「国民・専門家・AIがガチで選ぶ戦国大名総選挙」best5 信長 信玄 秀吉 謙信 元成

テレビ朝日 2020年12月28日(月)
スペシャルナビゲーター 上川隆也
一国一城を治めた高名な戦後期大名 100人以上いたともいわれている。
後世に名を残す 猛者達は何がすぐれていたかなど 2.5次元俳優が戦国大名の逸話を熱演。
圧倒的リーダーシップ、時代の風を読む力など カリスマ的強さがありました。
今夜 日本全国14000人が投票&歴史家&最新AIで 本当に最強大名 ベスト30が決まります。

昨年は名だたる戦国武将の中から日本人に最も愛される武将」(こちら)を決める総選挙がありました。今回は、ガチで選ぶ どうなるのでしょうか。

  1. 1位 織田信長(尾張) 天下統一を目指した大名
  2. 2位 武田信玄(甲斐)  戦国最強の武田騎馬隊を作った大名
  3. 3位 豊臣秀吉(尾張) 農民から下剋上を果たした大名
  4. 4位 上杉謙信(越後) 戦に強く商売上手
  5. 5位 毛利元就(安芸) 知力を駆使して一代で 西国の覇者へ
  6. 6位 徳川家康(江戸) 天下を統一して 江戸幕府を開いた
  7. 7位 伊達政宗(仙台) 新しいものを取り入れていくカリスマ大名
  8. 8位 黒田官兵衛(豊前) 天才軍師
    1. 槍 は叩くもの
  9. 9位 真田昌幸(上田) 農民とワンチームで領地を守った大名
  10. 10位 本多忠勝 家康に天下を取らせた男
  11. 11位 島津義弘(薩摩) 南九州の覇者
  12. 12位 明智光秀(丹波) 優れた頭脳を持ち領民から愛される
  13. 13位 斎藤道三(美濃) Mr.下剋上
  14. 14位 立花宗茂(筑後) 仲間を絶対に裏切らない
  15. 15位 北条早雲(伊勢 宗瑞)(相模) 初の戦国大名
  16. 16位 蒲生氏郷(会津若松) 戦も政治もすごかった戦国大名
    1. 甲冑 あるある
  17. 17位 北条氏康(相模) 攻めも守りもうまかった
  18. 18位 小早川隆景(伊予) 
  19. 19位 藤堂高虎(伊予今治) 日本のお城のスタイルを完成させた
  20. 20位 石田三成(近江) 情報収集して先を読む
  21. 21位 井伊直政(遠江) 敵武将から恐れられた赤鬼
  22. 22位 大谷吉継(越前敦賀) 失明状態で戦い抜いた戦の天才
  23. 23位 前田利家(加賀) 加賀100万石の礎を築く
  24. 24位 浅井長政(北近江) 民を味方につけ 織田信長を追い詰めた
  25. 25位 今川義元(駿河) 最強大名に天才的アイデアで渡り合った
  26. 26位 加藤清正(肥後) 熊本城を中心に町を作り発展させた
  27. 27位 上杉景勝
  28. 28位 柴田勝家 
  29. 29位 龍造寺隆信(肥前)
  30. 30位 毛利輝元 
  31. まとめ&感想

1位 織田信長(尾張) 天下統一を目指した大名

一般1位、AI1位、専門家2位と圧倒的な支持を集めた織田信長が1位!
信長は愛知県西部を治め、およそ20年で日本の中心部を制圧。
天下統一まであと一歩と言うところで本能寺の変が起こり49歳で生涯を閉じた大名

誰でも自由に商売ができる楽市楽座を取り入れ、経済を発展、他にも外国人との取引を積極的に行った南蛮貿易。日本初の天守を持つ安土城の築城など、新しいことを次々行った。
アイデアを駆使して勝つことに戦いの美学を感じていた

小和田哲男先生は、今川義元との桶狭間の戦いは、これまでは奇襲作戦で勝利した。
最近は、緻密な作戦の上で戦った勝利と言われるようになってきた。
それは「見殺し作戦」ともいえるもの。
高橋健介君が再現。桶狭間の戦いの決戦当日、味方の砦(丸根、鷲津砦)から火の手があがっている様子を、信長は善照寺砦から確認した。
しかし、2つの砦が落ちた時、見捨てて、本陣を攻めるなら、いましかないと部隊が離れた時を狙った。いま攻撃すれば 敵は戻ってこられないと考えていた。
当時の常識としては、自分の砦は守るものでしたが、自分の仲間を見捨てても義元の首をとりにいった、勝つことに特化した信長の作戦でした。

2位 武田信玄(甲斐)  戦国最強の武田騎馬隊を作った大名

山梨を中心に中部地方一帯を治めていた。
甲府市の武田神社がある場所に、武田信玄の居城 躑躅ヶ崎館を構えた。一生この場所を動くことなく、町づくりに力を入れた大名でした。
戦国最強の武田騎馬隊を作り上げ、織田信長・徳川家康を追い詰めたが、戦の最中に病死、惜しくも天下に届かなかった。

戦場で 武田軍を見ると逃げ出すものもいると、言われたほど 恐れられた武田信玄。結束力を高めるために武田信玄が行ったことは
①褒美 普通は領地などが褒美として使われるが、自分が大事にしていた刀、兜を褒美として渡した。
②戦場に医師を連れて行った。 気づかいで家臣の心をがっしりつかんだ。
③スパイが多かった時代に、合議制を積極的に行った。信玄は武田軍に裏切り者は絶対いない、「相手を信じている」ことを皆に示した。信玄様を絶対に裏切れない。

3位 豊臣秀吉(尾張) 農民から下剋上を果たした大名

大坂を中心に、約10万の兵で全国に拡大した戦国大名。
農民から天下人になった叩き上げ大名。愛嬌と、人の懐に入るうまさで、あの織田信長に認められ大出世しました。

秀吉は、金山や銀山を直轄地にして、その財力を見せつけることで権威を示していた。
柏原美術館(山口県)に所蔵されている書状があります。
部下宛に書かれた書状に、「もし金銀が安ければ、そちらの米を売却して、金銀貨に換金しておくこと」と自筆で書き加えてあった。秀吉は投資家的な人物だった。
秀吉の人心掌握術として、家康を部下にしたすごい交渉術があった。植田啓輔君が再現。
秀吉は、1586年の天下統一間近、妹を家康に嫁がせたほか、念のため家康の寝城に単身で乗り込み、家康に対し「秀吉の配下になる臣下の礼で、少しだけ大げさに、なおかつ丁寧にしてほしい」とお願いにいった。家康が認めますと言ってくれたら、周りの大名も心服させることに繋がった。

NHK大河ドラマ「秀吉」演:竹中直人
NHK大河ドラマ「天地人」演:笹野高史
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」演:佐々木蔵之介

4位 上杉謙信(越後) 戦に強く商売上手

越後(新潟県)を支配していた上杉謙信。破竹の勢いだった織田軍を手取川の戦いで撃破、川中島の戦いでは上杉謙信と武田信玄は5度にわたり戦い決着がつかず、戦で負けない上杉謙信はまさに軍神でした。
ただ強いだけでなく、実は商売上手だった。普通の大名は、敵地から領土を奪い税収を増やす、あるいは敵地を襲撃し占領したとき 宝物庫を襲った。
謙信はそういたことはせず、着物や糸の原料となる、青苧(あおそ)という植物を貿易でやり取りして、財源とした。
青苧の着物を公家に着てもらい、多くの人に認識してもらい、着物は爆売れ。公家を今でいうインフルエンサーとして活用していたのです。

映画「天と地と 」 演:榎木孝明
NHK大河ドラマ「天と地と」演:石坂浩二
NHK大河ドラマ「天地人」演:阿部寛

5位 毛利元就(安芸) 知力を駆使して一代で 西国の覇者へ

3本の矢の教えで有名で、銀山を所有する財力により、海賊をも仲間にする 大胆で奇抜な戦略で中国地方ほぼ全域を支配した大名。
頭の良さで大出世。そのきっかけが厳島の戦いで、2万の兵力を持つ中国地方最大勢力の陶氏を3000の兵で打ち取りました。
陶氏のスパイが紛れ込んだ家臣との会合で偽の情報を流し、厳島におびき寄せて、水軍(海賊)と協力して挟み撃ちにしたのです。

6位 徳川家康(江戸) 天下を統一して 江戸幕府を開いた

6位なのは AIが武田信玄に負けていた分析のため、データに作為?
家康がなぜ天下人になれたのか? それは、戦国一の健康オタクだった。
①自分で薬を調合していた!?
久能山東照宮に残された文献などから、家康が作っていた12種の生薬を使ってすりつぶし、常備薬を、自分で調合していた。

②「家康飯」 大大名になってからも、質素な食生活を好んで 白米でなく玄米を食べていた。
戦国時代最後の戦いとなった大坂夏の陣で勝利したのは、家康がなくなる1年前。

7位 伊達政宗(仙台) 新しいものを取り入れていくカリスマ大名

伊達政宗は、見た目がかっこいいだけではなく、最先端の技術を取り入れた、実用的・戦闘的な黒の甲冑を愛用。外国との直接貿易も行おうとした大名でした。

政宗の兜の三日月の前立てが左右非対称なのは、刀を挙げたときに振りやすくしたため。また、前立ては、ひっかかった時に備え、かならず壊れやすく作っていました。甲冑は蝶番が入っていて、5つに分解、バラバラにして、重ねられて収納・運搬できました。

さらに、政宗は海外に目を向け、外国と交易しようとしていました。
再建された船「サン・ファン・バウティスタ号」は、寝室やキッチン、24個の大砲、大きな倉庫を備えていた、5層構造の全長55.35mもあります。当時、無敵艦隊といわれたスペインの最新造船技術を得て、巨大な船を作ったそうです。

8位 黒田官兵衛(豊前) 天才軍師

現在の大分県中津市一帯を治めた大名。天才軍師で秀吉の参謀として、天下統一の足がかりを作りました。
官兵衛のすごいところは、真っ向勝負をせずに味方の犠牲を最小限にして勝つこと。
毛利家との英賀(あが)合戦での「ハッタリ大作戦」。毛利軍5000 VS 黒田軍500と人数的には圧倒的に不利な状況だったのですが、逆手に取り、村人と旗を大量に集めて一斉に上げることで、大勢の兵がいるように見せかけて見事に毛利軍を退けた。

槍 は叩くもの

槍は2間半(約4.5m)とか3間(役6m) の長さがあり、100人くらい横に並んで 上下に振って戦い、筋力が必要だった。
この槍を、平時は 運搬、担架、はしご、水深などの測量に使った。

9位 真田昌幸(上田) 農民とワンチームで領地を守った大名

上田城を拠点に長野県上田を治め、上田合戦で徳川軍を2回撃退したことで知られます。
戦いは、農民たちに協力してもらっていた。首ひとつをとってくれば土地を与え、指示はきわめてシンプルだった。
①おかゆぶっかけ作戦!
上田城は、川や崖に囲まれた鉄壁の城。敵が城壁をよじのぼってくると、農民たちに上から熱いおかゆをかけさせた。熱くてたまったものではないですよね。

②大声作戦!
敵を威嚇するのに武士の場合は太鼓ですが、農民では難しい。そこで敵の四方の山に伏兵として農民を隠しておいて、突然敵の後ろから大声を出させたそうです。音響効果は効果的。

③手作りの武器で撃退作戦!
矢竹(弓矢の元になる竹)を弓矢の矢に加工して戦ったそうです。
「真田丸」で演じた草刈正雄登場。「あの人は何でもあり」

10位 本多忠勝 家康に天下を取らせた男

とにかく武力が強い!! 本多忠勝(和田雅成)が熱演
強さを物語るエピソードが、忠勝23歳の時、姉川の戦いにありました。
織田 徳川 5000人対 朝倉 浅井 10000人というピンチに、忠勝が一人で突撃して、忠勝を救うために皆が奮い立ち形勢逆転!

関ヶ原の戦い後 桑名城(三重県桑名市)の城主に命じられました。桑名は西から東国を攻めるめるときの砦。重要な桑名を任されるほど、家康に信頼を置かれていた人物だったのです。

11位 島津義弘(薩摩) 南九州の覇者

現在の鹿児島県と宮崎県の一部を治めていて、朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明・朝鮮の連合軍を倒したという伝説もある。
島津義弘(和田雅成)が再現。

①領土を守った南九州の800の城 守備力がすごい。
薩摩川内市の清色城は断崖絶壁の防禦。自然地形を巧みに生かした山城、狭い堀切の断崖の道。
知覧城は天空から敵を殲滅した山城で、上空から見てみると大地の上に曲輪がそれぞれあり、独立した丘の上から攻撃が可能でした。

また、医術に精通していた愛され大名で、家臣が怪我をしたら、手当をしたそうです。
今でいう外科手術のスキルも持っていたともいわれ、家臣に医学を伝授した記録も残っていた。

12位 明智光秀(丹波) 優れた頭脳を持ち領民から愛される

「本能寺の変」が有名な大名ですが、「織田軍団の中で最強」だった。
①織田信長も絶賛!難攻不落の城を落とした頭脳プレーが功を奏した、黒井城攻め
信長が中国地方に攻め込むには、丹波を攻め落とさなくてはいけなくてはいけない。しかし、敵対する黒井城は360度すべて見渡せ、そこに立て籠もってしまった。
そこで、光秀は廻りをすべて取り囲んで攻撃をして制圧。信長も絶賛し、丹波地方29万石の領土を与えられた。

②信長の暗殺を成し遂げた本能寺の変での「敵と味方の見分け方
井伊美術館に残る資料によると、敵と味方を分ける方法として「足元をよく見て斬れ」という指示を出した。いきなり攻められた信長側は、裸足とか履き物を履いていないので、見分けられた。

③約50m先の的を射抜いたとされる光秀の鉄砲術。

領地の人たちからは愛され、家臣からは慕われていた。その証拠に慈眼寺には、黒塗りの黒坐像があり、これは、謀反者という汚名を着せられたため、だれかわからないように「黒塗り」にされた。「像を真っ黒にしてまで守らなければいけない」と考えた人がいたということ。

13位 斎藤道三(美濃) Mr.下剋上

美濃国(現在の岐阜県)を治めた齋藤道三。「美濃を制するものは、天下を制する」といわれる要地でした。
そもそも道三はNO.3の長井家の家来。
上司の悪い噂(主人が反乱を企てている)を流し、長井家は謀反の疑いで成敗され、道三は「家来」から「家臣」へ出世。その後、No.2の斎藤家が謎の死をとげて、No.2にのぼります。
NO.1の大名(土岐氏)を取り巻く人々を次々と殺害し、大名をひとりぼっちにしてたたき、自分が大名に成り上がりました。

岐阜に観音様を持ってきて、観音様に人が集まれば、商売ができ、町ができた。
さらに、昨年驚きの発見があり、斎藤道三の石垣が見つかった。従来、織田信長の時期から石垣で敵を防ぐといわれていましたが、それを斎藤道三が始めていた可能性が高くなっている。織田信長は道三の影響を色濃く受けたのではないかと思われる。

14位 立花宗茂(筑後) 仲間を絶対に裏切らない

豊臣秀吉の「西国で最強」でかつ「人間性も素晴らしい」と本郷和人先生も太鼓判。

秀吉亡き後も、徳川幕府の中枢で活躍し、現在の福岡県柳川市一帯をおさめていた宗茂。防衛のため町中に張り巡らせた お堀はほぼ当時の形で残っており、現在観光名所になっています。

地元の人々が声を揃えて語るのは「人望があつかった」。その理由として、人を裏切る戦国時代において、決して仲間を裏切らない姿勢が番組で解説されました。何と、関ヶ原の戦い時に敵方の徳川軍からも愛されたとも…!

決して裏切らない 紹介されたエピソードが、朝鮮出兵の「蔚山城(うるさんじょう)の戦い」。
加藤清正が50000の兵に囲まれて絶体絶命!
仲間はみんな諦めかけていたが、宗茂(植田啓輔)は自分の信念を貫き、わずか自分の兵が1000人ほどにもかかわらず先陣を切り、他の大名も奮起して、清正救出に成功!

さらには、関ヶ原の戦いで敗北し、九州に帰る途中で14年前に父を倒した島津義弘に会った時、敵討ちをするところ、「同じ西軍として戦った」仲間として攻撃することはなかった、との話も紹介されました。

15位 北条早雲(伊勢 宗瑞)(相模) 初の戦国大名

室町時代の終わりに現れ、日本で最初の戦国大名。
わずかな兵をひきいて国を攻め取り、たった一代で神奈川県全域と静岡県の伊豆を支配し、検地をはじめて行ない、戦国大名支配の仕組みを作った。

北条早雲伝説も紹介。当時小田原城には他の権力者が住んでいましたが、牛1000頭に松明をつけて、大軍に見せかけ、あっさり城を乗っ取ったそうです。そのことは「北条五代記」に記述がありますが、史実かどうかは定かではありません。

伊豆を攻める過程において、地震による津波による被害があり、伊豆を復興したことが、伊豆市小下田の山の上に逃げた人達に、情が厚かったと、言い伝えられています。

16位 蒲生氏郷(会津若松) 戦も政治もすごかった戦国大名

現在の福島県 会津を治めていた大名。今も残る蒲生氏郷のお城 鶴ヶ城。実は 全国的に有名な 会津絵汁椀、会津地酒などの伝統産業は氏郷の時代に発展した。会津若松という地名も氏郷が、故郷の近江にある景勝地「若松の森」の若松と会津を組み合わせた。
子供のころ信長の人質になったのですが、後に信長・秀吉の天下統一にかかわる 数多くの戦場で大活躍。国を任される 大名までになった。
信長は、その才能をいち早く見抜き 自分の娘 冬姫と結婚させた。
秀吉に至っては 100万の大軍を指揮させてみたいと、高く評価。

戦上手だった強さの秘密は、ナマズ!?
使っていた、銀鯰尾形兜、銀のナマズの顔のような兜が紹介されました!何と長さは50㎝!
ナマズの持っている生命力にあやかるという意味もあるようですが、
長い兜をかぶり、味方の士気を上げていた

そのことがよく分かるエピソード 加来先生が解説。
蒲生氏郷の家来になりたい人が面接を受けると、必ず直接出てくる。あなたが戦場に出たなら、ナマズの兜をかぶっている人がいるから、その人間に負けないよう頑張って欲しいと言った。
戦いの場では、蒲生氏郷が一番前にいて、大将が討たれたら困ると、部下の士気を上げるのに 一役かっていた。

甲冑 あるある

甲冑に鼻紙袋と言われる、鼻紙 薬品 小物 金銭などしまったポケットがある(身分の高い人用)
黒い小さなコンパクトな甲冑は、腹当と呼ばれ、着物の中に着る、今でいう防弾チョッキ

17位 北条氏康(相模) 攻めも守りもうまかった

織田信長が活躍する少し前、今の関東一帯を治めていた大名。小田原城を発展させ、数々の勝利に導いた。武田信玄や上杉謙信に並んで東国の三雄といわれた人物で籠城戦の達人です。

栗原響大くんと海上先生 佐々木先生と、北小田原城の強さを見て回った。

守りの強さの秘密とは、総構(そうがまえ)という、土塁(外から入ってくる敵を防ぐ土で出来た壁:大きなものは高さ6mも)で囲った全長9㎞大きな囲い。
城だけでなく全体を囲ったのは、戦で町が荒らされないこと。民衆が食料や武器を安定して供給できるため戦いを有利に進めることが出来る。

小田原城の大堀切は深さが12mもあり、全国で最大規模の堀切です。堀切とは、敵の侵入を防ぐために、山を掘って作った溝のことで、小田原城の堀は仕切りがある障子堀で横にも縦にも逃れられなくなっていました。

守りだけでなく、攻めても強かった。戦国大名は、総力戦で決戦はめったにしなかったが、氏康は2回も行い勝っています。その作戦は、少人数で夜に奇襲作戦。鎧を着ているとその音で気づかれ問題があった。
再現ドラマで、北条氏康(和田雅成)鎧を脱がせ、物音をたてずに敵に近づいて攻撃したそうです。夜襲で大事なのは、スピードと同士討ちを避けること。鎧を脱げば仲間の目印になり、軽くなりスタミナを温存し素早く動けるようになった。

18位 小早川隆景(伊予) 

毛利元就の三男

19位 藤堂高虎(伊予今治) 日本のお城のスタイルを完成させた

当時の最新技術を駆使した「築城の名手」で、築城三名人の一人に数えられます。江戸城、大阪城など20以上の城を築城し、最強に守りやすい日本のお城のスタイルを完成させた人物です。

その最高傑作が「水の上に浮かぶ要塞」と呼ばれ、鉄壁の海城である今治城。攻める気力をなくさせる 様々な防禦の仕掛けが満載です。

番組では、高橋英樹さんと、お城大好きキッズ栗原響大くん(今まで161ヶ所廻っている)が今治城を訪れます。
栗原くんは、藤堂高虎は主君をやたら変え「浅井長政→阿閉貞征(あつじ・さだひろ)→磯野員昌(いその かずまさ)→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光」とあげることが出来ます。

うんちくクイズ Q.今治城で一番幅が広い堀の幅は何メートルか?(答えは70m。矢どころか、鉄砲さえも届かなかった)

①相手の心を折る鉄壁の門
西にいる旧豊臣方を監視するために築かれた今治城。相手の心を折る鉄壁の門とは、枡形虎口で、3方向から矢や鉄砲で狙った。藤堂高虎がはじめて作ったと言われ、これ以上強い防御はなかった。江戸城の大手門、駿府城の門も枡形虎口です。栗原君は、枡形虎口の正面に鏡石という大きな石を置いて、お城を築いた大名の権力を示したことも知っていました。

②水上に浮かぶ要塞。最強の海城。
海の上のため、地盤が軟弱なのが弱点。それを補うために、軟弱な土地に腐らない松の木を打ち込み、犬走りという石垣を築く土台を作って、その上に高い石垣を築いた。
長い堀、鉄壁の城門、高い石垣 防御力最強の城

20位 石田三成(近江) 情報収集して先を読む

15歳で秀吉に才能を見出され、その先見性でどんどん頭角を表していった石田三成の唯一の誤算が、小早川秀秋の裏切りにあったとと言われています。
「真田丸」で石田三成を演じた山本耕史さんは「戦に進んで出る武将ではなかったと思うけれども、戦を支える上でのお金の振り分け、軍の手配などに長けて、すごく頭が良かった。」

三成が計算高く 緻密な計算ができた理由は、「石田三成特殊情報網」で敵の奇襲を見破ったと紹介されました。
その情報網が活躍したのが賤ケ岳の合戦の時。滋賀県長浜市賤ケ岳の寺の僧侶に宛てた手紙が残っており、スパイを派遣してくれたことへのお礼が記されていたとか。いろんなお寺に諜報を依頼していたようです。

また、「もし小早川秀秋が裏切らなかったら!?」というテーマで、AIが西軍84000 vs 東軍74000 の関ヶ原の戦いを分析。
するとなんと、50.4%の確率で石田三成が勝利との結果に。
秀秋の裏切りがなければ、歴史が変わっていたかもしれませんね!

21位 井伊直政(遠江) 敵武将から恐れられた赤鬼

関ヶ原の戦後に近江国北東部に封じられ、彦根発展の礎を築きました。戦場では真っ赤な鎧で、「井伊の赤鬼」と恐れられた、家康の筆頭家臣です。15歳の若さで家康の家臣にスピード出世しました。
再現ドラマで、本能寺の変後、光秀に命を狙われる危険があり、飲まず食わずの家康一行は極限の状態で歩き疲れた、古い神社に立ち寄り神社に供えられたにぎり飯を、皆がかぶりついたのに、直政(和田雅成)は、食べようとしませんでした。「飢えをしのがぬバカがどこにおる」と怒った家康に「今に追手が参ります。私はここにとどまり、討ち死にします。徳川は飢えて、供え物に手をつけたとはいわれたくない」と答えたことが、家康の心をつかんだといわれます。
無事に帰還した家康は直政に特別な褒美を与え、南蛮渡来の貴重な素材、孔雀の羽根で作った陣羽織は、現在も残っています。

直政は譜代の出身でなく、落ちぶれた家の生まれで、味方のやっかみをねじ伏せるため、敵方の武将に赤鬼として恐れられるような大胆な行動をとった。
小牧・長久手の戦いでは、3000の兵の大将として、家康から与えられた赤い鎧で出陣し、止める家臣に「自分に遅れをとるものは、今後男と名乗ることを許さない」と単身敵陣へ突撃した。

22位 大谷吉継(越前敦賀) 失明状態で戦い抜いた戦の天才

越前敦賀(現在の福井県)を治めていた大谷吉継。
関ヶ原の戦いでは失明状態で、石田三成率いる西軍の武将として出陣。
「真田丸」で吉継を演じた片岡愛之助さんは「男気があって理想的な武将」。

白い頭巾がトレードマークですが、頭巾をかぶる理由は若くして難病でただれた顔を隠すためと言われています。
目が見えない状態でどのように戦ったのか、外岡慎一郎先生(奈良大学教授)が関ケ原古戦場にて解説。本陣から大谷が動かず、感覚を研ぎ澄まし、音・振動で戦場をイメージして、作戦指揮あたっていた。相当 実践経験があり、家康が一番警戒し畏れていたのは吉継だった。

23位 前田利家(加賀) 加賀100万石の礎を築く

京にも近い 能登・加賀・越中の3国を 秀吉から与えられた金沢城を中心に北陸で勢力を広げ、文化発展にも力を入れ、現在にも残る 加賀100万石の礎を築いた。
大河「利家とまつ」で前田利家を演じた、唐沢寿明は、「すごく実直で真面目な豪快な男」
一説には、6.3mもの長さの槍の使い手だったそうです。
前田利家の使った甲冑は、背中の部分が盛り上がっていて、背中に甲羅を背負っているような筋肉がついていたと考えられるそうです。
現在のミスターパーフェクトと同じでした。

24位 浅井長政(北近江) 民を味方につけ 織田信長を追い詰めた

琵琶湖の北側を治めていた大名。奥様は信長の妹 お市の方。
信長と意見が分かれて対立した(志賀の陣)では、織田軍に囲まれたものの、一向一揆の民衆が立ち上がり後ろから信長を攻め形勢を逆転した。
なぜ長政に民衆が力を貸してくれたのか? 長政が「夜回りとか 火の用心などを徹底するように」と、民衆に具体的に指示した手紙が紹介されました。戦国大名が民衆に手紙を送るなど滅多にないことで、民衆は気づかいに心打たれ、力を貸した。
追い詰められた織田信長(高橋健介)が正親町天皇に泣きつき 戦を止めてもらった。

25位 今川義元(駿河) 最強大名に天才的アイデアで渡り合った

斬新な政策で国を大きくした超やり手大名。
静岡県全域と愛知県東部を治めていた。
織田・武田・北条という戦国屈指の大名とわたりあっていました。
有力な家臣と村の者でチームをつくらせ、戦で活躍したチームに土地や褒美を与え、戦国屈指のの大兵団にしたそうです。
今年の大河「麒麟がくる」で今川義元を演じた片岡愛之助は、もうちょっと上でも!
白粉を塗って、お歯黒のイメージだが、「海道一の弓取り」だった。

26位 加藤清正(肥後) 熊本城を中心に町を作り発展させた

熊本県で52万石を治め、都市開発させた大名で、熊本城を築城。
敵を一網打尽。天守にたどり着けない仕掛けだらけのラビリンス。
熊本城に討ち入りシミュレーション、1万の兵で攻めてみた。
①高い石垣の上に大きな櫓を49も作った(天守級の5階櫓もあった)
②敵の勢いを奪う魔法の道。枡形が複数連続(6連)
③天守目前には暗がり通路
こんな仕掛けでは攻めることはできないですね!

27位 上杉景勝

4位上杉謙信の後継者として、現在の新潟県を拠点に120万石を治めた。
豊臣政権 五大老として活躍。

28位 柴田勝家 

今川義元や浅井長政破るなど腕っ節の強さを見せつけた。
ともに自害した正室・お市の方は信長の妹です。

29位 龍造寺隆信(肥前)

現在の佐賀県・長崎県を中心に活躍した、「北九州の覇者」
島津氏、大友氏と並び九州の三強に入っていた。大肥満の大将と呼ばれた風貌、敵に脅威を与えるような戦術で、後に「肥前の熊」と呼ばれた。
田中裕二(爆笑問題)が「僕も最近知ったんですけど、うちの先祖がここに仕えていたらしいんです」といっていました。

30位 毛利輝元 

5位の毛利元就の孫。中国地方全土で、112万石を治めた。

まとめ&感想

1位 天下統一を目指した 織田信長
2位 戦国最強の騎馬隊を作った 武田信玄
3位 農民から下剋上を果たした 豊臣秀吉
4位 戦に強く商売上手な 上杉謙信
5位 知力を駆使して一代で 西国の覇者へ 毛利元就
6位 天下を統一して江戸幕府を開いた 徳川家康
7位 新しいものを取り入れていくカリスマ大名 伊達政宗
8位 黒田官兵衛 9位 真田昌幸 10位 本多忠勝
11位 島津義弘 12位 明智光秀 13位 斎藤道三 14位 立花宗茂 15位 北条早雲
16位 蒲生氏郷 17位 北条氏康 18位 小早川隆景 19位 藤堂高虎 20位 石田三成
21位 井伊直政 22位 大谷吉継 23位 前田利家 24位 浅井長政 25位 今川義元
26位 加藤清正 27位 上杉景勝 28位 柴田勝家 29位 龍造寺隆信 30位 毛利輝元
でした。
前回の日本人に最も愛される武将とは少し違っていました。
戦国大名なので、外れた人もいました。遠い九州など西国の人は 疎いのですが、いろいろのエピソード楽しかった。もっとじっくり話聞きたいと思います。