大河 太平記 40話「義貞の最期」★藤夜叉の子 直義の養子に 尊氏 征夷大将軍拝命▽あらすじメモ

楠木正成 亡き後も 吉野に逃れた 御醍醐帝を中心とする南朝勢と 足利尊氏軍の戦いは 果てしなく続いていた。新田義貞と弟 脇屋義助は共に 越前金ケ崎城・藤崎城の攻防を繰り返し 京都奪回の機会をうかがっていたが、形勢は日に日に 不利になるばかりだった。
一方、奥州の北畠顕家は、疾風のように駆けつけ、鎌倉を落とし、上洛一歩手前まで来たが、一瞬の隙を突かれ、あえなく短い生涯を閉じた。じりじりと追い詰められても 御醍醐帝は京に帰る日を待ち続けるのであった。

藤夜叉の子 不知火丸 直義の養子に直冬と名乗る

足利直義亭
ある朝、足利尊氏(真田広之)が気散じの朝駆けがてらに、弟の足利直義(高嶋政伸)の屋敷を訪れて、直義が欲しがっていた 自分の碁盤と同じようなものをみつけたと持参し「使い初めに一手」と誘った。
そこへ直義の妻が姿を見せ、尊氏に挨拶した。しかし直義は妻をすぐにさがらせた。直義の妻は渋川貞頼の娘で、病弱のため 子に恵まれず 表舞台に出ることも少なかった。

兄弟は碁盤に向かい、形勢不利になった尊氏は「いまのわしのようなものじゃ、あちらからもこちらからも攻められて頭が痛い」とぼやく。
直義が各地の南朝方の動きが活発なことを口にすると、「それもある」と尊氏。
直義は不知哉丸(筒井道隆)のことを口にする。
不知哉丸は佐々木道誉(陣内孝則)のところに日参していた。
尊氏が道誉に相手にしないよう頼んでいたが、不知哉丸がその気になればいくらでも駆け込み先はある。「どうしたものかのう」という尊氏。
直義は「不知哉丸どのをそれがしにいただけませぬか? 足利一門の中で育てたほうが筋であり、我が子として育てたい。我らには子がないのでこの上もない恵です。不知哉丸とは不思議なえにしでめぐりあい不思議と気のあった仲、これは天の引きあわせだ」と言い、尊氏に頭を下げた。

足利尊氏亭
尊氏は花を立てている登子(沢口靖子)に、不知哉丸を直義の養子とする話をした。「まだ決めたわけではないが気持ちは有り難いと思う」と言う尊氏。
登子は「ではお決めになればよろしいではござりませぬか」と冷たく言う。
尊氏は「直義の子ともなれば日ごろ顔を合わすこともあろうが、それでも良いか?」聞くと、登子は「不知哉丸どのは殿に似ておられますか? …お会いするたびに似たところを探すのでござりましょうな」
登子は花に向かい、近頃 道誉から立花を教わっていて、今日もこられ、道誉が「気に染まぬ一輪の花も、他の花々と共に器に盛れば、見事な一点に見えることもある。それが立花の奥の深さだ」と言っていたと教えた。「花も人も、そうであるならよろしゅうござりまするな。」と言いながら登子は菊の一輪を差し入れた。

数日後、不知哉丸が直義の養子となることを承諾した との知らせが届く。
それからひと月後、不知哉丸の養子縁組と不知哉丸の元服の儀が、一族の見守る中で執り行われた。
元服した不知哉丸は直義の一字をもらい直冬(ただふゆ)と名を改めた。

この直冬こそが、後に尊氏を脅かす生涯の敵となるのである。そのことを 尊氏も直冬も気づいていない。

新田義貞 越前 藤島の燈明寺畷で斯波軍と遭遇 命落とす

越前藤島・燈明寺
同じ頃 一方、尊氏のもう一人の生涯の敵である新田義貞(根津甚八)は、越前・福井で 足利方の斯波高経 相手に戦っていた。「都へ攻め上る日は近い!この戦に勝てばあと一息ぞ!」と言って、義貞は負傷した兵士一人一人に声をかけ、励ます。
義貞は吉野の後醍醐天皇から届いた宸筆(しんぴつ:帝の直筆)を開いた。「帝はこの義貞を頼りにしているという恐れ多い言葉だ!この御心に 何としてもお応えつかまつらねばならぬ。いいな!」と義貞は兵達に大声で伝えた。
この日の夕暮れ、義貞はわずかな兵を率いて 味方の援軍に出かけ、田のあぜ道を進んでいた時、斯波軍と遭遇した。
斯波軍も突然現れた敵に驚き、慌てて矢を放つ。義貞の馬に矢が当たり、義貞は田のぬかるみの中へ投げ出されてしまい、ぬかるみから もがき上がろうとしたその時、一本の矢が義貞の首元に突き刺さった。
「帝のご宸筆を」とうめく義貞は勅書を口にくわえ、「帝の御心に お応えつかまつらねば…」と言いながら、ヨロヨロと泥田の中を這い、剣を振り回す。
最後の力を振り絞って立ち上がり剣を振り上げ、義貞は口に勅書をくわえたまま 大の字になって仰向けに倒れた。

建武5年、閏7月2日
尊氏の宿命のライバル・新田義貞は燈明寺畷のぬかるみの中であっけなく死んだ。享年38歳であったと伝えられる。

尊氏 新田義貞の死を知り 思い出に浸る

京 侍所
義貞の死は斯波高経から早馬で届いた。高師直(柄本明)も直義も、家臣一同喜び、尊氏に祝いを述べる。
尊氏は酒宴の用意を命じ、全軍に新田左中将殿を討ち果たしたと 伝えよと命じた。
「酒じゃ、酒じゃ」と賑やかに 家臣達が立ち去った後、尊氏は報告の紙を手にし、幼い頃から一騎打ちまでした義貞とのことを思い巡らした。
そこへ直義がやってきて、新田の儀 内裏にも知らせた方が良いと進言し、「しかし新田どのも不運なお方でござりましたな。我らがおらねば、武家の棟梁にもなれたはず」と尊氏に言う。
「我らがおらねば、だが、我らを育てたのも新田殿じゃ」と尊氏は言い、幼い頃に義貞にしかられて、世を見る目を開かされたと語る。「新田殿はおのれの敵を、おのれの手で作ってしまわれたのじゃ。誠に不運なお方と言う他はない」

尊氏は「しかし遠い道じゃのう。北条の醜い政を正そうと思った。赤橋守時殿を殺し、楠木正成殿を殺し、新田殿を殺した。安穏な世ならば、みな良き友じゃ。これだけ殺して、まだ世は収まらぬ。しかしここまで来ては 引き返すこともできない。力の限り戦うてみしょうぞ、それが死んだ者へのたむけじゃ」と言い、直義も「同感でござります」と答えた。

尊氏は「内裏へはわしが参る」と言い、先日上皇から お勧めのあった征夷代将軍補任の儀を受けることにしたと直義に明かし、「すべては決した。戦はやめよ、天下にそう宣するのじゃ!」

光明天皇より足利尊氏 征夷大将軍を拝命 高師直 褒賞を巡り不満募らす

建武5年8月11日
光明天皇より足利尊氏は征夷大将軍を拝命した。
足利の幕府を明確にし、その初代将軍たる立場を天下に示したのである。
同じ日、朝廷は直義を左兵衛督(さひょうえのかみ)に任じた。
幕府の政を実質的に執り行っている直義を朝廷は無視できなかったのである。
以後世の人は、尊氏を将軍、直義を副将軍とはやした。


一方 北陸 畿内 九州各地で 依然 戦いは続いていた。
しかし北畠顕家に続き、新田義貞も失った 吉野南朝方の劣勢は明らかになった。

この戦の中で尊氏の執事 高師直は 兄 高師泰(塩見三省)と共に、抜群の功を挙げ 北朝勢の優位を決定的なものとした。

戦に何も功のない足利一門の斯波高経が越前の守護に任じられたことに高兄弟が楯突き、直義と揉めていた。
師直は「斯波高経が首を取れたのはたまたまで、それまで斯波殿は新田に攻められ、散々我らに助けてくれと泣きついてこられた、師泰や判官殿が援軍を連れ駆けつけ 新田軍を破ったから、越前は守られた。」
道誉も「師泰殿の、新田攻めは 鬼神のごときものがあった。今日 越前があるのは師泰殿のおかげぞ」と言う。
しかし直義「戦の恩賞に 一国の守護を望むのか? 守護とは 幕府の命を受け、一国の政を司るもの、戦に功があったと 金品を渡すがごとく 守護に任ずるわけに行かない。」と拒絶する。
師泰が怒って「師直、もう良い!」と退出して、師直、そして道誉もこれに続いた。

尊氏が登子と内裏で詠む和歌を選んでいるところに、師直が来て直義への不満を訴えた。
師直は「御舎弟殿は、北畠顕家を討ったのも細川顕氏の手柄と思っている。それゆえ和泉の守護も細川氏に任じられた。北畠を討ったのは 私と兄です。」
尊氏は「直義もようわかっている。分かった上で細川を和泉の守護、斯波を越前の守護にしてくれとわしに頼んできた。そちの兄弟達にはすでに あまたの国を与えてある。このまま そなた達を 次々に守護に就ければ、我が一族 斯波 今川 吉良 細川達が何という。幕府の政を 丸く収めるには一族の協力を得ねばならぬ」と言う。
師直は「では、我らは戦の時だけ働かされ、政には高い家柄の方や古い領主の方がおつきになると、かような事になりまするか?」きつく問う。「そうは言ってはおらん」
師直は「現に幕府の評定方には、ご舎弟殿の意向で そのような方ばかりが登用されている」となおも続けるが、尊氏は直義には直義の考えがあろう。政は直義に委ねたのだという。

そこへ清子(藤村志保)が尊氏を訪ねてきた。
尊氏は廊下まで清子を出迎え、そこで立ち話を始める。
それを見ながら、登子は「近ごろは何かというと 直義殿、直義殿じゃ」と師直に愚痴る。
登子は「母君は、日を置かず直義の館を訪ね、養子の直冬殿をたいそうなお気に入りとか、ああして時折 登子にわからぬよう 殿にお教えになっている。そのせいでもあるまいが、以前にも増して殿は直義殿に甘うなられた。幕府のことは何もかも 直義殿の言いなりだ。万事直義殿任せでは困ると 私からも申し上げよう。」
師直は宋から渡来した鳥の声で啼く 笛を「鎌倉の若殿に」と登子に手渡すと「義詮のことを案じてくれるのか、師直殿、かたじけのう存じます」と登子。

佐々木道誉亭
夜、佐々木道誉に招かれた、師直は共に女を侍らせ、酒を飲みながら田楽を見物していた。
師直から登子が直義を嫌っている、それは直冬のことが気に障っているからと聞いた道誉は「義詮殿に万一あらば、足利将軍の跡を継ぐのは直冬殿」。
道誉は「そうなれば直義の幕府の力は、益々御舎弟殿に集まる。わしは、尊氏殿が好きなのじゃ。それゆえ今日まで従うてきた。今の形ではまずい。御舎弟殿に政を渡すべきではなかった。わしは古い友として足利家の行く末が案じられてならん」
師直は「判官殿が、我が殿が天下を平定し、すべてを握らせたうえで、手のひらを返し奪い取って、将軍に自らが立とうと思われているのではないか」と聞く。
道誉「それを誰から聞いた」師直「我が殿が笑いながら仰せられたことがある。判官殿は油断ならぬと」
道誉は「油断ならぬ者のところに出入りしていては叱られよう」
師直は「背に腹は代えられませぬ。我が足利惣領家を守り、御殿が名実共に天下を握るまで、それがしは判官殿も御台所も利用させていただきます」と言う。
道誉は「御方もなかなかの婆娑羅よの!」と笑った。

そこへ佐々木の一族、塩谷高貞が道誉の招きを受けて、妻 西台(にしのだい)とやって来た。「いつ見ても お美しいのう」とはやす道誉に、高貞は「高殿の御前じゃ、おからかいめさるな」と言う。西台に「こちらは 天下一の武勇にして将軍の御執事 いまをときめく 高師直殿ぞ、しかとご挨拶されい」と告げ、西台は挨拶する。その間、師直は西台の顔をじっと見つめていた。それを道誉は見ていた。

後醍醐帝死の床に

暦応2年(1339)8月 重大な報せが都にもたされた。
一色右馬介(大地康雄)が尊氏のもとへ来て、密偵によると 吉野の帝が今日明日にも義良親王に譲位遊ばされ、直ちに位を引き継ぐ践祚(せんそ)の儀が行われる由、というのである。
後醍醐帝(片岡孝夫)が重い病にかかられ、行宮(あんぐう)はただならぬ気配、「推し量られまするに、もはや、先帝は…」と言う右馬介。
尊氏は愕然として「なんとしたこと…いま先帝が崩御なされては…この尊氏は、もはや手の打ちようが無くなるわ!なんとしても生き延びていただかねば。事は収まらぬぞ!」

このとき、吉野の行宮で後醍醐邸は死の床につかれていた。比類無き帝王の最期が近づいていた。人も時も、時代が大きく変わろうとしていた。

▽まとめ&感想

藤夜叉の子 不知火丸 直義の養子に直冬と名乗る。
新田義貞 越前 藤島の燈明寺畷で斯波軍と遭遇 命落とす。
尊氏 新田義貞の死を知り 思い出に浸る。
光明天皇より足利尊氏 征夷大将軍を拝命 、高師直 褒賞を巡り不満募らす。
後醍醐帝死の床に
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新田義貞の最期 、田んぼの畦て、どろんこになり 帝のご宸筆をくわえ哀れでした。
続けざまに、顕家、義貞が亡くなり、兄弟仲、夫婦仲もきしんでいくようです。
後醍醐帝も亡くなったら、顔ぶれが寂しくなります。