暦応2年(1339)8月16日 吉野の後醍醐帝が崩御した。帝の崩御はすぐさま諸国に報じられ、南朝方の公家が武家に衝撃を与えた。帝と言う大きな支柱を失った南朝方は常陸・信濃・越前などで必死の反撃に転じた。
これに対し足利幕府軍は 高師直兄弟・佐々木道誉らの戦果がめざましく、一躍都でのし上がることになった。一方幕府内では、師直達と 政を司る直義達と対立が深まった。外なる敵と内なる対立で尊氏の苦悩は高まっていく。
高師直 塩冶高貞の妻を横恋慕
塩冶高貞亭
ある日、 高師直(柄本明)が手下の者と塩冶高貞(えんや たかさだ :浅野和之)が出かけるのを待って 裏口から屋敷に入り込み、高貞の妻 西台の湯屋へ案内した老女に金をつかませる。
師直がのぞき見ると、西台は湯を浴びていた。
そこへ高貞が戻ってきたとの声に、西台が湯屋から出てきて、師直と鉢合わせ。
師直は西台の手をつかみ 「いずれそなたを手に入れてみしょうぞ」。
師直は塩治の家臣たちに見つかり 斬り合いをしながら屋敷から出ていった。
高貞は 師直であることを見ていた。
なぜか 一色右馬介(大地康雄)も この様子を見ていた。
土岐頼遠 光厳上皇の行列を狼藉 尊氏と直義のケンカに
さらなる大事件が発生した。ある夜、樋口小路の辻において光厳上皇の行列と 武勇名高い 婆娑羅大名土岐頼遠の一行が鉢合わせした。
酒に酔っていた頼遠は道を譲らず、矢を上皇の乗る輿に向けて放った。
矢は輿に当たり 上皇は倒れた輿から路上に転げ落ち、頼遠はごうぜんと見下ろしていた。
この事件は幕府を震撼させた。
将軍 足利尊氏(真田広之)は、上皇の見舞いに行く準備をする中、桃井直常(高橋悦史)が、頼遠が勝手に美濃に帰国してしまったこと、それに対し 三条の直義(高嶋政伸)が追っ手を出し、刃向かうようなら斬れと命じたことを知らせた。
一存で、土岐頼遠の討伐を決めたことに 尊氏は急いで直義の屋敷へ向かった。。
三条坊門 足利直義邸
尊氏が直義邸に入ると、清子(藤村志保)が直冬(筒井道隆) と直義の参内を見送りしようとしていた。
尊氏は「参内の前に話がある」と直義と一室に入った。
中から二人の口論が聞こえ、清子は不安になった。
尊氏は直義が独断で、脇屋義助を討った頼遠の討伐を命じたことを責めるが、直義は法の秩序を守るためにも厳正に処すると言い張り、兄上はあの者達に甘いと詰め寄る。
尊氏は「あの者たちにも言い分がある」と言い、頼遠たちも世を変えたいと、だが政に参画したいと、思ってきたが 許されず、戦さだけにこき使われている ことに不満があるのだ と言う。
しかし直義は「笑止な…しょせん外様ではございませぬか。恩賞で一国の守護になれば それで本望でしょう。幕府のことも、足利一門と法に熟知した鎌倉以来の名家の者で執り行うて参ります」 と言い放った。
「それは違うぞ!」と 尊氏は思わず声を上げ、「北条が滅んだのは一門と有力御家人で政を占めたからだ、新しい力を持った武家たちにも広く門戸を開かねばならぬ。」
直義は幕府政治の手本は鎌倉幕府であり、北条が 滅んだのは私利私欲に走ったからであって、新しい幕府などという 成り上がり者にこびへつらうこと不要と反論する。
尊氏は「兵を出すのは止せ」「止めよと」と迫った。
直義は「政はそれがしが行うておる。将軍といえど、口出しは無用でござる」と立ち上がる。
尊氏も「なに!」と怒りをあらわに立ち上がった。
直義は呼び止める兄を無視して 出て行った。
そんな兄弟の様子を清子は心配そうに見守っていた。
塩冶高貞を 師直が追い 吉野方と密会つかむ
幕府
幕府の重臣なども、土岐討伐については意見が割れていた。幕府の出方次第では土岐が本国で反乱を起こすという噂もも広がり 混乱に拍車を掛けていた。
頼遠討伐については侍所でも大激論が交わされ、さまざまな意見が出たため、師直はこの空気を直義に伝えるよう言って終わらせた。
退出しようとする師直を、塩冶高貞が呼び止め、妻に送った付文の束を返し「今後、我が館に来られる時は表門から」と立ち去った。
周囲にいた武士たちがクスクスと笑い、師直は「何がおかしい!」と怒鳴りつける。
師直は館に戻ると、些細なことで良い 塩冶の身辺を調査するよう命じる。
そこへ高師泰(塩見三省)が来て 師直に 都へ戻った土岐頼遠が捕らえられたことを 告げた。
奈良。
数日後 塩冶高貞はひそかに阿野廉子(原田美枝子)と密会していた。
高貞は幕府内の争いが激げしくなり、足利兄弟も割れてきたことを告げる。
廉子は「わらわの申したとおりであろう。二頭は並び立たず。そも尊氏が弟に政を任せたときから、こうなることは目に見えていたのじゃ」 。
「さすがにご慧眼。」と言う高貞に、廉子は尊氏が 度々 和議の密使を吉野に送ってきていることを教えた。
廉子は「その話に 乗るのはまだ早い。都は遠からず内から崩れよう。何としても土岐を直義に殺させねばなるまい」
土岐頼遠は斬首に
二ヵ月後、六条河原で直義の命により 土岐頼遠は斬首の刑に処された。
幕府には尊氏の前に師直一派だけが集まり、今川殿 吉良殿 斯波殿 公家衆がが三条殿に付かれた。
師直は「もはや幕府は三条どのの思いのまま」
尊氏は「土岐は恩ある上皇に 矢を向けたのだ。やむをえまい」と言うのみである。
登子 直冬を嫌い 義詮を跡継ぎに願う
足利尊氏邸
イライラとする尊氏のもとに清子が来て、持参の鎌倉でよく食べた餅菓子を口に入れ 二人で鎌倉を懐かしむ。
清子は 「近頃。父上の夢をよう見る…そなたと直義の言い争いなど、父上がご覧になったら何と仰せであろう。女というものは、かかる時は情けないものじゃ。見ているだけでどうすることもできぬ」
尊氏はみな気が立っているだけで、直に落ち着く 一時のことだと母に話す。
そこへ登子(沢口靖子)が 戻ってきて、外に直義殿の車があったので珍しいと思ったと言う。
清子が「あれは直冬が年寄りの一人歩きは危ないと申し…」と 口ごもった。
登子は「優しいお孫様でござりまするな。よくお気がつかれて。同じ孫でも そばにおらねばつまりませぬな。義詮も京におれば母上様のお気に入るよう…」と皮肉っぽく言う。
これに尊氏が「一度京へ呼び、帝に拝謁させねば」言う。
登子は一度と言わず、早く義詮を都へ呼んでほしい。いつまでも直義に政治を任せていないで、義詮に継がせるべき、今 直義殿が 天下の事を執り行っており、 直義は直冬に政を継がせる との話もあると強く訴えた。
これには清子も、直義と直冬をそう悪し様に言うものではないとたしなめた。
登子は「揉め事の種ゆえ、そう申し上げているのでございます」
清子は「直義や直冬は揉め事の種か?」と思わず声を荒らげた。
登子は足利家が二つに割れるのを心配しているのだと言う。
清子は「そうではあるまい。登子どのは直冬が憎いのじゃ。…」
登子も「登子は直冬どのが憎うござりまする。殿がどこぞの白拍子に生ませた子など、甥とは思えませぬ。その子をかぼうておる直義どのも母上も、憎うてなりませぬ!」
「登子!」尊氏もたまりかね 声を上げた。
登子は「我が身が情けのうござりまする。このような事を申し上げるなど…。この世に義詮の他は身内と申すはお二人だけにござりまする。登子には 誰一人…」と泣き崩れる。
清子は「そうであった。尼も言い過ぎた。悪う思うな」と手を握り そっと部屋を出た。
廊下に出たところで、清子はよろめき、壁にもたれたので、尊氏があわてて駆け寄るが、「殿!」と声が かかり、清子は見送りも断って立ち去っていった。
右馬介が姿を現し、塩冶に討伐の命が下った。高師直から塩冶高貞が南朝と通じているとの訴えがあったとの報告に、尊氏は驚く。
塩冶高貞討たれ 尊氏 宿願の南朝と和議を明かす
塩冶高貞亭
桃井直常(高橋悦史)に率いられた幕府の軍勢は塩冶の館に攻め込み、わずかの抵抗で切腹して果てる。妻の西台も短刀で胸を突いて自害し、館は炎に包まれてしまう。
師直は「自害いたした?西台もか?」二条の君 (森口瑤子)と酒を飲みながら報告を受け呆然とした。そこへ尊氏から師直に呼び出しが来たとの知らせが入る。
幕府
尊氏は 塩冶の処分について 直義をはげしくなじっていた。
尊氏は塩冶高貞が吉野と通じていることを知っていて、右馬介を当てていたのだった。
桃井直常の「高師直からのご指摘があり …報告が遅れただけ。」という物言いに 尊氏は怒る。
直義は 尊氏が南朝との和議を図っていることを知り「将軍はわれら足利一門を信じておらぬのじゃ」と怒る。
尊氏は「さよう、信じてはおらぬ」今の南朝にしがみつき 師直達の勝ち戦に胡座をかいている。
都の朝廷と吉野の朝廷があり、 戦の大元ははここにあり ひとつにせねば、世にまことの安穏は訪れぬ と言われ 直義達は黙り込んだ。
そこへ呼び出された 師直が入ってきた。
尊氏は師直を近くに呼び寄せると、手にした扇子(堅そう) でいきなり力いっぱい師直を殴りつける。悲鳴を上げる師直に尊氏は無言のまま容赦なく連打を浴びせる。
皆 唖然としてその様子を見つめる。
扇子が壊れるまで師直を打ちすえたのち(数えたら27回も打ち付けました)、尊氏は「みな下がれ」と命じる。
尊氏は右馬介に 鎌倉に下って、義詮がどれほどの器に育ったか 確かめてくれと命じる。
その次第で 京へ呼んでマツリゴト を任せると言い、「このままでは、足利は割れる。」と不安をもらす。
右馬介が下がると、倒れていた師直が「申し訳ございませぬ!師直、心得違いをいたしておりました!師直、殿が仰せなら腹かっ切って!」 と平伏。
尊氏は「そちは代々足利宗家に仕える高家の惣領。頼りにしておるのじゃ。道を誤るでない」 と告げる。
尊氏の母 兄弟仲良くと言い残し 亡くなる
その年の暮れ、清子が重い病の床についた。
尊氏・直義は母を見舞い、清子は二人の手を取って重ね合わせ、 「兄弟、仲良うに のう」と声をかける。尊氏も直義も深くうなづいた。
数日後、康永元年12月23日 清子はこの世を去った。その遺言は数年守られるが、やがて足利兄弟は宿命ともいえる対決へと突入していくのである。
▽まとめ&感想
土岐頼遠 光厳上皇の行列を狼藉し尊氏と直義のケンカに。
高師直 塩冶高貞の妻に横恋慕し高貞を追い吉野方と密会つかむ。
土岐頼遠は斬首に。登子 直冬を嫌い 義詮を跡継ぎに願う。
塩冶高貞討たれ。尊氏宿願の南朝と和議を明かす。
尊氏の母 兄弟仲良くと言い残し亡くなる。
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今回は、高師直さんの一人舞台でした。塩治高貞の美人の妻を自分ものにするために、そこまでするかというほど のめり込み、自害され悔しがり、お仕置きされる 数々の顔。すごいですね。
尊氏の 師直へのお仕置きもすごく、何度も何度も打ち据え、最後に優しい声を掛ける。
良かったです。