太平記 31話「尊氏叛く」▽あらすじメモ▽

建武2年7月 中先代の乱で 足利直義達は鎌倉を追われ 三河に向かう

建武2年(1336) 7月。信濃国で立ち上がった北条時行軍は、ついに鎌倉になだれ込んだ。世に言う「中先代の乱」である。関東の足利軍は総崩れとなり、足利軍のシンボル 成良親王、尊氏の妻 登子と嫡子 千寿王は 東海道を三河に向かって 落ち延びていった。

足利尊氏 後醍醐天皇から 関東に向かう許し得ず

そのころ京では足利尊氏(真田広之)が参内し、関東に向かう許しを請うためである。
後醍醐天皇(片岡孝夫)は関東に家族を残している尊氏の気持ちが判るが、尊氏を関東へ下すことも 征夷大将軍に任じることも 認められないと答える。
認めることは「鎌倉将軍の格式を与え、幕府再建を許すことに他ならぬ」、公家達もそれを恐れている

尊氏は「あくまで将軍の地位を求め、帝に背く気はない」と言う。
後醍醐は「分かっておる。それゆえ許せと言うておる。朕が見渡す国は66、関東は8ヶ国 他の国に混乱を招くのは避けたい」と言う。
尊氏がその8ヶ国の戦乱が全国に飛び火してしまう、と言うと、「そのときは朕自ら出陣する」と後醍醐。尊氏は 帝は神のごとき美しい方なので、戦のような醜いものは武家にお任せをという。
後醍醐は「朕は神でも鬼でもない。人じゃ 朕の政を邪魔する者は、たとえ誰であろうと、この手で打ち払うてみしょうぞ」と言い、関東のことは奥州の北畠に任せ、尊氏は都にとどまるよう命じた。

尊氏が六波羅の足利亭に戻ると、母の清子(藤村志保)高師直(柄本明)らが出迎え 帝のお許しは出なかったと告げると皆、がっかりする。
清子が早馬がきて、駿河 手越河原の合戦で千寿王らは無事だが、直義(高嶋政伸)が苦戦していると教える。家臣達が「出陣じゃ!」と騒ぐが、吉良貞義(山内明)が諫め、尊氏も帝の命で 動けないと申し渡す。

楠木正成(武田鉄矢)の屋敷には千種忠顕(本木雅弘)から、「尊氏が出陣しようとしたら 武家は阻止せよ」という書状が届いた。
それを聞いた久子(藤真利子)は「むごい」と言い、正成も「千種殿と名和殿はこれを機に一気に足利殿をつぶしておきたいのじゃ」と語る。
久子は「正成と尊氏はよく似ている。足利殿はお発ちになるのでは」と正成に言う。
尊氏が立てば源氏の武家が集まり、公家と武家の戦いが始まると 正成は恐れていた。

足利尊氏 妻子の窮状に 勅許を得ないで 出陣決意 道誉も助太刀

翌日、内裏では名和長年(小松方正)と公家達が、尊氏のことをあざ笑っていた。
新田義貞(根津甚八)は黙って聞いていたが、長年に同意を求められたので、外に出る。
そこに「こわいお顔でござりますな」と微笑みながら勾当内侍(宮崎萬純)が、帝のお呼びを伝えた。

7月末、駿河では北条軍が足利軍に激しい攻撃を加えていた。残ったわずかの手勢で、直義と登子(沢口靖子)たちがなんとか足利の一門の待つ三河へ 逃げ込もうとしていた。

京では尊氏がイライラと、水をくみ 庭に水をまいていた。そこへか笑い声が聞こえてきた。「誰が騒いでおる!」と尊氏は怒鳴り 声のする方へ向かった。
師直たちが 白拍子を呼んで飲めや歌えと大騒ぎをしていた。
怒鳴る尊氏に、師直は「弔いです。せめて酒でも飲んで騒ぐことで、岩松殿 渋川殿 今川範満殿 こたび討ち死にされた方々の弔いをしている。…… 酒でも飲んで南無阿弥陀仏と歌うておらねば、やりきれませぬ!」と言い、尊氏も黙り込む。

そこへ三河からの早馬で、相模の戦いで細川頼貞、今川四郎殿 名越殿 も討ち死にしたと知らせてきた。
いつの間にか一色右馬介(大地康雄)がきていてた。
直義らが三河へ逃げ込んだが、北条軍が攻め込んだら幾日も持たない。
奥州の北畠勢も乱があり、関東への応援は無理です。
奥州 白河で聞いた話しですが、北畠親房卿が「足利亡きあとの関東を結城親光に任せてはどうか」と、都の公家に書状を送ったらしいと伝えた。卿はこの度の戦で足利が敗れるのを望んでいられる節があります。
公家方は必ずしも 帝の仰せのままに 動いていません。帝の一人歩きに嫌気が差しています。
もはや我が身は我が身で守るほかございません」と右馬介は言う。

三河も猶予ならぬか?。奥州もダメか。やむをえぬ!」尊氏が言うと、家臣達が庭に出て尊氏の命を待っていた。
「師直、明日、三河へ発つ。明日出陣じゃ! これより軍議だ! 顔を洗え!」と命じる。
家臣達は「出陣じゃ!」と一斉に立ち上がり「おーっ」と吠えた。

そこへ佐々木道誉(陣内孝則)が訪ねてきたとの知らせが入る。
道誉は派手な鎧で「そろそろ足利殿が 御出陣なされるころ と思いましてな。都の公家たちに茶や花を教えるのも飽きた、尊氏と自分が立てば 諸国の源氏が馳せ参じよう」と言った。
尊氏が「判官殿、この出陣は帝は御許しではない」と言う。
道誉は「朝敵である北条を打ち破ってしまえば、あとはなんとかなる。足利殿が天下をとる前に力を失っては元も子もない。自分はまず尊氏に天下をとらせ、足利殿が疲れ果てた頃 その天下をいただこうとずっと考えている。それゆえ、助けるほかにない」と道誉は尊氏にささやく。
「御辺は、婆沙羅のう。」と呆れる尊氏。道誉は「伊吹にてお待ちいたす。」と言って去り、残された尊氏は「ハッハッハッハッハッ」 と大笑いするのだった。

後醍醐天皇 黙認 ・ 美濃の藤夜叉 大けが負う

建武2年8月 足利尊氏がついに京都を出た。足利一族の存亡を駆けたかけた決死の出陣だった。この出陣に際し、尊氏は都をはじめ諸国の武士に、鎌倉奪回のために共に戦うよう参陣をいながした。この呼びかけに、公家中心の政治に不満を持つ都の武士達が続々集まってきた。

内裏に、名和長年が「都中の武士が足利に付いていきおった」と慌てて駆けつけた。
千種忠顕も坊門清忠も「追討じゃ!」と騒ぐが、長年は「誰が追討いたすのだ」とたずねる。
「名和、そち以外に誰がいようぞ! と忠顕が叫び、坊門が「新田と楠木を連れて行けば討てる」と言う。

長年は、義貞があの暗い顔で「行きたい奴は行けばよい」と一言で、正成も「帝の御心はいかが?」と言うばかりです。
忠顕たちは「奏上して 追討の綸旨をもらうべし!」とそろって後醍醐のところへ向かう。

しかし後醍醐天皇は「やむをえん。捨て置け。」だけであった。「行って戦って、辛い思いをするのは尊氏ぞ…よし北条を滅ぼしたとて、誰が恩賞を与えようぞ。朕が認めぬ戦に恩賞はない尊氏に征夷大将軍の名は与えぬ!それでよければ行くがよい」と宣言する。これに公家達も一応納得の表情を見せる。

尊氏の動きは速かった。足利軍は翌日には近江に着き、佐々木道誉の軍と合流して美濃に入った。

その美濃では。石(柳葉敏郎)不知哉丸が畑で大根の芽が出た と喜んでいた。
藤夜叉(宮沢りえ)が家に柄杓を取りに行くと、村の神社で白拍子たちが舞の稽古をしていた。
若い娘が座長の女に踊り方にダメだしているのを見て、思わず藤夜叉は手の位置を身振りで伝える。座長が藤夜叉の手つきに気づき、舞ってみよと扇を渡す。藤夜叉は久々に舞を舞い、白拍子時代 尊氏と会ったことを思いだした。

畑ののところに 数人の来て、合戦が始まり 目代がお呼びと寺に連れていく。
そこでが、村の農民達が兵士として無理に駆り出されようとしており、代官の石に助けを求めた。

領主が、帝に背いた足利尊氏を討つため、臨時の税として、この村に兵20人、兵糧米40俵の公事を命ずと言われた。急ぐのでこちらで選んだ徴兵リストを石に見せ、そこに石が選んだと一筆書けと強要する。やらねば代官の首をすげ替えると脅され、ついに石は 紙を破り捨て、不知哉丸が持ってきた刀を抜いて縛られていた農民達を逃がし、「わしはこの村の代官ぞ!文句があるなら首すげかえてから言え!」と目代の家来たちに刀を向ける。

そこへ「神社に白拍子」と楽しげに言いながら藤夜叉が走ってきた。石は「来るな!」と手を振るが、背後から目代の家来が石に斬りかかる。石は身をかわしたが、その刀は駆け寄ってきた藤夜叉の肩を切り裂いた。血を流して倒れる藤夜叉。石は激昂してその武士を斬り捨て、他の武士達は引き上げた。

「藤夜叉ーっ!」と石は藤夜叉を抱き上げ、不知哉丸は「おっ母…」と声を掛ける。藤夜叉の傷は深かった。

▽まとめ&感想

建武2年7月 中先代の乱で 足利直義達は鎌倉を追われ 三河に向かう。
足利尊氏 後醍醐天皇から 関東に向かう許しを得ようとするがもらえず、
妻子の窮状に 勅許を得ないで 出陣決意。 道誉も助太刀を申し出る。
後醍醐天皇は黙認した。 美濃の藤夜叉 増税のため 大けが負う。

足利尊氏が関東に向かう許しが(勅命)が出されなかったのは、これを機に足利氏を潰してしまおうという公家の策略だった。
最近 みている 大河「徳川慶喜」では、勅状のやりとりが続きます。今日の「麒麟がくる 」では 無事に正親町天皇から討伐の勅命を頂けた信長公でした。
今まで 聞いたことない 言葉でしたが 天皇の言葉が重要なのですね。

尊氏が 弔っていた師直達に 「これより軍議だ! 顔を洗え!」のエピソード 良かったです。
それと 実にタイミング良く出てきた 佐々木道誉 でしたが、 セリフに 「御辺は、婆沙羅のう。」が出てきて 驚きました。