高氏 鎌倉で妻子と別れ、高時らに挨拶し出陣
元弘3年(1333)3月27日、出陣の朝、足利高氏(真田広之)は庭に出て厩の前で、一人で蹴鞠を始める。
高氏は直義(高嶋政伸)と高師直(柄本明)に、「わしは北条殿を討とうと思う」と改めて決意を打ち明ける。「我らは裏切り者の刻印を終生負わねばならん。…わしは源頼朝公に習いたい」
直義「裏切り者の刻印、喜んで負います!」
師直「望むところでございます。」
「よし!」鎧姿となり、盃を叩き割って高氏らは屋敷を出る。
屋敷の中を歩きながら、高氏は父・貞氏を思い浮かベていた。
人質として残される登子(沢口靖子)と千寿王に高氏は「帰ったらまた馬に乗せてやろうぞ。母を頼む。」と言い残した。
幕府では北条高時(片岡鶴太郎)以下、一同が高氏の出陣を見送るため待っていた。なかなか来ない高氏にいらつく長崎高資(西岡徳馬)。
ようやく高氏の軍勢が到着し、馬を下り、「お下知により、西国に参ります。」と出陣の挨拶。
高時は出陣のはなむけを贈り、「頼みに思うぞ」と声をかける。
にらむように見る長崎円喜(フランキー堺)。安心したようにうなずく金沢貞顕(児玉清)。不安そうな赤橋守時(勝野洋)。高氏たちは、それぞれを複雑な思いで見ながら、馬に乗って鎌倉を旅立つ。
幕府から、後醍醐帝の討伐を命じられた足利軍は二百数十名の軍勢で鎌倉を発った。
この知らせは、疾風のように諸国を駆け巡った。
後醍醐帝 名和長年に帆掛け船の家紋を授ける
一方、伯耆の国(鳥取県西部)・船上山(せんじょうせん)にも、その知らせは届いていた。隠岐を脱出した、後醍醐帝(片岡孝夫)は名和長年(小松方正)に守られていた。
足利が後醍醐側につくとの知らせが岩松経家(赤塚真人)から届いており、千種忠顕(本木雅弘)は足利は源氏の棟梁、これが立てば諸国の源氏が味方になり、一気に世の中は動くことになると伝えた。
阿野廉子(原田美枝子)「都への還御は間近でござりまするぞ」と喜ぶ。
この名和長年、もとは「いわし売り」と言われ、御厨海岸を根拠地に漁業を行い海運業を営んでいた豪族である。一条行房が「帝がお召しじゃ」と伝えに来ると、長年はツバを手につけ、髪をなで金の入った袋を御礼に渡し、向かった。
長年が御座所にやってくると、後醍醐は「帆かけ船」の絵を描いていた。「これを家紋とせよ」と渡した。
高氏 足利王国の三河で共に戦うことを確認 祖父 家時の置文を読む
4月4日。足利軍は、途中で地方の一族を加えながら、三河国に入った。三河は代々足利家が守護を務め、いわば「足利王国」であった。
三河・矢作宿(やはぎ)に到着、分家19家のあるじが勢揃いして、若き宗主、高氏を迎えた。
今川範国(ドン貫太郎)と吉良貞義(山内明)によってまとめられていた。兵の数を3100と報告する。これに高氏が連れてきた500、西国の丹波・美作の兵を併せて五千から六千の兵が揃うと見込まれた。
吉良貞義「あとは我らが誰を相手に戦をいたすか、それによって諸国の源氏が馳せ参じましょう」
高氏は改めて「我らの敵は北条殿。戦の相手は北条殿じゃ!」と宣言する。
貞義が平伏して、「それはまた良い敵。戦を致すに不足なき相手じゃ!諸国の源氏も我らに味方しましょうぞ。」
高氏「共に戦うてくれるか?」と問うと
「一同、そのつもりでござります! オオッ!」と応じた。
高氏は高師直(柄本明)に、北条のため、無念の死を遂げた祖父・家時の置文を用意させる。
「今日こそ皆とともに読もうぞ!」と高氏は祖父の置文を開き、ゆっくりと読み上げていく。
「故あらばこそ、ここに書き置くなれ…死するに当たり我より後の子に託す。我に代わって天下を取 り、遠祖の遺沢を成し遂げよ。我、青雲を思うや多年、しかれども我に徳なく夢むなしく破れ、わづかに家名を守らんがため、一命をなげうつのみ。我より後の子 に託す、我が意を継げよかし。我に代わりて、天下をとれ!」
高氏の真意は、密かに諸国の足利一門に伝えられた。
同時に、船上山にいる後醍醐帝に北条討伐の綸旨を求める使者を送った。
高氏に、右馬介(大地康雄)は「本日あるを夢見て、お仕え申し上げておりました…」と感激を述べる。高氏は、御礼を述べ、「鎌倉のこと、よろず頼むぞ」
高氏 近江の不破関で佐々木道誉に六波羅攻めを話す
近江は鎌倉勢が京へ入るための要所で、西と東をつなぐ自然の関所で、佐々木氏が支配していた。
足利軍が不破の関にさしかかると、佐々木道誉の兵達によって閉ざされており、近づくと矢を射てくると物見が報告してくる。
さては妨害する気か、直義と師直は陣を敷いて軍議を行おうとするが、高氏は「兵を半里ほど下げよ」と命じ、「判官殿に挨拶に行ってくる」と師直とわ ずかの兵を連れて関所へと向かう。
矢を向けられる中、師直が「もの申す!」と門に入り、高氏が探し回ると、派手な鎧の道誉が待っていた。
高氏「かかる姿で、恐れがましい。鎌倉に命じられて、戦に参る故この姿よ」
道誉「鎌倉殿の命でな、足利殿に万に一つも謀叛の動きあれば討てと言われていた。」
高氏「北条殿もとんだ気を遣われる。足利を外に出さねば良いものを」
道誉「外様の足利を駆り出すとは、ぶざまよ」
高氏「その北条殿にまだ未練をおもちの、御辺もなかなかのぶざまじゃ」
道誉「そのぶざまな田舎大名に、助けを求めねば、鎌倉を攻められぬ、源氏の大将もおるでな!」
高氏「鎌倉をまず攻めるつもりはない。京の六波羅探題を攻める」と、地図が書かれた屏風を動かす。
屏風の陰に兵が隠れていた。そして他からも兵が飛び出す。
高氏は気にもせず、屏風を倒して道誉に説明し始める。
六波羅を落とせば、鎌倉は頭だけで死んだも同然であると高氏は説く。「兵を貸せとは言わん。ただ黙ってここを通してくれればよい」と頼む。
高氏「これからのまつりごとは、京で行わねばならぬ。朝廷もある、商人もいる、楠木殿のような武士もいる。西国の豊かな物資があふれている。……それゆえ、まず京を攻める」
道誉は「面白い!」と叫んで刺客達を下がらせる。
「兵が足りぬだの、鎌倉は攻めにくいだの言うようなら、首を刎ねて北条に寝返ろうと思っていたが、面白い」
道誉「ただ一つだけ気に入らん。わしにただ見ておれというのが気に入らん。京に連れて行かれよ」
高氏は気取った風に「それもよかろう。苦しかるまい」と扇子を道誉に突きつける。
顔を見合わせて大笑いする道誉と高氏。こうして高氏は不破の関を抜けた。
登子 兄と別れ 高氏 丹波 篠村八幡宮で反旗を翻す
この時、京都六波羅軍は大塔宮(堤大二郎)と戦っていた。
大塔宮は、長い潜伏の後、父 後醍醐帝と呼応するように、比叡山に姿を現した。
淀・山崎では、摂津の土豪 赤松則村(円心)(渡辺哲)が大塔宮の綸旨を承け、北条に反旗を翻し、善戦していた。
桜吹雪の中、高氏の軍勢は京に入った。すでに高氏は後醍醐帝の北条討伐の綸旨を受け取っていた。
鎌倉の赤橋守時邸。深夜、寝所の登子に右馬介が忍んで迎えに。京で北条殿へ御謀叛の兵を挙げるので、このままでは命に関わるのでと告げた。
登子は千寿王だけを連れて行くように言う。
右馬介は部下に千寿王を連れて行かせ、登子 の説得を続ける。
怪しい物音に、守時も気づいていた。守時は家臣たちに「騒ぐな」と告げ、寝間着のまま登子の部屋に現れる。
泣く登子に、守時「もはや北条の命運は尽きておる。そなたは足利殿と共に生きよ。……」
兄に泣きつく登子。「ここに残って、この兄と死んでも、わしは良い妹とは思わん、早う行け。そなたは足利殿の世継ぎ千寿王の母御前ぞ。北条の一族であらず。」と守時は登子を右馬介たちに引き渡す。
六波羅探題では、軍議を開き足利軍は、北条尾張守高家などの軍と、淀・山崎方面の謀叛軍を、鎮圧にあたることとなった。しかし高氏は戦乱の巷、桂川を西へ渡り、赤松則村・千種忠顕の謀叛軍前を素通り、松尾寺から大江山に向かった。途中で敵から矢が一本も飛んでこないことに不審に思った北条方の兵が次々と逃げ出したが、足利軍本隊は構わず丹波・篠村へ と走った。
元弘3年5月7日。足利軍は丹波・篠村八幡宮に集結した。西国の足利軍勢合流し、総勢一万の兵を持つに至った。ここで高氏は源氏の白旗を高々と掲げ る。「直義、一番の弓を命じる。旗揚げの祝い矢いたせ」と高氏が命じ、直義は矢を大空へ向かって放つ。それを合図に全軍が太刀を抜く。「南無八幡大菩薩!敵は京・六波羅!北条軍なるぞ!」と叫び、高氏は太刀を振るう。
ついに足利家が北条家に反旗を翻した。足利軍は怒濤の進撃で六波羅軍を蹴散らしていく。
▽まとめ&感想
高氏 鎌倉で妻子と別れ、高時らに挨拶し出陣。
後醍醐帝 名和長年に帆掛け船の家紋を授ける。
高氏 足利王国の三河で共に戦うことを確認 祖父 家時の置文を読む。
高氏 近江の不破関で佐々木道誉に六波羅攻めを話す。
登子 兄と別れ、 高氏 丹波 篠村八幡宮で反旗を翻す。
今回は、はじめて高氏が主人公と思われる回でした。
出陣の、高氏、足利軍、馬まで 格好いい衣装で、動作も素敵でした。
道誉と掛け合いも今までと違い面白かった。
京を出て、スルーして、篠村で旗揚げ 、今までとちがって、爽快でした。
兵も、篠村では 1万人になっていました。
来週は、どうなるのか楽しみです。