安部龍太郎著 婆娑羅太平記『道誉と正成』あらすじメモ&感想

NHK 「太平記」のため、『道誉と正成』

BSで再放送中の太平記(1991年) 5話から 見ています。とても、面白いです。
平安時代、足利尊氏・金閣寺くらいしか浮かびません。

何かないかと本屋で探したのが、
集英社文庫 安部龍太郎著『道誉と正成』でした。
帯には、婆娑羅(ばさら)太平記
鎌倉幕府の滅亡 天皇とは何か

鎌倉幕府の倒幕から湊川の戦いまでを、佐々木道誉と楠木正成の視点で描いた物語。

本来の『太平記は』鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの(1318年-1368年の約50年間)軍記物語。

読み始めて、登場人物が多く、名前の呼び方がいくつもあり、行き来する場所も、あちこち、おまけに敵味方も入れ替わり、頭は付いていけません。
あらすじメモ・かなり頑張って作りました。大河これで、解るかな?

後醍醐天皇や足利尊氏の描写が、余りなく、こんなふうで良かったんでしょうか?

婆娑羅大名 佐々木道誉(どうよ・演:陣内孝則)登場

近江源氏の佐々木家は宇治川の先陣で有名な佐々木四郎高綱の流れをくむ名門
諱は高氏。道誉は鎌倉幕府に仕え、検非違使で佐渡守であったことから、「佐渡判官入道」と称されました。六角氏・京極氏も一門です。
本拠地は近江の柏原(滋賀県米原市)で、所領を通過する東国と西国の商品に関税をかけ、琵琶湖の港湾利用税は膨大に、商人や流通業者に安全を保証し上納させた。
また日本海沿岸に所領をもつ、佐々木一門を組織し、元国や高麗と貿易も行った。

佐々木道誉は、室町幕府を擁した足利尊氏の黒幕と言われています。

婆娑羅(バサラ)大名とは、
室町時代の流行語で遠慮なく振る舞い、派手なことを意味しますが、歌・茶道・書に才覚があり一級の美学を持つ人物にだけ与えられた言葉です。
後世の「傾奇者(かぶきもの)」に通じる

第一章 正成挙兵:元弘の乱(後醍醐天皇が企てた2度目の倒幕計画)が始まり

1318年 大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。

1324年 正中の変後醍醐天皇が企てた倒幕計画。事前に計画が幕府にバレて未遂に終わる。

1331年 元弘の乱(げんこう)後醍醐天皇が企てた2度目の倒幕計画。
後醍醐天皇が密かに協力者として接近したのが南都北嶺(なんとほくれい)比叡山と興福寺を始めとした奈良の寺院でした。

後醍醐天皇が笠置山(かさぎやま:奈良市の北東にある山)で蜂起し、倒幕の兵をあげ、元弘の乱(げんこう)を引き起こした。

幕府側は六波羅探題から兵 7万5000を派遣させた。道誉も加わる。
足利高氏も鎌倉から、駆けつけ鎮圧に当たった。
佐々木道誉が高野詣でに姿を変え、御所(ごせ)宿に。
多賀音丸(たがおとまる)に探らせた。
身銭を切って、困窮している大名に、貸し付けた。

楠木正成は、畿内の十数箇所に所領をもち、鈴鹿川から、木津川、淀川、大和川を結ぶ水運を掌握している。
楠木家は、もともとの本貫は駿河の楠木村(静岡市清水区)、清水港を拠点として海運業に従事、鎌倉幕府の実権を握っている、長崎家に仕え、伊勢の地頭に。商才にたけ、財をなした。東大寺の雑掌になり、東国と畿内の両方に活躍の場を広げた。
正成の父・正遠が葛村(奈良県御所市)に拠点を築いた。
鎌倉と伊勢を結ぶ海運業から巨万の富を得た。

ところが元寇後の混乱で、幕府が、徳政令で、商業的武士団から買い集めた土地を取り上げ、幕府の扶持を受けた持ち主に返そうとした。
神領興行法、神仏の力にすがって、元軍を撃退させるため、夷狄(いてき)の調伏を依頼。霊験が現れたときに、寺社が持っていた荘園を恩賞とする。
楠木家のような、商業的武士団が、反発して、自力で所領や船を守ろうとしたので、悪党と呼び、弾圧するようになった。

六波羅探題……北条仲時、名越遠江入道、新田義貞
足利尊氏……弟・直義(ただよし)、執事・高師直(こうもろなお)
佐々木道誉 軍 …… 嫡子・秀綱 多賀音丸、隅田次郎左衛門、糟谷宗秋、湯浅孫六(楠木軍へ)

後醍醐天皇 皇子 大塔宮 護良親王、側近 千草忠顕、隼人・隼女(犬)、赤松則村(円心)、名和長年、
楠木正成 軍…… 妻・菊乃、 弟・正季(まさすえ)、嫡男・正行(まさつら)、
菊乃の兄・伊賀の服部善助、菊乃の姪・服部千草、橋本右京亮、湯浅孫六

後醍醐天皇が笠置山(かさぎやま:京都府南部)で蜂起し、立て籠もっていた。
楠木正成は、葛城山の九品寺(かつらぎこうげん・くほんじ:奈良県御所市)で籠城戦を行った。ここは険しい崖に阻まれた岩山の天然の要塞で、佐々木道誉の幕府軍は敗北。

後醍醐天皇の皇子、大塔宮 護良親王(だいとうのみや もりよししんのう)は吉野へ

第二章 両雄会談:佐々木道誉と楠木正成が千早城で和議・大塔宮を支えることに


後醍醐天皇は笠置山から、かろうじて逃げ出しますが、幕府軍に捕まり、持明院統の光厳天皇が即位。捕らえられた後醍醐天皇隠岐流されます。

楠木正成は、赤坂城湯浅孫六から乗っ取った。
千早城名越入道新田義貞で攻め込むが、名越軍は全滅。道誉は、攻めあぐねている。
大塔宮は吉野から高野山、紀ノ川を下り、船で播磨に、赤松円心と対面。
赤松円心は摩耶山に立て籠もり、雪解けを待って京に攻め上がり、光厳天皇らは、六波羅に避難。新田義貞は米を投げ入れて、撤退。

後醍醐天皇名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国(うきのくに:鳥取県倉吉市)の船上山に入った。
正成後醍醐天皇犬の隼人を使い連絡を取っていた。

正成と道誉は会談。畿内北部の流通路は道誉、畿内南部の流通路は正成とし、大塔宮を支えることに

1333年 六波羅探題北条仲時が送った軍勢が天王寺の戦いで楠木勢の赤松円心に大敗
鎌倉幕府滅亡、建武の新政が始まる

第三章 護良追放:鎌倉幕府が滅亡・建武の新政・反発が生じ・足利尊氏が重用・護良は鎌倉に流罪

道誉足利尊氏を引き入れ、尊氏後醍醐天皇を討伐するため、伯耆に向かっていたが、兵を返し六波羅に攻め入った。鎌倉幕府が滅亡した。

しかし、後醍醐天皇を中心とした建武の新政で大塔宮が征夷大将軍になるも、不満が出てきた。
長崎四郎左衛門を処刑、奉行は道誉が命じられた。
鎌倉幕府の残党が暴れ、鎮圧したのが足利尊氏

楠木正成新田義貞が、後醍醐天皇足利尊氏に反発。
後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子が、継子・護良親王を排斥した、千草忠顕が足利尊氏と結託して讒言などのウワサが飛び交った。

大塔宮が3ヶ月で後醍醐天皇に疎まれ解任され、足利尊氏が重用された。

足利尊氏は諸大名の参集を求めたが、集まった兵はわずか。
宮の側には、楠木正成、赤松円心、名和長年、新田義貞が集結
実は、足利の駆け引きは、弟の直義が行っていた。
楠木正成が石清水八幡宮で、後醍醐天皇に諫言しようとしたことが、ご不快だったようで、内裏の出仕まで止められた。
楠木正成が紀州に北条の残党を鎮圧の命を受け、佐々木道誉の屋敷を訪ねた。
正成は流通路を引き渡してまで、天皇と宮の和解を図ろうとした。

道誉は、大塔宮を追い出し、新政権の混乱をあおり、今上の御代を終わらせるしかないと思い暗躍した。
後醍醐天皇大塔宮の令旨(りょうじ)をすべて無効とし、捕縛した。
大塔宮は、鎌倉に流罪となり、足利尊氏に身柄を預けた。

第四章 尊氏謀反:新田義貞は鎌倉倒幕・尊氏と功を争い・朝廷が義貞に足利を討伐せよ・安倍川(東征軍勝利)・竹下で戦い(足利勢有利)

1335年 中先代の乱で、西園寺公宗が北条高時の弟・泰家と結び、転覆を謀り、遺児・時行を奉じ、旧幕府に心寄せる関東八カ国の武士が、鎌倉に迫った。
足利直義は、成良親王と尊氏の嫡男千寿王と鎌倉を脱出し、京に助けを求めた。
道誉は米を手配し足利軍に提供。足利尊氏は直義は合流し、征東将軍に命じられた。
そして鎌倉奪還。道誉大塔宮の消息をたずねると、ものさみしい山中の土牢にいたが行方不明だった。
新田義貞は先に鎌倉を攻め落としていた。しかし尊氏は、義貞の手柄ではない、嫡男千寿王を鎌倉に残し、倒幕の綸旨を示し、挙兵を呼びかけたため、短い間にあれほど人が集まった。
これすなわち戦いは他に在りといえども、功は隠れてわれに在り
しかるに義貞上聞をかすめ、抽賞をむさぼり、下愚を忘れて大官を望む。世の残賊、国の蠧害(とがい)なり」と千草忠顕に書状を送った。

楠木正成大塔宮の行方を、服部善助・千草を使い追っていた。

直義が讒言していると義貞が訴え、天皇は足利の存念を確かめようとすると、義貞を討伐するよう迫った。さらに新政権を非難し、聞き入れないなら、征夷大将軍の成良親王を奉じて幕府を開くと公言。

朝廷が、新田義貞足利を討伐せよと命じられた。
新田義貞を大将軍とする東征軍8万を送りよう命じられた。しかし正成ははずされた。

楠木正成は、千草忠顕から尊良親王への使いの名目で、鎌倉に行くことに。
伊勢の楠港から、米と馬草を積み、遠江の橋本港へ。
橋本は楠木正成(多聞兵衛)が、東国との中継地として使っており、分家の橋本家が勢力を張っていた。
橋本右京亮はこの家の出で、正成に従っていた。

矢矧川(岡崎市)で東征軍は足利勢破った。
道誉は、足利直義左馬頭の本隊に加わり、軍監を務めていた。
安倍川で 東征軍 勝利 (新田義貞・弟 脇屋義助 ) 足利勢敗れる (足利直義・道誉) 道誉の弟 定満 討ち死・道誉 降人に(近江源氏千人余も)
正成大塔宮から犬の隼女を使い「鎌倉を進撃を急ぐな」と密書が届く

先陣は道誉のひきいる1万の降人達で、足柄峠の竹下に野営し、足利尊氏の本隊を待ち受けた。脇屋勢が後詰めなので、細心の注意を払い、偽りのかかり合いを演じ、中黒の旗を四つ目結びの佐々木家の旗に替え、取って返した。
道誉の寝返りで、脇屋勢総崩れに。

楠木正成は、千草忠顕から尊良親王への書状を届ける形で、竹下に。尊良親王より軍勢の指揮を執る許しを得て、佐野山に向かったが、義貞勢は退却し始めていた。

第五章 王城奪回:北畠顕家に出陣を促す・尊氏京へ・後醍醐天皇は比叡山に・北畠父子に尊氏敗退

三島大社の周りに、新田義貞が敗走した軍勢を集めていた。
楠木正成は、奥州の多賀城の北畠顕家(きたばたけあきいえ)に出陣を促すと言い、
沼津から、菊水丸に戻り、冬場の海を奥州に向かった。
多賀城の北畠親房・顕家父子に挨拶の場で、東征軍は三島での戦いに敗れ、逃げ去ったことを知った。狼煙で大体のことは分かると教えてもらった。
正成が東征軍に加わっていなかったことを知り、大塔宮を救出に十三湊の安藤新九郎が向かったと聞いていると教えてくれた。

1336年 正月 道誉は、軍勢1万を率い、印岐志呂(いきしろ)神社を本丸とする伊岐州(いぎす)城(滋賀県草津市)を包囲していた。比叡山の山法師が一千人立て籠もっていた。
嫡子・秀綱が右腕になっていた。攻撃に僧兵は火を放ち坂本へ逃げ落ちた。
勢多の足利本隊と合流。
軍勢を京都に向けた理由は後醍醐天皇の側に仕える新田義貞討伐のため。

道誉は、直義から、恩賞に芦浦の知行を申しつけた、尊氏の御教書を用意。
また、佐々木家の惣領職に任ずる御教書を用意。
琵琶湖水運を中心として畿内北部の流通を掌握できることになり、六角氏を配下に組み入れ、全国の佐々木一門に号令することが出来るようになった。

竹下の戦いで東征軍を打ち破ち破り、新政に不満を持つ、諸国の武士が一斉に挙兵。
関東・東海・尾張・美濃の大半は足利に合流、四国の細川定禅、播磨の赤松円心が呼応していた。
天皇方は勢多に名和長年、宇治に楠木正成を配し、山崎に脇屋義助、鳥羽口に近い大渡義貞をおいて、都を守り抜こうとしたが、兵力の差は5倍以上だった。

後醍醐天皇は比叡山に逃げ延びます。三人の上皇も連れ去られた。

北畠親房・顕家父子が愛知川の宿に到着。主上は坂本の日吉神社におられた。
足利方は、三井寺に6万の兵を入れ、細川定禅を大将として、坂本攻める構え。
印岐志呂神社を奪い返し坂本への航路確保した。

新田勢が三井寺の門前町である松本宿に火を放った。
新田勢が攻め、2番手は北畠勢、新田義貞ひきいる2万の兵が突入、無理をせず退却。
勝ったと思った細川勢が追撃を始めた。これだ正成が敵を寺から誘い出す罠だった。
正成勢が、船団で横矢を打ちかげた。紀州の湯浅孫六が正成に加勢。弩(ど)を用いた。
三井寺は焼失した。

道誉は、鎌倉幕府も、後醍醐天皇の新政も捨てた。
音丸に命じお三方を探してた。高師直が訪ねてきて、味方は大敗北でござる。
この国は、主上をいただかねば、収まりが付かぬ。太古の昔から。

正成は、成就護国院の後醍醐天皇の元に、働きを認めるも、勝手を繰り返すなと釘を刺された。護良の無事(?)を教えられた。

第六章 院宣工作:道誉が持明院の院宣を得る、京は荒れ果て、北畠は奥州に戻る

道誉は猪名川の豊島河原(大阪府池田市)に布陣するよう、足利尊氏に進言。
持明院の院宣が届くのを待って、大義名分を得て都に攻め込む予定だった。
新田勢・北畠勢・正成軍が攻めてきた。
道誉は、嫡男・秀綱に任せ、京に戻り、音丸が探し当てた、公家の日野資明に会った。
3年前、北条仲時の騒ぎの時、お三方を世話をしていた。
後伏見法王の院宣をいただき、豊島河原に戻ったが、退却していなかった。
室の津尊氏に院宣を渡した。

一方、正成は洛中を見回る役目を負っていた。京は、荒れ果てていた、地方から出てきた将兵は、戦勝に見合う恩賞を得て、帰国したがっていた。足利軍に備え、軍備もとけずに、不満がたまっていた。正成の嫡男・正行がある争いを止めていた。
北畠顕家勢が、帝に失望し、奥州に戻った。正行に争いを治めた御礼に、馬をプレゼントした。
服部善助・千草も、足利直義が殺すよう命じた、大塔宮の最期を確かめてきた。
千種忠顕に会い、尊氏は博多近くの多々良浜で、天皇軍を破り、都に向かっており、新田軍は途中播磨の赤松円心に阻まれていると聞いた。後伏見法王の院宣を尊氏が得た事を知った。

尊氏は、多々良浜で勝ち、元から輸入している、銭を抑えた。(当時流通している貨幣はすべて元のもの)。
道誉は、竜泉寺で隠居していた。後伏見法王がみまかった。
大念仏狂言にわく引接寺で、日野資明で密会、院宣を願い、持仏堂で、光厳天皇の院宣をいただいた。
正成は、菊水丸で、備前の児島に向かった。白旗城で、新田義貞と会い、九州から攻め上がってくる足利軍に備えるよう脇屋義助を向かわせた。足利勢の細川定禅船坂峠で立てこもり、道を塞いだ。
正成に、児島高徳が仲間の豪族と手を貸し、船坂峠を破った。
服部善助が新たな、院宣を下りたと知らせてきた。尊氏に渡るのを阻止しなければ。

第七章 渦中の玉 :道誉の船を、正成の菊水丸が追い、渦に巻き込まれた。

尊氏は、大船団を率いて、備後の鞆の浦に入った。
道誉は、室の津に入り、近くの醍醐寺の別院に。(この時代の、寺社は、商売や金貸し酒造りなどの特権になっている。港におかれた別院は、支店の役割をはたしてた。)
院主は天皇方の、動きを詳細に掴んでいた。
道誉の船を、正成の菊水丸が追っていた。道誉の船が大渦に巻き込まれた。
渦に乗り込まなければ、院宣は奪えない。
平家物語に「分段の粗き浪、玉体(天皇の体)を沈め奉る
音丸は、油紙に包まれた院宣を腹に巻いた。
正成らは、双胴船に固定し、乗り込もうとしたとき、渦は吹き上げ、たたきつけられた。双胴船はバラバラになり、全員投げ出された。道誉はライバルを助けるため、楯を投げた。

第八章 永訣湊川 :道誉 光厳天皇の院宣のため尽力、和議を願うも、正成 湊川で討たれた

道誉は、鞆の港にたどり着いた。足利側の番船が来た。高師直を呼び、足利尊氏と会い光厳天皇の使者として、院宣を渡した。
これによって、尊氏は、朝家の命によって、後醍醐天皇と戦う、大義名分を得た。
憎しみが憎しみを生む様な争いをこれ以上続けてはならぬ。と上皇様はおおせられた。

道誉は、直義に会いたいと伝え、やって来た。
直義を迎え酒宴をはり、大塔宮の生死を訊ねた。直義は逆上し開き直った。

道誉は、都に戻り、日野資明に院宣を届けたことを報告。
2日後正成も都に戻り、後醍醐天皇と足利尊氏を和解させるしかない、それには足利尊氏を征夷大将軍に任じて、幕府を開かせる事だと考えた。内裏に千種忠顕をたずね、協力を依頼した。その後、道誉をたずね、先日の御礼を述べ、天皇と足利方の和睦をはかりたいと相談した。
「主上が政治の実権をにぎられたなら、誰も異を唱えることができなくなる。それゆえ主上と一部の取り巻きばかりが独裁するようになったのだ」と道誉が言った。

内裏で評定が開かれ、正成は足利方と和議をはかりたいと奏上したが、無視され、出陣を命じられた。
道誉は、正成からの書状を読んでいた。音丸が犬の隼人と戻ってきた。大塔宮は淵辺伊豆守にかくまわれており、安藤新九郎という蝦夷の王に、奥州に案内される時、書状と犬を預かった。

正成は、京を発ち、勝ち目のない戦に向かっていた。桜井の宿で、服部善助らが敵情視察から戻り、足利の先陣は明石まで、水軍が中心。新田軍は、湊川を前にして戦おうとしていた。正行を呼び、河内に帰るよう申しつけた。正行は、北畠中将からの文に、主上がお勝ちになると思えないとあったと伝えた。
弟の正季湯浅孫六が駆けつけた。
道誉も桜井の宿についた。大塔宮の書状を渡したかった。
正成は湊川の河原で、大塔宮の敵・直義の首を狙ったが、逃げられた。
迫ってくる敵を追い払うも、手勢は減った。寺に駆け込み、切腹しようとしていた。
そこへ、隼人が大塔宮の書状をもって駆け込んできた。
道誉が寺に着くと、矢を浴び倒れていた。直義勢が、さらし首にしていた。
かけだしてきた隼人の首に巻かれた書状には血判があった。

▽まとめ&感想

元弘の乱(後醍醐天皇が企てた2度目の倒幕計画)が始まり
佐々木道誉と楠木正成が千早城で和議・大塔宮を支えることに
鎌倉幕府が滅亡・建武の新政・反発が生じ・足利尊氏が重用・護良は鎌倉に流罪
新田義貞は鎌倉倒幕・尊氏と功を争い・朝廷が義貞に足利を討伐せよ・安倍川・竹下で戦い
北畠顕家に出陣を促す・尊氏京へ・後醍醐天皇は比叡山に・北畠父子に尊氏敗退
道誉が持明院の院宣を得る、京は荒れ果て、北畠は奥州に戻る
道誉の船を、正成の菊水丸が追い、渦に巻き込まれた。
道誉 光厳天皇の院宣のため尽力、和議を願うも、正成 湊川で討たれた。

鎌倉幕府の倒幕から湊川の戦いまでを、佐々木道誉と楠木正成の視点で描いた物語。
足利尊氏が主人公でなく、弟 直義は 散々な扱い。道誉が、バサラながら、人情的で、学もあり、主人公。
新田義貞は添え物で、大塔宮と犬の隼人が大事にされていた。

大河ドラマとは、視点がちがいました。
ちなみに65歳の私は、昔、必ず教科書にあったと言われる楠木正成を知りませんでした。