太平記 36話「湊川の決戦」▽あらすじメモ▽

尊氏 大軍で瀬戸内海を東へ 義貞 播磨白旗城に手間取る

建武3年2月 足利尊氏らによる 京都攻略は失敗に終わり、尊氏は再起を図るべく九州に落ちていった。
一方 新田義貞を中心とする朝廷側の軍は、奥州から急遽駆けつけた 北畠顕家の軍も加わり、破竹の勢いで反乱軍を制圧し、義貞は京を出て さらに 軍を西へと進めていた。
後醍醐天皇は 最大の敵であった 足利尊氏を追い払って、意気盛んであったが、建武の新政に大きな不満を持つ武家たちが全国に広がり、奥州、山陽、四国、そして京都でも反乱の火の手が上がろうとしていた。

建武3年(1336)5月
瀬戸内海に、瀬戸内海を東へ走る足利尊氏(真田広之)の大船団の姿があった。尊氏は九州の豪族 少弐頼尚(しょうによりひさ)らを新たに軍勢も加わった。

一方、新田義貞(根津甚八)は山陽地方に残った足利勢の討伐に乗り出していた。足利方の赤松円心(渡辺哲)播磨の白旗城に立て籠もって抵抗。この白旗城の攻防戦は50日の長きにわたってしまうことになる。

足利軍 鞆の津に一万の大軍で上陸 京の内裏 畿内 正成に出陣命令

5月5日
東上する足利軍は備後福山の鞆の津に入港。ここで足利直義(高嶋政伸)率いる一万の大軍を上陸させ進撃させた。水路を行く尊氏の本隊は、直義軍と歩調を合わせて東へと攻め登っていった。

京の内裏にも足利軍大挙襲来の知らせは、疾風のように都を駆け巡った。
「備後 尾道に足利は大小500の船で入り、ここに8万の兵が集結いたしたる由」と後醍醐天皇(片岡孝夫)に伝えられた。
「新田はどうした?いまだ播磨を落とせぬのか?」と坊門清忠(藤木孝)に問うと、赤松円心に苦戦しているとの答え。
「新田の率いし兵は六万ぞ。何を手間取っておる。」と後醍醐はいらつき、急ぎ畿内の兵を集め、足利軍を水際で防ぐよう命じる。

河内では、楠木正成(武田鉄矢)が山の畑で大根の種をまいていた。
そこへ久子(藤真利子)正行(まさつら)が現れた。正行は花夜叉(樋口可南子)の猿楽舞の用意ができ 父上を待っていると伝えた。久子は正季(赤井英和)の使いが、正成に都へ戻るよう4回も来ているとを告げた。

正成が飛んできたカラスを見て、「大根の種をまいても カラスに食われてしまう」とぼやきながら、正行に種をまくのを手伝うように言う。
「カラスに食べられるのに、まくだけ損でござりまする」と正行は言う。
正成は「種はまくことじゃ。カラスに食われても十に一つは残るやもしれん。残った一つが花を咲かせ、種を作る。種さえあれば、また次の年まくことができる。カラスに食われた種もただ無駄にはならん。カラスのフンに混じってどこぞの山の中に落ち、人知れず大根の花を咲かせ、また種を作るかもしれん。」
正成は正行と久子と、大根の種を畑に蒔き続けるのだった。

夜、正成の館で妹 卯木の花夜叉服部元成(深水三章)の猿楽舞が披露された。
「あの二人、息のおうた舞でござりますなぁ」と久子が言うと、「近々、めおとの盃を交わすのであろう。息がおうて当たり前じゃ」と正成。
そこへ恩智左近が都からの急使を知らせた。
席を外した正成が急使の書状を見ると、足利尊氏と戦え との勅命が畿内の武士に出され、数日中にも勅使が来るとあった。「ゆかぬわけにも参るまい」と正成は、久子と正行に告げる。

正成は花夜叉たちのところへ戻り、舞を見せてもらった礼を言う。「卯木、そなたが武士の家を捨てて舞の道に入ったのは正しかったのやも知れぬ。今、そう思う。」と言う兄に、花夜叉は大変なことと感じる。正成は「元成どの、妹をよろしゅう頼みまする」と頭を下げた。

やがて帝の勅使が訪れ、正成は正行、正季を連れ兵を連れ 都に旅立った。正成 最後の出陣であった

正成 後醍醐に拝謁 勝ち目なし足利軍を京に入れ帝は比叡山に動座 進言

一方、陸路山陽道を進軍中の足利直義軍が脇屋義助(石原良純)の軍を苦もなく打ち破り、福山から岡山へなだれ込んでいた。
一方新田義貞は白旗城攻略をあきらめ、兵庫へと退却を始めた。海路を進む尊氏が背後に上陸し、陸路を来る直義の軍に挟み撃ちにされることを恐れたのである。

5月21日
正成に向かい、参内して後醍醐天皇に拝謁した。
後醍醐は正成の体調を心配し、山陽方面の戦況を嘆くが、正成が行くのなら安堵している、と一振りの刀を授ける。
正成は恐縮して受け取り、一言だけ言わせて欲しいと後醍醐に申しでた。
「こたびの戦でござりまするが、我が陣に勝ち目はございませぬ。
坊門清忠が「勝ち目がないとは何とした弱気、君の御前なるぞ。」とたしなめる。
四条隆資も「3年前千早城では 僅かの兵で数万の寄せ手を打ち破ったではないか。」と非難する。
正成は「あの戦いの頃は、諸国の武士 民が 北条の悪政にうみ 新たな世を仰ぎ望んでおりました。かつて正成が千早で戦い得たのは、時の味方、人の心の支えがあったゆえに ございまする。」

これに後醍醐が「ではたずねる。時の味方、人の心の支えは今は無いと申すか?」
正成は、建武の新政に失望して 人心はすでに離れていること、敗れたはずの尊氏に 多く集まり、こちらには 声を掛けても兵が思うように集まらないことをあげ「人の心の移り変わりは恐ろしゅうござりまする」と言った。

後醍醐は、朕の不徳のいたすところと認める。されど今は、そうした議論の時ではない、どう戦うか聞かせよ 命じる。
正成は義貞の器量では、足利軍を兵庫で食い止めるのは無理、正成にも無理でございます。「むしろ足利軍は黙って兵庫を通し、都へ誘い入れ 兵糧攻めにすれば..」と言う。
しかし清忠が「御楯を任じる王軍が、一戦も及ばず山の中に逃げ隠れ、敵の空腹を待つとは笑止の策よ。かかる策を義貞が聞き入れるはずがない」という。
正成は「聞き入れねば見捨てるまで。新田殿は足利をあと一息まで追い詰め、九州まで追ってとどめを刺さず、自ら都に戻り 虚しく時を過ごしました。しょせん新田は、足利の敵ではございませぬ!」と断言。
清忠は「敵の肩を持つのか!」
さらに正成は「かないますることならば、帝の広きお心にて、足利と和睦いたされ、公武あい歩み寄って戦わぬが上策と、正成は思うておりまする」
これには後醍醐も「足利と和睦せよと申すか!」と思わず声を荒らげる。
「それがかなわぬまでも、せめて…せめて、正成の言をお聞き入れになり、すみやかに叡山へ御動座願い奉りまする!伏して!」正成は平伏する。

後醍醐は、しばらくして、「正成 今の儀、朕は聞かざりしこととするぞ…!」
やがて御簾がおろされ、後醍醐の姿は見えなくなった。

正成 出陣 桜井の宿で嫡男 正行と合流も河内に帰す

正成は参内したその足で京都を発った。先発していた 弟 正季、子の正行の軍は京都郊外山崎の麓の桜井の宿でまち受けていた。
しかし河内・和泉の武士達にも声を掛けたが、なかなか集まらず、正季たちは「卑怯者め」と憤る。しかし正成は「千早の戦の時も千人足らずであった、これぞ、我が軍じゃ」と正季達をなだめる。
さらに集まった兵の中に、籠城戦で怪我した者が決死の思いで加わっていると知り、「こたびの戦に これほどの数はいらん。」多すぎるので 明朝共に行く者、返す者申し伝える。
一同陣幕を出て行くが、正季は足を止めて、ただならぬ兄の様子をじっと見つめる。
正成は正行を呼び止め、「正行、そなたは ここから河内へ帰れ。」正成の言葉に、正行は「なにゆえでござります?」と聞き返す。
正成がこの戦いで父は死ぬかも知れないと言うと、正行は母 久子も「父上は 何も仰せぬならぬが、こたびは覚悟の出陣だ。それでも行くか」と言っていた。
「同じ初陣なら、父上とひとつの陣で、同じ死ぬなら 父上と共に死にとうございます。母上はお泣きになったが そなたも13 年に不足はあるまい。この鎧も手ずから着せて下さいました。」
正成は息子を誉めるが、武士にとって一番大切なのは二つとない命、一番の恥は無益な死、父と共に死ぬのは無益、と正行を諭す。
「自分は帝に深い御恩があるから、戦に行く。しかし、もそっと力を尽くし、戦ではない忠義の道を探すべきであったが、見つからなんだ。心は砕いたが、力が及ばなんだ。それが生涯の不覚じゃ。この戦は不覚の戦じゃ。不覚の戦にそなたを連れて行くわけにはいかぬ」と言いきかす。
「父上!」となおも懇願する正行に「河内へ帰れ!世の中は変わる!それを山の中からじっと見ておれ!」と一喝する。そして「大人になったら自分の命をいかようにでも使え、それから先は、そなたの人生だ。」 正成は息子の肩に手を置いた。
「生きて、はよう大人になれ。河内へ帰って、山の畑へ行って、カラスを追い払ってくれ。そなたと二人でまいた種が、カラスに全部食われんようにな。」正成も涙し、正行も涙する。
正行は従者3人と 桜井の宿から、河内へと帰っていく。

正成たち一党がそれを馬上で見送る。正行が立ち去り際に振り返ると、正成は笑顔を見せる。
正行の姿が見えなくなると、正成は一同に向かって「目指すは湊川!では、参る!」と叫んで走り出した。

尊氏の船団 兵庫に到達 上皇の錦の御旗掲げる 義貞和田岬に3万の兵布陣

5月24日夕刻近く、尊氏の船団はついに兵庫沖に現れた。尊氏はふなばたに出て高師直たちと夕日の兵庫の山並みを眺める。
四国の土岐一族、河野党、細川定禅など2万5千の大部隊が神戸沖を覆いつくした。


夜、尊氏の船の中で諸将を集めて軍議が開かれた。用意された「錦の御旗」が広げられ、これが尊氏の御座船に掲げられ、それを合図に陸に走る。師直は自軍が光厳上皇の院宣を受けた皇軍であることを将士らに伝えるよう指示する。
細川顕氏が地図を広げて、上陸の手はずを説明し始めた。説明を聞いていた尊氏は「楠木正成の陣はいづこにおわす?」と尋ねる。顕氏が会下山(えげさん)に楠木の菊水の旗が多く見られると伝える。

翌5月25日朝新田義貞和田岬一帯を尊氏らの上陸地点と予想し、3万の兵を置いていた。
「足利の船団、いまだ動きませぬ!」との報告を受け、義貞は海面の船団をじっとにらんでいた。

一方、楠木正成は、陸から進撃してくる 足利直義軍を防ぐため 新田軍の西の端に位置していた。

5月25日早朝尊氏が「かかれ!」の声と共に采配をふり、足利軍の作戦は開始された。
錦の御旗が尊氏の御座船に高々と翻る。
まず四国の 細川定禅の500艘の軍船が東へ向かって動きだした。
そして 陸の直義軍も明石の大蔵谷から進撃を始めた。
尊氏が甲板に駆け上がり、「者ども!乱声(らんじょう)ーっ!乱声ーっ!」
船上の兵士達は一斉に太鼓・銅鑼を鳴らし、鬨の声を上げる。

その戦いの始まりを告げる響きを、正成は聞いた。西からは、直義率いる大軍が地響きをたてて押し寄せてくる。

直義・正季 乱戦開始 尊氏上陸し新田楠木軍は分断され 正成包囲される

正季らは刀を抜き、「放てーっ!」の声と共に矢が一斉に放たれ、直義軍の兵士達に次々と当たるが、倒れる兵士をものともせず直義は突撃していく。直義・正季双方の騎馬武者が入り乱れ、正季、直義ともに刀を振るう。

このとき、錦の旗を立てた尊氏の船が、新田軍の待つ和田岬のはるか東へ走るのが見えた。

「尊氏の船が東へ向かうぞ!」それを見た義貞は立ち上がった。義貞は尊氏が東の生田方面に上陸するとみて、直義軍と挟み撃ちにされては ならんと、軍勢を率いて和田岬から東へと移動を開始した。

義貞軍の動きに、正成達も気づいた。「新田どのの軍が東へ動く!何事ならん!」と左近が叫ぶ。
「おろかな、錦の御旗に惑わされておる。あの船はおとりじゃ!それがなぜ分からん!」正成はそう言って悔しがる。

尊氏は御座船から別の船に乗り替え敵の目を欺いていた。そして 新田軍と楠木軍の中間地点、駒ヶ林の浜であった。尊氏は新田軍が去り手薄になった浜に易々上陸し、これにより 新田軍・楠木軍は分断されてしまった。
新田軍は京都方面へ退却を始め、その結果 楠木軍は敵中に取り残されることになった。

正成らは馬にまたがり、突撃の体勢をとった。「敵は足利尊氏ただ一人!命を惜しむな!名こそ惜しめ!」正成の命令一下、楠木軍は押し寄せる尊氏軍に突っ込んでいった。
尊氏も先頭に立って楠木軍に立ち向かい、両軍は乱戦に突入する。
わずか数百の楠木軍が、一万を超える足利軍相手に6時間の長きを戦った。
乱戦の中で、正成は馬から降りて敵を切り伏せる、一瞬両雄の視線が合う。正季も直義軍相手に抵抗を続けるが、ついに歩いて逃げ回るまで追い込まれる。
ついに尊氏率いる騎馬武者達が、正成たちを完全に包囲する。
馬上の尊氏が正成を見下ろすと、正成は微笑み、尊氏に一礼した。

▽まとめ&感想

尊氏 大軍で 瀬戸内海を東へ 義貞 播磨白旗城に手間取っていた。
足利軍 鞆の津に一万の大軍で上陸 京の内裏 畿内 正成に出陣命令。
正成 後醍醐に拝謁 勝ち目なし足利軍を京に入れ帝は比叡山に動座 進言。
正成 出陣 桜井の宿で嫡男 正行と合流も河内に帰す。
尊氏の船団 兵庫に到達 上皇の錦の御旗掲げる 義貞和田岬に3万の兵布陣。
直義・正季 乱戦開始 尊氏上陸し新田楠木軍は分断され 正成包囲される。
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