幕府は後醍醐帝に謀反の疑いがあるとし、帝の側近・反北条の名だたる僧侶・日野俊基を捕まえた。
鎌倉幕府を支えいたのは御家人と呼ばれる武士だった。御家人は自分たちの土地を将軍に認めてもらう御恩に対し、自らの負担で鎌倉や京の警備にあたり、戦時には兵役に応じるという奉公を将軍と主従関係を結んだ。
足利家もこうした御家人の一門であった。「いざ鎌倉」と言われるように、御家人たちは鎌倉に事あれば、いつでも駆けつけねばならぬため、武芸の修練に励んでいた。
13世紀後半の2度にわたる蒙古の襲来で、幕府は御家人たちに恩賞の土地を与えられず、戦費の負担で困窮した御家人の不満が鬱積した。
執権職を世襲し将軍に代わって政治の実権を握った北条氏の独裁が強まり、各地の守護職を北条一門が独り占めするようになった。政治の実権や、実質的な土地の支配権を、北条氏に奪われた形になった、朝廷や公家たちも不満を募らせていた。
幕府の打倒と王政復古の理想に燃える、後醍醐天皇の即位によって、幕府と朝廷の関係も、緊迫していた。
平家出身の北条氏に対し、源氏の直系でもあり、最大の勢力を持つ足利家の動向に注目していた。
1331年5月、京・六波羅、幕府の軍勢は後醍醐帝に謀反の疑いがあるとし、帝の側近を一斉に検挙し、反北条の名だたる僧侶を一網打尽に捕まえた。後に「元弘の変」と呼ばれる事件が明るみにでたのは、皇の重臣・吉田定房の密告で、首謀者を日野俊基(榎木孝明)と断じていた。
俊基は牛車に乗り、何としても天皇に拝謁しようと内裏へと急ぐが、あと一歩というところで襲われる。牛車から降りて、内裏へと駆け込美、中庭で呼びかけるが、誰も恐れて応じようとしない。「ここは宮闕(きゅうけつ)なるぞ!」とわめく俊基に「きゅうけつぅ?帝の住もうてる御所のことか。それがどうした!」と、暴れる俊基を取り押さえた。
佐々木道誉が足利高氏邸に逃げ込み、長崎円喜に土下座して、「なにとぞ、お慈悲を」と泣きつく
鎌倉でも、不気味な影を落としていた。
夜半に佐々木道誉(陣内孝則)が、家来達を連れて、裸足で、足利邸に逃げ込んでくる。田楽一座に参るのを、待ち伏せされ一人斬られたというのだ。
高氏(真田広之)が高師直(柄本明)に命じて外の様子を伺うと、忍者のような集団が刀を構えて待ち受けている。
道誉:長崎殿が判官を殺そうとなされておる。昨夜、秋田城介殿も闇討ちに会い、逃げ帰ったと聞いた。長崎殿は、都の不穏な一味を一掃するに乗じて、反長崎勢を根絶やしにしようとしている。
直義:高時と覚海尼が黙っていまい。
道誉:裏を読まれよ。すでに高時も覚海尼も長崎父子と、手打ちを済ませている。幕府は皆、長崎派に寝返っている。政所の集まりで、高資殿が帝をどこかの島へ流そうかといわれ、誰も異存がなった。ついでに、日野俊基も即刻、切り捨てと決まった。
道誉は、これから長崎邸に命乞いをしにいく、と言い出し、高氏に長崎邸まで送って欲しいと頼む。
師直:はなはだ迷惑、われらはわれら、佐々木殿は佐々木殿
高氏:近頃婆娑羅というものが流行っている。型破りで、乱暴、新しゅうて、人の目を驚かす。婆娑羅な大名といえば、佐々木判官殿と皆が申している。以前助けてもらった借りもある。いざ。
馬に乗り、高氏と道誉、長崎円喜邸へ。
道誉は長崎父子の前に土下座して、「なにとぞ、お慈悲を」と泣きつく。満足そうに眺める円喜(フランキー堺)だった。
帰宅した高氏は貞氏(緒形拳)に話し、「無念」と口にする。
貞氏:「なぜ無念と思うか」
高氏:「帝や日野殿は美しかった」
貞氏:「美しいものでは、長崎殿は倒せぬ。美しいだけではの」「暑い」
部屋から出た高氏は、「師直、日野殿に会ってみたい」
師直:「おやめになられた方が、長崎殿の目があります。日野どのも所詮はお公家。雲の上のお方に殿の、お心が分かりましょうか?武家は武家、公家は公家」と、立ち去っていく。
登子:「師直どのは不思議なお方…いつも初めて会う心地が…。」
そこへ高氏と登子の間に生まれたばかりの、千寿王が連れられてきた。彼がのちの室町幕府二代将軍・義詮である。
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翌日、鎌倉に着いた日野俊基は即刻、念仏の中、葛原ヶ岡で処刑されることとなった。筆をとり、「古来の一句、死もなし生もなし、千里雲尽て、長江水清し」と辞世の句だった。高氏は笠をかぶり、見物人の中に紛れ込んでいた。高氏が駆け寄ろうとした瞬間、刀が振り下ろされた。
護良親王は、御動座を進め、帝が笠置山に立てこもる
同年8月、幕府軍は京へ3千の兵を送った。目的は帝。
比叡山に鎌倉からの密書が届いた。護良親王(堤大二郎)は弟の宗良親王に、父・後醍醐天皇を捕らえ、護良をを討ち果たすため、幕府の兵が送られる。
後醍醐帝に「御動座」を願い、比叡山に立てこもって一戦交えるのだと。
護良から密書が里内裏へ届けられた。
内裏では六波羅の動きをめぐって公家達が大騒ぎしていた。
天皇の愛妃・阿野廉子(原田美枝子)が、静まるようにと言う。
吉田定房の裏切りに憤る公家達に対して、廉子は「それを誰が見ましたか?持明院派の陰謀やもしれませぬ」とたしなめる。
後醍醐天皇:「騒ぐまい。こたびのことは、むしろ朕の本意ぞ。かかることでもなければ思い立てぬ。動座じゃ」
驚き慌て、悲しむ公家達。天皇は千種忠顕(本木雅弘)に 神器など荷物をまとめるように命じた。
出発の用意をしながら廉子(れんし)が「お供はかないませんか?」問うが、天皇は他の妃達・女官達が廉子無しでは困ってしまうだろうと言って彼女を残す。廉子は名残惜しげに神器を抱きしめながら、車を用意するように呼びかける。
夜、後醍醐帝は粗末な女房車に身を隠して内裏を脱出した。後から来た者などを合わせても、20数名、ひとまず比叡山に向かったが、途中の道が六波羅軍に押さえられていることを知り、奈良へと向かった。
翌朝、六波羅の軍勢が脱出に気付いた。
皇の一行は宇治あたりまで落ち延びていた。奈良に入った一行は、東大寺が北条方についてしまったことを知り、8月27日に笠置山(かさぎやま)に入っ た。
後醍醐帝はここで「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の紅葉をぞ見る」とうたわれた。
「帝が笠置山に立てこもった。」の知らせは、疾風のように近隣諸国を駆け巡った。す。
楠木正成(武田鉄矢)の元に、五郎が駆けつけて来た。笠置の天皇の味方がわずかであること。南都の寺が心変わりをした事を知った。
楠木正季(赤井英和)は「おのれ、南都の僧め!」と怒り、兄の正成にもなぜ呼応しないと詰め寄る。
正成:「正季、この勝ち負け、もうみえておる」
正成が中庭に来ると、妻の久子が侍女達と楽しそうに柿の実をむいていた。
長男の多聞丸が自分の名もろくに書けぬとこぼす久子。
正成:「多聞丸の手習いも見てやらねばならん。川下の水利権をめぐる裁きもせねばならん。干し柿の吟味もせねばならん。わしは忙しい。戦などする余裕は、どこにもない!」
久子は不安そうにじっと見つめる。
数日送れて、都の異変が鎌倉に報じられた。
鎌倉幕府では、赤橋守時(勝野洋)の元、評定が開かれた。大軍の派遣が検討され始めていた。
評定のさなか、執権の守時に知らせが入る。足利家の清子からの急報であった。
高氏は富士での巻き狩りから急ぎ帰宅した。館に入ると家臣達がみな体を震わせて泣いている。高氏は貞氏の部屋に入り、「父上。」と声をかけた。それを聞いて泣き崩れる直義と登子。高氏に貞氏の死に顔が目に入った。
9月、足利貞氏は59年の生涯を閉じた。
▽まとめ&感想
幕府は後醍醐帝に謀反の疑いがあるとし、帝の側近、反北条の名だたる僧侶、日野俊基を捕まえた。
佐々木道誉が足利高氏邸に逃げ込み、長崎円喜に土下座して、「なにとぞ、お慈悲を」と泣きついた。日野俊基は鎌倉で処刑された。
護良親王は、御動座を進め、帝が笠置山に立てこもる。
足利貞氏が亡くなった。
それにしても、道誉の派手な衣装、ハチャメチャな言動、これが婆娑羅ですか?
緒形拳さん、もう観れないと思うと淋しい、もっと見たかったです。
本木雅弘さん、ちらっとだけど、また見れるんですね。