度を作ってもらいたいと思っていた。
正成は、信じたもの、義、約束を貫くのが、男の義。義のために命をかける。
正成を、十三郎が追いかけていた。正成阿野廉子と会って、上皇尊氏に「早く上洛を遂げ、天下の清謐を成し遂げるべし」と院宣の文を渡していたことを知った。

第十三章 帝のゆくえ:九州から迫る足利尊氏に、正成 湊川で敗れ、帝は比叡山へ

1336年5月新田左近衛中将義貞は、加古川西岸にいた。
九州から攻めてくる足利尊氏勢に備え、総勢6万の大軍を率いて出陣したものの、播磨の赤松円心の白旗城を攻めあぐね、日数を費やしていた。
足利尊氏は水軍を率いて、鞆の浦に入り、直義は福山城を落としていた。
義貞は、弟の脇屋義助に4万の軍を授け、船坂山、三石に派遣していたが、兵庫まで退却させることに。
正成は、少人数で出陣していた。先が無いと諦め、桜井で嫡男正行に兵を付け、帰した。ここで、私と義貞殿が討ち死にすれば、帝はこの戦には、勝ち目がないと諦め、足利と和議を結ぶよう、廉子様に尽力いただくつもりだった。
義貞は、兵庫に配して、登場する足利軍に向かった。ここを死に場所とした正成主従は、強かったが、多勢に追われ、湊川近くで楠木正成主従とも切腹
新田勢は、苦戦をしいられていた。まだ戦えるのは、義貞の嫡男・義顕義助の嫡男・義治率いる馬廻り500騎くらいだった。
どんな強敵であろうと、どんな不利な状況であろうと、敵に向かって、命の限り戦い抜く。それが信義をを守る武士の道だった。
義貞は敗戦の兵5千余り集め、丹波路から洛中に入った。
湊川での敗戦を聞いて、後醍醐天皇達は東坂本に臨幸された。軍勢の多くは従い、見限ったものは、領国に引き上げていた。残されたのは、荒れはてた都だった。
粟田口のひげ熊が東寺で、炊き出しの用意をして待っていた。
翌朝、義貞は東寺から赤山禅院、雲母坂を登り比叡山に(今路越えの道)向かった。
千草忠顕が上皇様達を探していた。
次の日、足利直義は、上杉重能、細川顕氏ら2万の兵を率い東寺に入った。
上皇達は、赤山禅院に身を寄せておられる事は、正成からの密書により知らされていた。直義は、豊仁親王(後の光明天皇)に即位委いただくつもりでした。
案じているのは、帝との和睦、神器を受け継がなければならない。
朝廷の作法に通じている上杉重能が、用意万端整え、警護に当たった。
足利尊氏は、石清水八幡宮に,入って戦勝の酒宴を開いていた。
直義は、兄に「今日中に上皇様に対面して欲しい」というと、尊氏は「ここに連れてこい」という。
「上皇にここに来てもらった方が、誰が天下の主か分かる」と円心が言った。
直義は、我々が 真っ先に上皇を敬わなければ、新しい帝を擁立できないと咎めた。

第十四章 再起への道:後醍醐天皇は偽りの三種のご神器を渡し、義貞は新帝と越前へ

秋が深まり、新田左近衛中将義貞は、坂本で1門の諸将と評定を開いていた。
湊川の戦いに敗れ、京都を放棄して天皇方は苦戦を強いられていた。
近江と京都の両側から攻められ、食糧や薪に困っていた。
匂当内侍から伝言があり、後醍醐天皇に案内された。帝は、足利尊氏から和議の申し入れがあり、三種のご神器を引き渡すなら、罪は問わず、元の官位所領を約束するというが、信用ならない。

の計略は、尊氏を逆手に取り、偽りの和議を結び、時間を稼いで春を待つ。
その間に、地方の武士の旗頭になって挽回を図る。北畠も馳せ参じよう。
東宮の恒良親王に譲位し、三種のご神器を渡し、義貞と共に下向させよう。
新帝の母は阿野廉子で、兄の尊良は官将軍になるよう。

この大八島を一つにまとめて、争いのない国にするには、誰もが正統と認める神聖にして絶対的に正しい方の存在が必要だった。中国の周王朝、漢王朝の思想に学び、神の子孫がこの国を治めているという神話を作り上げた。

今路越えの道を後醍醐上皇は洛中に向かった。義貞・義助の鎧兜を着け、新田本隊が守護してるよう見せた。
義貞は、1行を見送った後、新帝の輿を守護し坂本、湖西の道をたどって越前に向かった。従うのは、尊良親王、公家衆、義貞 義顕親子、義助 義治親子、堀口貞満ら八千人余り。金ケ崎城の気比弥三郎様が行在所を整えて待っていた。

後醍醐上皇は都を抜け出し、吉野の金峯山に向かわれた。
年明け早々、足利方 斯波高経、高師泰が攻めてきた。新帝が熱を出し義貞が薬師を探すため出かけた隙に金ケ崎城が総攻撃を受け、尊良親王、義顕が討ち死に、新帝は 足利方に捕らえられた。

第十五章 義を受け継ぐ者:新帝から三種のご神器が後醍醐天皇へ、北畠頼家を中心に南朝の体制を整えた

敗戦から半年 、再び秋になっていた。
義貞、義助の嫡男・義治は越前の杣山城(そまやまじょう)にいた。北畠頼家は奥州から義貞の故郷上野に向かい、次男 徳寿丸が一族郎党5千を率い、母親の宣子と加わることになっていた。
義貞は、尊良親王、義顕らの法要を行っていたところ、堀口十三郎が世尊寺房子を連れてきた。新帝は、三種のご神器を吉野の上皇に届けるよう命じられ、ほとぼりが冷めるのを待ち、無事届けた。
上皇は、重祚の儀を行い再び、になられ、南朝初代となった。。新帝は花山院に幽閉されている。

北畠頼家は鎌倉を目指したが、下野国小山で、上杉憲顕と2ヶ月近く合戦、徳寿丸の部隊が加わったことで、鎌倉を攻め落とし、美濃に向かっていた。
義貞は越前で苦戦していたが、義助に勧められ、堀口貞満ら三十余人で美濃に向かった。
青野ヶ原(岐阜県大垣市)には、足利軍の土岐頼遠、高師冬に布陣。
義貞北畠頼家軍に加わり、徳寿丸宣子と再会。北畠頼家大塔宮が、奥州に難を避け、生きていると教えてくれた。
足利軍に、上杉憲顕、佐々木道誉も参戦。
義貞は宣子の馬に乗る徳寿丸に戦う姿を見せた。天皇軍は優勢であった。
退却を始めた関ヶ原の不破の関で、佐々木道誉が身方を犠牲にして、門を閉めた。

新たな降人を加え7万余りの北畠軍勢は、徳寿丸をつれ吉野に向かった。
義貞は越前に向かった。

半年後、新田義貞討ち死に。
徳寿丸は、後醍醐天皇に拝謁、御前で元服して、新田義興の名を与えられた。

▽まとめ&感想

鎌倉幕府の倒幕から南朝成立までを、新田義貞後醍醐天皇の視点で描いた物語。
『道誉と正成』と同じ事を扱っても内容が違いました。
まっすぐな、新田義貞はストリーが読み易かった。足利尊氏、道誉が散々な扱いでした。
それにしても、長い戦い、『太平記』まだまだ続きます。

義貞は京都大番役を命じられ鎌倉に、鎌倉で宣子と徳寿丸と過ごし上洛。
世尊寺家の牛車を助け捕まり放免で多くの人に出会った。義貞は楠木正成の千早城攻撃、大塔宮と出会う。
義貞は大塔宮・楠木正成に協力幕府に反旗、義貞軍は鎌倉街道を南下、 鎌倉攻略。
建武の新政で足利尊氏 新田義貞 重用され、義貞は後醍醐天皇に面会。
足利尊氏追討のため総大将になり箱根で合戦、新田隊・足利隊京で争う
楠木正成は足利尊氏と和解を考え、帝は畿内固めたい。
九州から迫る足利尊氏に、正成 湊川で死亡、敗れた帝は比叡山へ。
後醍醐天皇は偽りの三種のご神器を渡し、義貞は新帝と越前へ。
新帝から三種のご神器が後醍醐天皇へ戻され、北畠頼家を中心に南朝の体制を整えた。

長い戦いの連続で、そこまでのいきさつがうなづけました。皇室のあり方があったり、武士の義が有ったり読み応えがありました。