新田義貞軍 三つの道から鎌倉を攻撃 赤橋守時戦場で自害
元弘3年(1333)5月18日。新田義貞(根津甚八)の軍は三つの道から鎌倉を攻撃しようとしていた。義貞率いる本隊は化粧坂(けわいざか)の切り通しから、別隊は極楽寺坂から、もう一つはは巨福呂坂(こぶくろざか)から鎌倉に突入しようという作戦である。攻める新田軍が2万、守る北条軍が3万から4万であったと推測される。
18日早朝から、一斉に攻撃が始まった。赤橋守時(勝野洋)軍7000余りは、巨福呂坂に至る洲崎(鎌倉西北部 山崎辺り)で敵陣を迎え撃った。その戦ぶりは、死を覚悟した壮絶なものだった。
勢いの増さる新田軍も、北条軍に必死の抵抗に苦戦を続けていた。
傷ついた守時の前に、一色右馬介(大地康雄)が現れ、近くの荒れた堂の中に誘い入れた。高氏から助けることを命じられていた。しかし守時は「赤橋守時、幕府の長たる執権ぞ。足利のごとき外様ずれに情けをかけられるいわれはない。」断る。
「登子へ、足利の御台所に 伝えてくれ、心を強う生き抜かれよ。それが兄の願いと」託し、と刀を杖に立ち上がり、堂を出ていった。
この夕刻、赤橋守時は戦場で自害して果てた。退却を拒んでの死であったと伝えられる。享年39才であった。
この知らせは右馬介によって、柄沢に潜んでいた登子(沢口靖子)に伝えられた。侍女達が泣き悲しむ中、登子は「大儀であったの。礼を申します」と言い、涙は見せなかった。
「千寿王はその後、変わりはないか」
「数百の旗本に守られ、つつがのう 新田殿の本隊におわします。それがしも、これから、おそばに馳せ参じます」
「頼みますぞ」
新田軍 陽動作戦で稲村ヶ崎から干潟を通り鎌倉に乱入
北条方は、州崎では敗れたが、巨福呂坂は守り切り、化粧坂口、極楽寺坂は守り切った。
20日、21日と両軍、一進一退で譲らず、戦は、長引く気配を見せていた。
足利高氏(真田広之)が都を攻め落としたという知らせが届き、義貞は焦っていた。
義貞は家臣を連れて稲村ヶ崎の海岸に廻り、「あの岬の向こうへ、回ることができれば、鎌倉に入れるのだが…」と考え、船を用意するよう命じるが、9艘しか船が無い。
沖合には北条の兵船100余艘が居並び、すぐにも矢を射かけてくる。
大館殿が浅瀬を通って、府内に向かわれたが、それらの船に攻められ、府中に突入して戦死していた。これを聞いた義貞はある作戦を思いつく。
義貞は今夜全軍の総攻撃であるかのように見せ、三木俊連に極楽寺坂方面で火を放って北条軍の目を火の手にそらす、よう命じる。引き潮の時間を確かめ「この義貞は手勢を引き連れて、稲村ヶ崎を駆け抜ける!」と作戦を立てた。
5月22日夜、新田軍の総攻撃が始まり、極楽寺坂に突入する本隊が、北条軍を引きつけ、海側の注意をそらした。
高時邸では鎧姿の北条高時(片岡鶴太郎)が「いやじゃ!ここは動かぬ」と叫んでいた。
長崎円喜(フランキー堺)と金沢貞顕(児玉清)が、高時だけでも船で鎌倉から脱出するよう勧めていた。
高時は「鎌倉あっての北条、鎌倉あっての高時ぞ!わしは動かんぞ」と断固、拒否した。
それでも説得を試みようとする貞顕。
円喜も「この鎌倉は我らが築いた北条の都。我らが作った分身ぞ。それを失うて、いずくに我らの立つべき所やある」
そして「孫達も極楽寺口で戦っている。この鎌倉を死守いたそうぞ!」と一同に呼びかける。
「おおっ!」と応えた。
5月22日午前3時頃。新田義貞が、稲村ヶ崎の海岸で、潮の引く時を待っていた。
海に歩み入り、太刀を両手で掲げ「南無八幡!我をここより渡らせ給え!」と言うと、その太刀を海中へと投げ込んだ。
極楽寺坂方面に火の手が上がった。三木俊連の軍勢が火をつけて回ったのだった。沖合にいた北条の兵船は、新田軍の主力の攻撃と見て鎌倉方面へと移動を開始する。
22日未明。潮は大きく沖へ引き、稲村ヶ崎から極楽寺下の前浜まで、干潟となった。
義貞は「いくぞ!者ども、続け!」と叫ぶと馬を駆って稲村ヶ崎へと突進した。騎馬武者たちが雄叫びをあげてこれに続く。
新田軍は稲村ヶ崎を突破して、極楽寺坂の防衛ラインを突破された北条軍は浮き足立った。
夜明けには、化粧坂口の木戸も破られ、新田軍は大挙して鎌倉に乱入した。
鎌倉市中では各地で激しい市街戦が展開され、あちこちで斬り捨てられ、劣勢の北条勢。
長崎高資(西岡徳馬)にも矢が命中する。
東勝寺で 高時 の最期を覚海尼が春渓尼を通じ見届ける
そのころ、高時は顕子に化粧をほどこしていた。
「共に死んでくれるか?」と高時が問うと、顕子はうなづいた。
高時が顕子の元に、田楽一座の者達が泣きながら集まってきた。高時は、東勝寺に一緒に来て、滅び行く鎌倉の供養に最後の舞を見せるように命じる。
東勝寺で賑やかな田楽の中、夕陽の差す鎌倉のあちこちで、地獄絵図が繰り広げられていた。
最期を覚悟した北条一門は死に場所と定めた菩提寺の東勝寺に集まってきていた。
一同に今生の別れの酒が振る舞われ、高時が扇と太刀で舞い歌い始める。
悲鳴が上がる。重傷を負っていた高資が自害。
覚海尼(沢たまき)のそばに仕える春渓尼が「太守、舞をおすすめ遊ばせ。……」声を掛けた。高時に覚海尼の無事を伝え、また「どうぞお取り乱しなく、北条九代の終わりを潔くあそばされますように」と母親からの言葉を伝えた。
高時は春渓尼の歌に合わせて舞を続ける。
しかし、顕子の手を取り、太刀を腹に当て「春渓尼、そこにいてよう見届けてくりゃれ」
新田軍の声が聞こえてくる。春渓尼が「太守がお寂しそうじゃ。みなここへ!」の声に、高時の周りに女達が群がり、念仏を唱える中、ついに高時は立ったまま、太刀を腹に突き刺した。
高時「円喜、これでよろしいか」と。黙ってうなづく円喜。
「春渓尼、高時、こういたしましたと、母御前にお伝えしてくれ…」崩れ落ちた。
これを見て、顕子が短刀を抜き、「皆様、お先に」と自ら喉を刺した。
他の女達も「お先に」「お先に」と言いながら果てていく。
円喜に声を掛けられ、春渓尼は立ち去っていく。
金沢貞顕父子・長崎円喜父子 自害 鎌倉幕府滅亡
貞顕も貞将に短刀を渡して「貞将 頼むぞ」と言い、息子の顔を撫でて、鎧をしっかりとつかんだ。貞将は貞顕の心臓をひと突きにし、貞顕は倒れ。貞将も、自らの首筋を斬ってあとを追った。
いつの間にか東勝寺は炎に包まれ、一族郎党が次々と自害していく光景を見ながら、円喜は数珠を取り出して手に巻き、切腹し、その刀で自らの首筋を切った。
抱き合うように倒れている高時と顕子。それを紅蓮の炎が包み込んでいく。
右馬介は東勝寺の焼け跡にやってきた。新田軍の兵士達は焼け跡で「これが長崎殿…… あれは高時殿…… 死ねば皆同じことじゃ」などと言い、金目のものを拾い集めていた。
右馬介の報告が六波羅の高氏にもたらされた。義貞の見事な勝利、登子たちが鎌倉に戻ったことを綴り、「足利の陣営に勝ったと笑う者一人も無く、不思議な勝ち戦にて候」と締めくくっていた。高氏は直義たちに投げ捨てるように手紙を渡す。
六波羅の奉行所では再建が始まり、家を焼かれ親を失った子供達が「食べるものをくだされ」と物乞いに集まってきていた。高氏が見ていると、赤松則村 が部下を連れてきて、鎌倉陥落の話をし「これで我らの世じゃ!良い世の中になりまするぞ」と笑って立ち去っていった。
「直義、師直 戦には勝ったが、あの子たちに食べ物をやらねばならん、家も建てねばならん。これから大仕事じゃのう」と高氏は言うのだった。
都も、鎌倉も焼き払われ、再建は高氏にかかっていた。
▽まとめ&感想
新田義貞軍 三つの道から鎌倉を攻撃 赤橋守時戦場で自害。
新田軍 陽動作戦で稲村ヶ崎から干潟を通り鎌倉に乱入。
東勝寺で 高時 の最期を覚海尼が春渓尼を通じ見届ける。
金沢貞顕父子・長崎円喜父子 自害 鎌倉幕府滅亡。
今回も、軍記物語だから、実際にあった話になりますよね。
新田義貞出陣から2週間足らずで、鎌倉幕府が滅亡。
あれほどの、権勢を誇った、鎌倉幕府、長崎円喜。
滅びるときは、あっという間でした。
円喜の、孫達が頑張っている。逃げ出せないのがなんともいえません。
片岡鶴太郎の高時、最期もアット言う見事な、舞と歌で逝ってしまいました。
「麒麟がくる」再開ですが、高時の片岡鶴太郎さん、道誉の陣内孝則さん、日野俊基の榎木孝明
が見られるので楽しみです。