湊川の合戦で破れ 正成と正季 差し違いで自刃
建武3年(1336)5月25日
摂津国 湊川
九州から東上した足利軍と新田・楠木連合軍は湊川で激突した。
尊氏を波打ち際で叩こうと義貞は錦の御旗のおとり船に釣られ 東の生田川に移動。
尊氏は易々と新田軍と楠木軍の中間点 駒ヶ林の浜に上陸。
新田軍は足利軍大挙上陸とみて、総崩れになり 京都方面に退却。会下山の楠木軍が孤立した。
楠木軍 千余名 足利軍三万五千 もとより衆寡敵せぬ(しゅうかてきせず・多数と少数では相手にならない)戦いであったが 楠木軍は善戦し、その壮絶な戦いは 6時間余り続いた。
直義・正季 乱戦開始 尊氏上陸し新田楠木軍は分断され 正成包囲される。
戦いに敗れ傷ついた楠木正成(武田鉄矢)ら一党は足利尊氏(真田広之)の降伏勧告を断り、死に場所を求めてさまよっていた。
時宗の道場が無人なのを確かめ、正成達は多くの蚕が這い回る桑のそばの道場に入った。
宝満寺 尊氏本陣に、楠木軍がくすのき谷に逃げ込んだと知らされた。細川顕氏らが総攻撃を口にするが、尊氏は彼らがもはや死に場所を求めているだけと思い「むげにその首を争わず、静かに最期を見届けてやろうぞ」と言うのだった。
赤い日輪の中 皆 道場に座り込んでいた。あまりの静かさになぜ攻めてこないと正季(赤井英和)がいぶかしむが、正成は、末期にゆとりを得たのはありがたい、見納めの落日も心静かに眺められるとつぶやく。
これを聞いて正季が「長い間、わがままを申しました。かかるごとき末路にお誘いしたのは、それがしのせいにござります。…」
正成は「かほどの大事、誰に引かれてするものぞ。そは、正成の身の内にある運命というものであろう。…」
そして正成は正季に「人が死するとき願う一念によって来世が決まるという。そなたは何を思う?」
正季は「次の世も、いや七生までも生まれ変わって朝敵を滅ぼしとうございます!」
「ほう…七生人間か、七生鬼か?」と正成が聞く。「鬼となっても!」と正季。
正成は「わしは七たびでも人間に生まれ変わりたいが、鬼にはならん。… 七生 土をかつぎ、土を耕す、土民のはしくれであってもかまわぬ。」
恩智左近が見ると手に蚕が登ってきて、手を持ち上げて一同に見せる。その時、矢が飛んできて左近のその手に突き刺さった。火矢が次々と浴びせられ、道場はたちまち火に包まれていく。正成達は皆で阿弥陀仏に向かって読経を始める。
正成と正季は向かい合って座り、短刀を抜いた。「兄者!」「正季、また、あの世で会おう」「御免!」正成と正季はお互いを短刀で刺し、互いに倒れ込んだ。
まわりの楠木一党も次々と刺し違え、自害していく。
尊氏 正成の首を河内に届ける
翌早朝、陣屋で、尊氏は台に乗せられた正成の首をじっと見ながら、尊氏は友にもまさる好敵手を死なせた深い喪失感に襲われていた。
高師直(柄本明)が敵将の首は天下にさらすのが習い、と言うので尊氏は湊川の河原に正成の首をかけるよう命じ、「首札はわしが書こう」と立ち去った。
しかし河原に正成の首がさらされたのは ほんの一時で 見たものはいなかった。
尊氏が頼んだ近くの寺の多くの僧侶が読経をあげ 近くの真光寺に首を捧げていった。そこで尊氏も弔った。
尊氏は一色右馬介(大地康雄)に正成の首を河内へ届けるよう命じる。「大事なもののために戦い、大事なもののために 見事に死なれた。」と正成の御台に申すよう 言いつける。
河内楠木館
右馬介は正行(まさつら) 久子(藤真利子)に首の箱を差し出す。
恐る恐る開け目を背ける正行に、久子が「正行どの。」と声をかける。
正行は「確かに父、正成のしるしにござりまする。足利殿のご厚情、まことにかたじけのうござります」と言う。
駆けつけた領内の農民達が首を見て泣き叫ぶが、久子は「とのは、ようやくふるさとにお戻りになられたのじゃ。もう二度と、戦に行かれることもない。この河内に、皆と共にずっとおられようぞ」と言って涙を流した。
義貞は敗戦の罪をわび 後醍醐天皇は叡山に動座 尊氏を都に入れる策
京 里内裏
湊川の合戦で 大敗戦を喫した朝廷は、大騒ぎになっていた。そこへ湊川から帰ってきた 左中将 新田義貞(根津甚八)が参内する。
坊門清忠(藤木孝)たち公家が「よくもまぁ、おめおめと…!」と義貞を責めたてる。
そこへ後醍醐天皇(片岡孝夫)が姿を現し、義貞は敗戦の罪をわびる。
後醍醐に この後はどうするとと問われ「都には一歩たりとも入れさせません! 丹波口は千種殿 名和殿、山崎口は我らが新田。」と言う義貞だった。
後醍醐が「待て、それはどうかの。昔より 京は攻めるに易く、守るに難いといわれている。楠木が申したとおりであったかのう。今となっては正成の策を用いずば防げまい」と言って、攻められる前に叡山に退き、わざと敵を 都におびき入れて 戦うと言い渡す。
「まさしく、それが上策にござりまする」とうやうやしく頭を下げ、さっそく公家達に指示を出す坊門清忠に、「そなたは楠木の策に真っ先に反対されたではないか」となじると、清忠は「何を申される。湊川の合戦の前と後とでは事情は大違いじゃ」。
騒ぐ公家達に後醍醐は「これは落ちるにあらず。叡山に動座するは行幸なるぞ 」と言い渡し、持明院統も大覚寺統を問わず 院も公家も武家も 都に有るもの 朕の供をして叡山に参れと命じ、退出した。
公家達は義貞に詰め寄り、清忠が「これからが正念場ぞ、もはや失敗は許されませぬ」と言い渡す。
後醍醐天皇は都を捨て、比叡山に避難した。
尊氏 光明天皇擁立 心は揺らぐ
男山八幡宮 尊氏本陣
足利直義(高嶋政伸)が諸将と叡山への総攻撃を計っていると、尊氏が、その前になすべきこと、院宣を賜った光厳上皇ら持明院統の皇族は大切なお方 叡山に入られたら 甚だ不都合だと言う。
「奪い取れと仰せでございますか」という師直に、尊氏は「男山八幡宮に行幸願うのじゃ」と言い換える。一同は納得し、さっそく手はずを進める。そんな中、佐々木道誉(陣内孝則)は尊氏を見ていた。
夜空の不気味に赤い月がでている中、持明院裏門から足利兵の手引きで光厳上皇とその弟の豊仁(ゆたひと)親王が脱出した。
光厳上皇を擁した尊氏は、豊仁親王を新しい帝とした。光明天皇の誕生である。
尊氏は後醍醐天皇と建武の新政を名実ともに否定したのである。
東寺 尊氏本陣
道誉が尊氏を訪ねてくると、尊氏は熱心に写経している最中だった。
「不思議なものよのう。あれはちょうど三年(みとせ)前じゃった。足利殿と共にこの東寺で、隠岐より戻られる帝を待っておった」と道誉が言う。
「帝を待っておったのは判官どの それがしだけではなかった。」と尊氏。
道誉は、「三年が過ぎた今、世は恐ろしいまでに変わった。まわりを見れば、正成どのはおらん。千種殿は露と消えた。何より、帝がおらぬわ。あの日、我らが胸躍らせて待ち受けた帝は、この東寺ではなく叡山におわす。そしてこの東寺には、別の帝がおられる。」
尊氏は「これでよい。これでよいのじゃ」とつぶやく。
道誉は「昨日は清水寺に参詣したそうだが何を願ったのか」と尊氏に尋ねる。
尊氏は「この世は、夢の如きもの。確かなものは何もない。ただ御仏(みほとけ)にすがり、御仏のご加護を給わるよう、願うたまでじゃ」
道誉は「つい先日は、新しき帝を立て 恐ろしげなること 果たされた方が、弱気の虫にとりつかれている、足利殿の心はようわからん。」
尊氏は「わしはどうも政には向いておらん。弟の直義は確かな 迷わぬ心を持っている。これからは直義に全てを任せようと思っている。はや遁世いたしたい一心じゃ」と打ち明ける。
道誉は「御舎弟殿では 武士はまとまらぬ。」と忠告し、「御辺のあと、天下を狙うておったのに、途中で放り出されては、今までの苦労が水の泡じゃ!それは困る。困る、困る!」
尊氏は「今すぐにとは申しておらん。されど このままでは、叡山の帝に申し訳が立たぬ」と比叡山の方を見上げながらつぶやく。
「何を今さら」と道誉は笑うが、尊氏が写していた経を見て黙り込む。
足利尊氏と新田義貞の一騎打ちは勝負がつかず
比叡山 延暦寺
後醍醐帝と阿野廉子(原田美枝子)が京の灯りを見下ろしていた。
廉子が「訳の分からぬお方が都にあって、お上がこの叡山におられねば ならぬとは…」と言う。
公家達も、尊氏とそれに擁立された持明院統の光厳院の悪口を言いあう。
廉子は「わらわは許せませぬ。理不尽は理不尽。早う都から追い出さねば。」と後醍醐に言う。
廉子は公家達と共に義貞を呼び出し、「そなた、逃げる時は早いが、攻める時はゆっくりじゃのう。いつまで都を尊氏の勝手にさせておくつもりじゃ!」と責め立てる。
義貞は されど 東は瀬田 南は醍醐 宇治を初めとして 山崎 淀など都に通じる要路を断ち、兵糧攻めにするという策略なので、効き目が現れるには二ヶ月はかかる、と言うが、廉子は「そなた 鎌倉攻め以来名だたる勝ち戦はないそうだなあ。兵糧攻めも良いが一度、奇襲でもかけ、尊氏のしるし、あげてこられぬものかのう!」と扇子を自分の首に当てる。
後醍醐軍は、新田義貞を総大将として、京を奪回のため総攻撃をかけた。
義貞はただならぬ決意で決戦に挑んでいた。
京の町の各所で両軍の激しい戦闘が行われ、名和長年(小松方正)も必死に戦っていたが、斬り合いの最中に矢が当たり、敵兵に首をかかれてしまう。「肥前松浦党、草野秀永!名和伯耆守を、討ち取ったりっ!」功名の名乗りがあがった。
長年戦死の知らせは義貞の陣にも届いた。
「兄者…三木一草(さんぼくいっそう・三木は結城親光 伯耆守 名和長年 楠木正成、一草は千種忠顕 をさす)、ことごとく滅びましたなぁ。」と脇屋義助(石原良純)が言う。
義貞は「鎧じゃ!兜を持て!」と声を上げ、ただちに出陣する。
義貞はただ一騎、尊氏の本陣 東寺へと駆ける。
「尊氏どの、見参!」と叫ぶ義貞。
「あれは新田の声!?」と東寺の中の直義たちも驚く。
義貞は東寺の門前で「天下乱れてやむことなく、罪なき民を苦しめて久しい!されど、そもそもこの戦は尊氏殿と、この義貞の宿怨によるものでは ござらぬか! いたずらに戦を続けていては 万民の苦しみは増すばかり。されば、東国武者の習いに従い、尊氏殿とそれがしの、一騎打 ちによって雌雄を決したい!」
義貞の演説を、尊氏は黙って聞いていた。
「かように思い、義貞自ら軍門にまかりこした!嘘かまことか、この矢一本受けて知るがよい!」義貞はそう言って弓を引き絞り、東寺の中へと矢を放った。
矢は東寺の中に飛び込み、尊氏らのいる本陣の柱に突き刺さる。
「ハハハハ…こはいかにも坂東武者、新田義貞殿らしきやり方じゃ」と尊氏は笑いながら矢を柱から引き抜き、「この尊氏、新田殿との一騎打ち、喜んで受けようぞ」と言う。
直義や師直達がこれは大将同士の一騎打ちで決着を雌雄をつけるような戦ではない、政と政の戦いだ、と必死に引き留めるが、尊氏は、いかなる合戦であろうと 坂東武者のならい、と言って 「馬を引け!門を開け!」と命じ、手にした矢をへし折った。
東寺の門から 鎧兜に身を包み、馬にまたがった尊氏が出てきた。
「これは足利尊氏なり!新田どのよりの一騎打ちの申し入れ、しかとお受けいたす!」
「さればこそ足利の大将よ!心ゆくまで戦おうぞ!」
二人体勢を取った。直義、義助らも駆けつけ見守る。
はじめに尊氏と義貞は弓を射て、尊氏は矢を弓で払い、義貞は矢をかわした。
そして二人は弓を捨て、は太刀を抜き、馬を駆けてすれ違いざま刃を交えた。
幾たびか斬り合い 長年の二人の出会いが思い出された。渡良瀬川でけんかしたこと、北条殿と戦をすることを決めた日、後醍醐天皇の命で敵味方として戦うことになったこと。
宿命のライバル、足利尊氏と新田義貞の一騎打ちは勝負がつかなかった。そしてこの日を最後に、二人は二度と出会うことはなかったのである。
▽まとめ&感想
湊川の合戦で破れ正成と正季は差し違いで自刃。尊氏 正成の首を河内に届ける。
義貞は敗戦の罪をわび、後醍醐天皇は叡山に動座して尊氏を都に入れる策をとる。
尊氏は光明天皇擁立するが心は揺らぐ。 足利尊氏と新田義貞の一騎打ちは勝負がつかず
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前回、足利軍に囲まれてしまい、万事休す と思っていたら、尊氏は正成に最期の時間を与えた。
そして、弔ってあげ、河内に 首を届けさせました。
蚕が出てきて、世話する人がどこかにいないのとか 余計なこと考えてしまいます。
小学生の頃まで、お家で養蚕していたので、蚕の姿だけで 色々思い出します。
尊氏と義貞の一騎打ち 史実ではあり得ないでしょうが、カッコいいですね。