太平記 32話「藤夜叉死す」▽あらすじメモ▽

中先代の乱で鎌倉に尊氏出陣 途中 瀕死の藤夜叉に会う

建武2年8月「中先代の乱」で足利直義(高嶋政伸)は鎌倉を奪われ、登子(沢口靖子)千寿王は三河へと落ち延びようとしてた。混乱は全国に広がり、公家の家人に切りつけられ、藤夜叉(宮沢りえ)が重傷を負う。
足利尊氏(真田広之)は関東を北条軍から奪い返すため、後醍醐天皇(片岡孝夫)の勅許をもらわずに出陣していた。
重傷を負った藤夜叉がようやく気がついた。石(柳葉敏郎)や不知哉丸、村人達が励ます。しかし薬草を塗った村人は石にだけ容態がかなり悪いことを告げ、宋の国から伝わった「華佗(かだ)の術」で治る可能性があるといい、近くに来ている足利軍に そのことを知る医師が いるだろうと教える。

藤夜叉が石を呼んで、子供時代に戻ったように話し出す。「今まで自分が石を助けてきたつもりだったが、助けてもらっていたのは自分の方だった。… 兄妹だから、言えなかった。」と言って、藤夜叉は手を伸ばし、石がその手を握り締めた。
藤夜叉の「寒い。」という声に、石は足利軍の陣営に走り出した。

その頃、 足利軍の陣に三河からの早馬で、直義や登子たちが矢矧の吉良殿の屋敷に入ったと知らされた。北条軍を駿河の国境で防いでおり、しばらく三河へ敵がくる心配はないと報告した。

そこへ が忍び込み、見張りの兵に見つかるが、一色右馬介(大地康雄)が現れ、尊氏に伝える。
尊氏はただちに石に会い、右馬介と医師を連れて藤夜叉のもとへ走った。

尊氏達が 藤夜叉の家に着くと、不知哉丸が外に出ており 「あ、足利の大将じゃ!」と驚く。
尊氏は不知哉丸の頭を撫で、一緒に医師が 藤夜叉を診察する様子を見守る。
石が不知哉丸を連れだし、二人になった 尊氏は藤夜叉の頭に手をやり、語り合った。
話し終えた藤夜叉は白拍子の舞の歌を口ずさみながら眠りについた。

外に出ると、尊氏は不知哉丸に「母上のそばを離れるな。大将の命ぞ」と言い、母からもらった小さな地蔵菩薩の像を持たせた。尊氏は「斬ったのは公家の家人か?」と石に聞き、決意をし 馬に乗って走り去る。

尊氏矢矧で 登子千寿王 直義と再会

ようやく 尊氏は矢矧 吉良貞義亭に着き、登子と千寿王、直義に久しぶりに会った。
「五歳になりましてござります」と千寿王を尊氏に見せる登子。
尊氏は千寿王に「父のいぬ間、わが一門をよくお守り下された 礼を申す」と声をかけ、「苦労をかけた」と登子をねぎらう。
直義は尊氏に戦で亡くなった名をあげ こたびの事を詫びた。
そこへ北条軍が三河に向け進軍中と知らせが入り、「軍議じゃ!鎌倉へ駆け戻ろうぞ」と尊氏は直義に声を掛け、皆準備にかかる。
尊氏が登子に話しかけようとしていた時、 清子(藤村志保)も姿を現し、登子 千寿王と無事を喜び合う。

道誉が 護良親王の噂を確認 直義は殺害告白

尊氏が軍議の席に向かおうとしていると、「軍議の前に一つだけお聞きしたいことがある」と佐々木道誉(陣内孝則)が声をかけてきた。「直義殿がどさくさに紛れて、護良親王を害し奉ったとの噂がある。罪人とは申せ親王は帝の御子。もし殺したとなれば、今後我らも相応の覚悟が要る」と道誉に言われ、尊氏も動揺する。
そこへ直義が現れ、尊氏は道誉と別の部屋に連れ、「宮はいずこにおわす?」と直義に問いただす。
直義は「宮は鎌倉を捨てるおり、害し奉りました。連れ出す余裕もなく、また護良が北条と結びつく恐れもあった、それに帝もお見捨てになった親王で構わぬと存じ」と弁解するが、尊氏は怒って直義を殴りつける。「親にとってはどこまでも我が子ぞ!」と尊氏は怒鳴り、都へ帰ってからどう申し開きをすればよい、と口にする。
これを聞いた直義は「都へお帰りにならねばよろしいのです!」と兄を怒鳴り返し、「もはや民の心は、都から離れております。公家に領地を奪われた諸国の武士がどれほど困っているか、うち続く税の重さに 皆 どれほど苦しんでいるか。兄上は、源氏の棟梁。公家ののさばる都に戻る必要はない。判官も そのつもりで参陣したはずだ。」と部屋を出ていってしまう。

尊氏と道誉は座り込んでいた。道誉は「ハハハハ、都がどんどん遠くなる。わしが同じ立場なら 直義どのと同じことを したかもしれない。皆思っていることは同じ、それ故これだけの大軍が御辺についてきた。」と言う。
「軍議じゃ、軍議じゃ。鎌倉をとりかえし、幕府でもなんでも作って、御辺の手で良い世を作るのじゃ。」と道誉は言いながら出ていく。
尊氏も「軍議じゃ、軍議じゃ。戦わねばならぬ。敵は間近だ。」と立ち上がった。

足利軍 鎌倉奪回めざし快勝、藤夜叉の死 知る

その夜 足利軍は鎌倉奪回の作戦を 夜を徹して 練り上げた。
敵は、橋本に 城を作り始めています。橋本の大将は誰かと 尊氏が聞くと、名越式部大輔と聞いていると、道誉は 名越に はなたれ小僧の時 弓を教えた。物の数ではないと言うと、尊氏も判官殿が教えたのならそうであろうと皆で笑った。

合戦が始まったのは、遠江国橋本 今の浜名湖付近である。北条軍は 北条氏の残党と公家政治に不満のある、地方武士の寄り合いで有り、尊氏達 足利精鋭軍の敵では なかった。
小夜 駿河 箱根 相模川 鎌倉口 、北条軍の築いた砦は、足利軍に次々に打ち破かれた。 七度の合戦を足利軍は一度も落とさず、わずか十日で鎌倉内に突入した。
 
鎌倉口 陣を敷き、眠っていた尊氏の所へ右馬介が着到し、お目通りしたいと知らされた。
尊氏が右馬介に対面すると、右馬介は肩を震わせながら報告した。
「十六日夜、藤夜叉さま、手当の甲斐なく…」それだけに言って、右馬介は泣いた。
尊氏は「藤夜叉のこと、大儀であった」と述べ、部屋に戻った。
藤夜叉と初めて会った夜のこと、鎌倉で一緒に都に戻りたい言われたことなど、次々と思い起こされるのだった。

▽まとめ&感想

中先代の乱で奪われた鎌倉を 奪い返すため尊氏出陣した。
途中 瀕死の藤夜叉に会い、不知哉丸に地蔵菩薩の像を渡す。
尊氏 三河 の矢矧で 登子千寿王 直義と再会。
道誉が護良親王の噂を確認 。直義は殺害告白し、尊氏は幕府を作り良い世にする決心をする。
足利軍 鎌倉奪回めざし快勝し鎌倉口まで進み藤夜叉の死 知らされる

藤夜叉 亡くなってしまいました。1991年の放送でしたので 30年前の宮沢りえ 存在がすごいですね。
登子さんには ずいぶん素っ気なかった気がします。