太平記 南北朝始後は?平岩弓枝著『太平記』感想&あらすじメモ

安部龍太郎の『道誉と正成』(あらすじメモ感想)と『義貞の旗』(あらすじメモ感想)を読んで見ました。頑張って読んで見ましたが、鎌倉幕府の倒幕から南朝成立までで、まだ話しは続きそうです。

易しそうな、少年少女古典文学館『太平記』平岩弓枝著 を読んでみました。
『太平記』は後醍醐天皇誕生から、足利義満が将軍になるまでの、およそ50年の戦いの記録の物語で、実際に書いた人は分からず、小島法師を始め、複数の坊さん達ではないかと想像されます。原文も紹介されており、古い文章は、難しそうですが、声に出して読むと、案外素直に頭に入り、何よりリズムの良さに驚いたと書かれています。

解説も、地図もたくさんあり、助かります。

南朝成立までは、歴史的には合っていても、作者の都合で、個人の細かい関係がちがうということで勝手に理解しました。

足利尊氏 征夷大将軍になる・北畠顕家 新田義貞亡くなる

1336年 11月 京都を制圧して光明天皇を即位させ、武家政権の樹立を宣言
後醍醐天皇が吉野で、南朝を開き南北朝時代始まる。

足利一族が、高位高官を占め、いい気分になっている間に、南東方が盛り返す。
新田義貞兄弟が、尊氏が差し向けた足利(斯波)高経を破り、京へ向かう。

北畠顕家(あきいえ)は後醍醐天皇側近の北畠親房の子で、京に上る途中、味方に加わるわる武将があり、10万の大軍で鎌倉を攻めた。
鎌倉には、尊氏の子 義詮(よしあきら)がいたが、京に敗走。
北畠顕家軍は、60万にもなり京に向かい、美濃の黒地川にいた足利軍1万を避け、奈良に入ることにしたところを、疲れていたのか軍に襲われ敗れた。父のいる吉野に向かう途中 和泉国 阿倍野で北畠顕家 討ち死(1338年5月)。

新田義貞は1338年7月、藤島城(福井市)を攻める味方の応援に赴く途中、燈明寺畷で偶然に敵と遭遇し、敵の矢を受けて討死しました。義貞の首は、京に送られ、さらし首にされました。勾当内侍後醍醐天皇に仕えていた女官で、帝からいただいた妻に溺れて、九州に逃げた尊氏が盛り返したといわれています。
義貞尊氏へのライバル意識が強かった悲運の武将でした。
驚くことに、燈明寺は明智光秀が朝倉氏に仕官する為、称念寺の門前に寺子屋を開いたところでした。

後醍醐天皇病死・脇屋義助病死

1339年 8月 後醍醐天皇が吉野の皇居で病死。
遺言で11歳の義良親王に、皇位を譲って後村上天皇をたてます。
後見役に、北畠親房が就きました。
新田義貞の弟、脇屋義助が黒丸城を攻め落とし、足利高経を破る。
尊氏の命を受けた塩谷高貞が出雲に帰る途中、味方の高師直(こうのもろなお)に討たれた。高師直は高貞の妻に横恋慕し、高貞を陥れた。

脇屋義助が足利軍に敗れ、吉野へ。そこで、伊予から武将をお願いされ行くことに。

伊予には、以前湊川で、細川定禅について、楠木正成を討ち死にさせた、大森彦七盛長がおった。彦七足利将軍から、多くの土地をもらい、贅沢に暮らし猿楽を好んでいた。猿楽の催しに行く途中で楠正成の亡霊が鬼女になって大森彦七を襲った、別の日にも亡霊が、彦七の太刀をもらいに来た。5月3日、悪霊を鎮めるために大般若経を読んでもらい、足利直義に献上した。直義は、話を聞き、さやを作り直して、小竹作りの太刀と名付け大切にした。

不思議なことに、悪霊を鎮めた翌日の、5月4日、脇屋義助が、急病で亡くなった
集まった南朝の軍は、全滅。

北朝の持明院方の皇族は、足利尊氏に実権を奪われ、名ばかりの有様。
例えば、持明院方の上皇が、伏見院の法要の帰り、土岐頼遠という武将に出会い、平気で行こうとしたので、「馬から下りなさい。」と家来が声を掛けると、土岐主従は、御車の廻りを、馬で廻り、矢を射かけたので、お車はひっくり返った。
これを聞いた、足利直義は激怒、捕まえ首をはねた。

楠正成の遺児正行との戦い

1347年 湊川の合戦で楠正成が討ち死にしてから13年、嫡男 正行(まさつら)は25歳になり、楠一族を率いて、吉野の朝廷に仕えていました。

楠の軍勢が進軍して、細川顕氏を差し向けるも油断して、敗退。
楠の兵力を馬鹿に出来ないと、細川顕氏、山名守時で6千の兵を住吉に向かわせた。
楠軍が強く、足利軍は川に落ち500人ほど溺れ死ぬとこでした。それを助けたのが楠軍。
着替えさせ、暖め、馬で送り返した。

足利軍は、高師直・師泰兄弟に命じ、6万の兵で楠攻めを開始。
楠正行らは、後村上天皇に挨拶、後醍醐天皇の墓参り、吉野の如意輪堂の壁板に一同143人の名前と、歌を書いた。奮戦するも、大軍によって反撃され、佐々木道誉も参戦、四条畷で激戦し、弟 正時と共に敗死した。
南朝方は、最後の頼みを失い、世の人は足利将軍の時代になるであろうと思っていた。

田楽が流行・足利尊氏が夢中になり不安に

京は、平和を取り戻したかに見え、田楽が流行りだした。
北条高時が田楽に夢中になり、滅びたので、足利尊氏が田楽見学に夢中になるのを不安に思っていた。
ある坊さんが、今でいう田楽のイベントで金を集め、橋を作ろうとしていた。
田楽が終わり、猿のお面を付けた、童子が踊り出すと、桟敷が崩れ、大騒ぎになった。
だれかれなく、天狗が山伏になり、桟敷の柱を揺すぶったという話しが拡がった。
不思議なことに、四条河原の大量の血が、大雨できれいに洗い流された。

さらに、同じ頃、出羽の山伏 雲景が京に出て、天竜寺に向かい、老僧にあった。
老僧は、「天下を取ったら、良い政治をしようと思っていたが、足利・師直・後醍醐天皇 は自分の欲ばかりを満たそうとして、心から人民をいたわり、かわいがる事を忘れている。だから 運が尽きた。悲しいことにこの戦いは、なかなか終わりません。」
老僧は、愛宕山の太郎坊様、大天狗であった。

高師直兄弟強大に、直義が反発、直義の養子 直冬、高兄弟死亡

高師直・師泰兄弟が楠正行を討ち滅ぼした後、吉野を攻め、後村上天皇賀名生(あのう=西吉野)にうつる。
高師直・師泰兄弟の権力は足利将軍以上と言われた。
高師直は京の一条今出川の後醍醐天皇の妃が住んでいるところを、買い取り手を入れ、贅沢に暮らし、公家や皇族の女を自由にした。
師泰は東山に別荘を作ろうとし、菅宰相より譲り受け、墓地を移すのを待たずに工事、世間に悪口を言われると、菅宰相を殺害。

足利直義が、高師直を暗殺しようとしたが、高兄弟につく方が多く、足利尊氏の屋敷に直義が入った。
尊氏は、屋敷を高兄弟が、取り囲んだので、家臣が背くなら考えがあると伝えた。
師直が直義こそが、上杉や、畠山を使い高一族を滅ぼそうとしたので、罪人として渡せと迫った。
直義は、将軍が撃ち殺されては困ると伝え、尊氏は上杉や、畠山を流罪に。まもなく二人は高師直に殺された。

尊氏は、鎌倉から嫡男 義詮(よしあきら)を呼び、高師直に補佐するよう命じた。
直義は、細川顕氏の屋敷に身を寄せ、出家。
直義には子がなく、尊氏の子、直冬(ただふゆ)を養子にしていた。(テレビでは、宮沢りえの子)。直冬も高師直に追われ九州に逃れて、太宰少弐頼尚の娘婿になった。
九州の武士は直冬の味方になり、大きな勢力になり、直義を助け、高師直を討とうと兵を挙げた。

高師直は将軍の子ですからと、尊氏に一任、8千の軍を西に向けた。
直義は大和に逃げ、吉野の天皇に降参。すると南朝に味方するものが増えた。
南朝方の直義軍と桃井直常が攻めようとすると、義詮の兵は逃げだし、桃井は、何もせず京を占領。
義詮と尊氏と高師直が合流し、京を攻め桃井軍を追い払ったが、翌朝、軍兵は逃げだし桃井方に。
尊氏は、落胆し西国へ、直義軍に攻められ、湊川松岡城へ逃げ込み、全員入れなかったので、残った兵は去って行った。
尊氏は家来の命鶴丸を直義のもとへやり、和睦申し入れ。
尊氏と、高兄弟が降参して、京に帰ることに。行列をつくって、進む高師直・師泰兄弟を直義軍が殺害

尊氏と和解も、直義急死


とりあえず尊氏直義は和解するも、ギクシャクしていた。

直義方は、南朝と手を切っていた。
尊氏方の兵が領国に戻り戦支度をしたり、南朝方と親しくなったので、直義は北へ向かった。
すると、高兄弟ばかりを信用していた尊氏より、直義を選んで集まった軍勢が6万にもなた。尊氏方も佐々木道誉らが駆けつけ、総勢1万余りに。直義方の畠山国清が、尊氏に恨みはないので、兄弟助け合って行かれればと尊氏方に去って行った。

直義は、鎌倉に向かって逃げ、薩埵山で尊氏軍に敗退、とらえられ、急死する(毒殺ともいわれる)。

京の義詮は心細くなり、吉野方に和睦を申し入れたが、南朝方が北朝方の皇族をすべて、吉野に連れ去った。

新田義貞の遺児達が兵を挙げるも、鎮圧される

新田義貞の次男 義興(よしおき)、三男 義宗脇屋義助の子 義治 が東国で兵を挙げ、尊氏軍が出陣、隅田川を渡り、石浜へ。新田軍は、苦戦し、最後に鎌倉を攻め込んだ。
鎌倉を守っていた尊氏の次男 基氏は、石浜に落ちていった。
義宗ははぐれ、碓氷峠まで陣を引いたが越後・信濃の武将が集まり、尊氏は8万の兵で攻めた。
足利尊氏はかなり運の強い大将だったようで、新田軍は逃げだし、足利軍80万にもなって、鎌倉に入り、鎌倉の新田軍も逃げ出した。
近江の、義詮も盛り返し、京に攻め、後村上天皇を追い出した。

足利将軍が、京を占領するも、天皇がいないので、持明院方の15歳の皇子を後光厳天皇を三種の神器もないまま即位させた。

1358年 足利尊氏が亡くなる。子の足利義詮が第二代 征夷大将軍となる。
新田一族の動きを察知し、竹沢右京亮が少女をつかい義興を陥れ、矢口渡で、舟を沈め殺害。
3年後 日本は大災害に見舞われ、大地震、津波、異常気象など天地異変におののいた。

1367年に足利義詮が病死、子の足利義満(よしみつ)が第三代征夷大将軍となる。
家臣の細川頼之が後見人となり、この人は実力もあり、多くの武将から慕われていたので、ようやく世の中も落ち着いて、長かった戦いも終わりを告げるのではと、筆を置いた。

▽まとめ&感想

難しいので、少年少女古典文学館『太平記』平岩弓枝著 を読んでみました。
源義国の長男の家系が新田家、次男の家系が足利家 一族のライバル争いが50年続いた訳ですが、もう壮絶すぎました。足利幕府 金閣寺・銀閣寺の華やかなイメージしかなかったので驚きです。新田義貞の亡くなった燈明寺、大森彦七も、楠正行の如意輪堂も矢口渡も実際にあった話しのようで、驚きばかりです。

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