大河 太平記 39話「顕家散る」★南朝の貴族将軍北畠顕家の最期▽ あらすじメモ

建武3年(1336) 持明院統の光明天皇を擁立した足利尊氏は17ヶ条の式目を制定し、京都に幕府を開くことを宣言した。
一方吉野山に 南朝を開いた後醍醐帝は、各地で抵抗を続けている軍勢を結集し、再度都へ打って出る機会をうかがっていた。
しかし越前に立てこもった新田義貞は敦賀の金ケ崎城から、北の杣山城に落ち延び 迫る足利軍に苦戦をしいられていた。
建武4年8月南朝方の期待を一身に背負った北畠顕家が挙兵。足利軍を次々に撃破し、12月利根川を超え、鎌倉へと迫った。

不知火丸 京の尊氏に武士になりたい 義詮(千寿王)は鎌倉から避難

建武4年暮れ

一人の少年が、長旅の末 ようやく京にたどり着いた。少年は足利尊氏の母・清子(藤村志保)のいる寺に、持っていた地蔵菩薩の像を見せ、「不知哉丸」と名乗り 会いたいと訪れた。
柳営
「鎌倉が危ないのだ」幕府では関東に攻め込んだ北畠顕家軍への対応でもめていた。
軍事担当の侍所 高師直(柄本明)高師泰(塩見三省)尊氏の子・千寿王のいる鎌倉を守るため援軍を送るべき、そのために畿内で徴収しようと主張。
政務を担当する足利直義(高嶋政伸)評定方は畿内からこれ以上の戦のための税をとるな、援軍を見合わせよと主張。
直義は北畠軍は、都を目指していて、鎌倉を落としても通過するだけ、戦いはその時でよいと言う。評定方の細川顕氏(森次晃嗣)も、その猶予があれば、余力のある細川の四国軍がいる。兵や米の調達も間に合うと言った。

直義らが去った後、師直は足利尊氏(真田広之)評定方いちいち指図され、戦にならぬと訴えた。しかし尊氏は、天下の政から見れば、鎌倉のことは、足利家のみの小さいことなのだろう、と直義を弁護する。師直が「千寿王どのをいかがなされますか?」と問うた。

そこへ大方禅尼の清子尊氏を訪ねてきて、地蔵菩薩の守りを尊氏に見せ、不知哉丸(筒井道隆)が北畠軍の鎌倉攻撃のために逃げ出した僧の供をして京に来たこと、なんとしても尊氏に会って願いたいことがあると駆け込んできた と伝えた。
「願いの儀とは?」と尊氏が聞くと、「武士になりたいと申しておる。」と清子は答えた。

尊氏が登子(沢口靖子)のところへ顔を出すと、手紙を書いていた。
「また千寿王への文か?」と尊氏が聞くと、「従5位の下をいただく 義詮(よしあきら)でござりまする!」と登子は怒って答えた。
登子は父の顔もろくに覚えないで育てられ、元服のため僅か一月都に呼び寄せ、関東の束ねとして一人鎌倉へ向かわされた義詮が不憫でならぬ、と嘆く。聞けば奥州軍とは苦戦とか、「投げ出して帰ってこい」と言いたいと登子は泣く。
尊氏は師直から もらった菓子を登子に差しだし、「先ほど 鎌倉に使いを出した。義詮に奥州軍が近づいたら、上杉達と三浦に身を隠すよう指示した。案ずるな。」

足利直義亭
翌日、尊氏は 弟 直義の計らいで不知哉丸と会うことになった。
尊氏は不知哉丸と一対一で向かい合った。
清子と直義は隣室で成り行きを見守る。
不知哉丸は尊氏に挨拶し、地蔵菩薩の守りを見せ「今日まで肌身離さず、片時もご恩を忘れたことはござりませぬ」と言った。
尊氏は藤夜叉について「京で美しい舞を見せておられたお方じゃ。…」と語る。そして不知哉丸に願いの儀とは何かと聞く。
不知哉丸は「武士に取り立ててもらいたい。寺の暮らしは性に合いませぬ」と言う。「不知哉丸はもっと強う生きてみとうござります…!武士になり、この手で、世の中を変えてみとうござります!」
尊氏は「それはならぬ」と即座に言う。「藤夜叉殿は そなたが戦のない穏やかな世で生きて欲しいと願っていた。尊氏も同じ思いぞ。わしは武士も嫌いじゃ。戦も嫌いじゃ」と不知哉丸に語る。
不知哉丸「理不尽な仰せでござります!御殿はその嫌いな武士の棟梁ではございませんか!そも、人の世に戦のない世などありましょうか?良い世は、戦に勝って己の手で奪い取るものではございませんか?その力を、不知哉丸も持ちたいのでございます!」。
尊氏は、 武士の棟梁の家に生まれてしまったから、戦をするしかなかったと言い、「だがそなたは違う!」と諭す。
と不知哉丸は「違いませぬ。この不知哉丸の血にも、武家の棟梁の血が流れております。御殿は、父上ではござりませぬか!?」
不知哉丸の声は隣室の清子と直義にも聞こえていた。
不知哉丸は「父は戦死した侍大将と聞かされた。その父の縁者に一人として会ったことがない。そも 足利の大将ともあろう方が、母の死に目においでになった。なにゆえ この守りを!御殿は父上ではございませんか?」
に尊氏は「そう思いたい気持ち 分からぬではない。だがわしはそなたの父ではない。」

不知哉丸は納得せず、なおもすがろうとするが、「控えよ!亡き 藤夜叉の子だから会った。寺に戻って母の菩提を護るのだ。」
「父でもないお方が何故にお命じになりまする? 御殿を父上と思い込まねば!寺には戻りませぬ!この都で武士になりまする!」と、不知哉丸は飛び出していく。

北畠顕家軍 鎌倉通過 美濃から伊勢に進軍 新田義貞はスルーされた

北畠顕家(後藤久美子)の奥州軍は建武4年の暮れ鎌倉へ突入。

明ける建武5年1月 次の目的地と京に向かって、東海道を走り出していた。
都から 足利勢が迎え撃ってでたのは美濃の国であったが、奥州軍は次々と突破した。

越前・杣山(そまやま)城
新田義貞(根津甚八)に、顕家軍が破竹の勢いで美濃まで来て、一族の堀口貞満が顕家の軍と合流したと船田政経が報告する。
義貞は顕家がこの越前に来て、義貞軍と合流してくれると喜ぶ。
脇屋義助(石原良純)は「しかし、顕家卿が来ますか?この杣山へ?」
義貞は「来る!いかに勢いがあろうとも顕家卿一人では都へ入れん。それはよくお分かりのはず。ここで我が軍と合流し、琵琶湖西岸、比叡山を抜けて京へ攻め込むのが必勝の道筋ぞ。」
苦労したがこれでようやく報われると義貞は喜び、家臣一同も「祝着至極!」という。

しかし義助だけは「まだ公家を信じておられるのか?」「なにい?」
「公家どもに味方した我らを、あの輩がどのように扱ったのか お忘れか? 公家どもは我らを使い古した端切れのごとく見捨てたのだ。顕家卿は我々に興味はござらぬ。」
「顕家卿は来る…必ず来る!」義貞は断言する。

伊勢
しかし、顕家は越前へは進まず、反対方向の伊勢へ向かった。

「父上!」顕家は、父・北畠親房(近藤正臣)のところへ姿を現した。
親房は「なぜ伊勢へ参った? 美濃で勝てば敵は総崩れぞ。今 丹波でも、播磨でも味方は大挙して京へ攻め入ろうとしている。そなたが一気に京へ上れば、皆動いたはずだ。今一息なのに、何を血迷うた?」と問いただす。
顕家に付いてきた結城宗広が、皆疲れております。美濃で勝っても 都に攻め上がる余力が無くなったと弁解する。
親房は「勝てば余力も生まれるもの。加えてそのほうらは 帝に選ばれし 栄えある官軍ぞ。神々のご加護があることを忘れたか」宗広をさがらせて、息子と二人になった。

北畠顕家は父に会いたかった。弓を外すことあると訴え、和泉で討ち死に

親房は顕家に「越前に行き、新田と共に、比叡より京を攻める手があったはず、なぜ?」。
顕家は「新田はしょせん関東の者。都を取り戻せば、また足利の如くつけあがるやもしれません。この戦は公家の力で勝たねばなりませぬ」と答えた。
親房は「こころざしはそれでよい」と言いつつ、使えるものは 卑しき者でも使わねばならぬ。公家たる者その度量が必要ぞ」

親房は茶を入れ飲みながら「しかし、なぜ伊勢へ参った?都へは遠回りぞ」と聞いた。
顕家は「父上に会えると思って 参りました。奥州に帝の御心を伝えるため戦ってきたが、さりながら 顕家は疲れましてございます。無性に父上にお会いしとうなった」と 涙を浮かべた。
「見苦しいぞ、顕家、我らは帝の御代のためにその身を投げ出す者じゃ。父もなければ、子もない。その涙、構えて 武士に見せるでないぞ!」
「そなたの弓には神仏が宿っている。それゆえ 戦には負けぬ。みなそう信じ、それゆえ従ってきた。伊勢に来たのは戦勝を祈願するためだ。これより 伊勢路を大和に抜け 吉野にいる帝を拝し奉り、一気に京に攻め上る と皆に言えと、顕家に教えた。

親房は息子に「うまいぞ」と茶を勧めた。
顕家はうまそうに茶を飲みながら「近ごろ、十に一つ、矢を外すことがござります。十に一つ思うたところに矢がいきませぬ。不思議でござります」と穏やかに言い、親房はそんな息子をじっと見つめた。

2月 顕家は、伊勢路から奈良を通って、河内・和泉と転戦。
3月 天王寺へ入り、足利軍を打ち破った。 ついに都の入り口 八幡山に陣を敷いた。

これに対し、尊氏が高師直・師泰兄弟に5000騎で 天王寺に向かうよう命じた。
佐々木道誉(陣内孝則)土岐頼遠らには越前の新田軍、丹波の江田 を警戒するよう命じた。

そこへ天王寺で顕家に敗れた細川顕氏が直義に連れられて来て、敗戦を詫びる。
師直らは顕氏を激しく責め、「天王寺は我ら高家で奪うてみせようぞ!」と出陣していった。
尊氏は顕氏にくよくよいたすな、頼りにしている と、太刀を一振り与えて師直らと共に顕家を討つよう命じた。

5月、師直・顕氏らの軍は天王寺の顕家軍に襲いかかった。
このとき顕家は八幡山に大軍を送り、天王寺は僅かの兵であった。不意を突かれ苦戦となった。

太刀を振るっていた顕家は「弓を!弓をこれへ! 弓を持て!」と叫ぶ。
配下の武士が弓を顕家に届けようと近づいてくるが、それに足利軍の武士が斬りかかり、弓が切られてしまう。それを見ていた顕家に、矢が飛んできて胸に命中、落馬する。

顕家はわずかな兵を率いて山中を逃げていた。追っ手が現れ、顕家は足を斬られ、味方の兵も散り散りとなり、顕家はただ一人竹林に入り 「弓がのうては 戦に…!」短刀で自らの首筋を切った。

吉野の親房のもとに顕家戦死の報が伝えられた。「死んだ。和泉でか…? 奥州軍は全滅か?」
「いえ、本隊は今なお 合戦中とのこと」
「では、お上にその旨奏上いたさねばなるまいな。帝に召された顕家が、今度は見事、神仏に召されたと。」淡々と親房は言い、報告に来た武士を手で追い払う。
武士の姿が見えなくなったとき、突然親房は叫ぶ。「待てッ!!どこじゃと申した!?和泉のどこじゃと…?場所が分からねば…奏上も出来ぬわ…顕家…!」親房は呆然と立ち上がり、「顕家…顕家…」と名を呼びながら涙を流し がっくりと座り込んだ。そこへ雷光が射してくる。
 
顕家卿 討ち死の報は尊氏にももたらされた。僅か20数騎で吉野へ退却中に、我が軍お手に落ちたと聞いて「お父上のもとへ向かわれたのか。哀れなお子じゃ」と尊氏はつぶやいた。
「父を思う子がおるのじゃ。父を思う子が、この世には…」

▽まとめ&感想

尊氏が京都に幕府を開き、南朝を開いた後醍醐帝が足利追討の綸旨を出し北畠顕家が挙兵した。
不知火丸 京に逃れてきて、尊氏に武士になりたいと訴える。 義詮(千寿王)は鎌倉から避難。
北畠顕家軍、猛攻し鎌倉通過 美濃から伊勢に進軍。新田義貞はスルーされた。
北畠顕家は父に会いたかった。弓を外すことあると訴え、和泉で討ち死。
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無性に父に会いたくなったと涙を見せる顕家に、そなたの弓には神仏が宿っている 弱音を吐くなと叱咤激励する親房
「近頃、十に一つ矢を外すことがございます」と 話し、顕家は最期を迎えた。 「どこで亡くなったのだ」と一人つぶやく 親房 とても切ないです。
完全にスルーされている 義貞も切ないです。