城山三郎著「雄気堂々」あらすじ感想 ★渋沢栄一と慶喜その関係は

城山三郎「雄気堂々」(上・下)(新潮文庫)昭和51年発行 渋沢栄一の生涯を辿った長編小説です。「青天を衝け」で徳川慶喜とどう関わってくるのか。メモ書きです。

上巻:栄一 千代と祝言、長七郎などの影響で江戸に遊学

血洗島は 江戸から20里 中山道 深谷宿から さらに2里ほど入った所にある。
関東平野の懐深く 所々木立のあるだけの農村・赤城 榛名 妙義の山々や 晴れた日は浅間や 日光の男体山を見渡せる。武蔵というより 上州に近い からっ風の強いところ。

安政5年(1858) 渋沢・尾高家の祝言は冬の好日
この時、渋沢栄一は19歳、千代は18歳。二人は従兄弟同士 幼なじみでした。
栄一は家業である藍の商売や農業を手伝いながら、いつかは江戸に遊学したいと思っていた。

千代の兄 尾高新五郎(惇忠) は栄一の師でもあった。次兄の 長七郎は 栄一より年長で剣道に秀で、江戸に出ていて、時々 戻り情勢を語ってくれた。

市郎右衛門(養子)はただの百姓ではない 学問もあり 藍の商売にも長じていた。
えい(家付娘)は懶病の女に気を配るなど、人が良く 「おえいの羽織」(風が吹くと栄一の羽織をもって探していた)と呼ばれていた。

尾高道場に 道場破りの真田範之介と元水戸藩士の小腰平助が来て、その後のもてなしの席で、小腰に「一橋家 平岡円四郎という用人にお取り次ぎ申す」といわれた。

千代が嫁いで3年後、皇妹和宮 将軍家に御降嫁、その行列が中山道を下り、腫れ物の出来た 栄一に替わり、市郎右衛門が、お供廻り荷物運搬の 夫役の宰領になった。その日 家にいた栄一を新五郎と長七郎が訪ねていた。 井伊大老が暗殺され、その後に就いた安藤対馬守の襲撃計画に長七郎が参加しようとしていたのを引き留め、長七郎は身を潜めることになった。
その春先 栄一は2カ月、江戸に出て、海保漁村の塾で漢籍と千葉道場で剣術を学んだ。

文久2年1月15日 江戸城坂下門外で 水戸浪士が安藤対馬守を襲うが失敗して、長七郎が京都に身を隠すことになった。
京都では伏見寺田屋で斬り合いがあり、江戸表では 一橋家慶喜が将軍の後見職となった

千代が男の子出産、しかし はしかが流行し 半歳足らずでなくした。

栄一 江戸に出て 平岡円四郎と出会い 一橋慶喜に仕官

文久3年(1863)春
市郎右衛門は渋沢栄一が 家業を継いでくることを望んでいたが、栄一は150両ため込み、ふたたび江戸に遊学。
この頃 将軍家茂が、京に上がり 孝明天皇の賀茂神社に攘夷祈願に随行していた。

小腰平助平岡円四郎の所に連れて行ってくれた。平岡は人材発掘していたので仕官する気なら心配してやるといわれたが、いずれその気になった時にお願いすると含みを残した。
小腰はいろいろな人に合わせてくれた。真田範之介浅草の新門辰五郎

栄一は尾高新五郎・渋沢喜作(栄一の従兄)と槍刀などを調達し、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き払う計画を立てた。しかし 長七郎が反対し取りやめになった。

栄一と喜作は、幕府の眼を逃れるため、面識があった平岡家を訪ね、留守だったので 妻女に頼み込み 家来分にしてもらい、手形をもらい京都に行く。

栄一らは京都に到着、さっそく平岡円四郎を訪問します。しばらく京で過ごしていましたが、翌年になって、獄中から 尾高長七郎が 送った手紙が栄一の許に届きました。
その手紙には 長七郎が江戸へ向かう途中 あやまって人を殺めて、小伝馬町の獄につながれている。このとき長七郎が栄一が送った 手紙を持っていた。そこには 京の情勢を知らせ 、挙兵のたくらみのために 長七郎も京都へきて 一緒に工作を始めようと 書かれていました。

翌朝、平岡円四郎が栄一らを呼び出し、幕府から栄一らについてかけ合いが来ていて 、決して悪くは扱わぬので、話してくれぬかといわれた。
栄一は手紙の件を正直に、打ち明けました。
平岡に、節を屈して一橋家に仕えたらどうかと言われた。
2人は宿に帰って相談、平岡の好意を受け入れることに同意、翌朝再び平岡を訪ねて、仕官に先立ち一橋慶喜にお目通りさせてほしいと願い出ました。
平岡は未知の者にお目通りを許すことはできぬ、二三日中に松ヶ崎へ御乗切があるから、馬に負けぬよう駆けよと言った。
背が低く肥っていた栄一は、御乗切の当日慶喜の馬が見えると下賀茂から山鼻まで十町(約1km)近く必死に駆けて慶喜のお供をした。
2日後に引見が許され、栄一らは一橋家家臣となりました。
役名は奥口番で御用談所下役として出役する事になった。

西郷吉之助へ使いに出され、豚鍋を共に食べたり、諸藩留守居役や公家に使いに出され、動静を探ることもあった。
薩摩の折田要蔵が築城学を教えていた。そこの住み込みになった。

栄一達は人選御用の役で江戸に出ている間に平岡暗殺され 蛤御門の変があり慶喜が政局を握った

渋沢栄一と喜作は平岡から、人選御用の役を命ぜられ、江戸に向かった。
江戸に着いてみると、水戸で天狗党が筑波山に立てこもり、加入するあての人材が加わっていた。
一方 入牢中の長七郎に面会したが、廃人に近かった。
新五郎も筑波の天狗党に通じているとの疑いで捕縛された。
一橋家領地の村々を巡回した。
江戸に戻ると、6月16日夜 平岡円四郎が水戸浪士に暗殺された知らせと、新五郎が釈放され家に戻った知らせを聞いた。
7月19日「尊王攘夷」の旗を掲げ 長州の大軍 京都に侵入があり、藩より人選御用の中止と江戸藩邸での足止めを指示してきた。
平岡円四郎の死後、用心筆頭に黒川嘉兵衛がなった。慶喜の相談相手は 水戸家からきた原市之進だった。
元治元年(1864)7月18日 禁門の変(蛤御門の変)で慶喜と西郷吉之助が名をあげ、 一橋慶喜が政局の主導権を完全に握った

8月末 栄一達は帰京命令を受けた。 それまでに集めた40人を連れ、人目を避け中山道をとるよう指示があった。
岡部の領主から、中山道の通行は認めるが 領内に入るのを禁じられ、深谷宿から抜けだし 隣部落宿根の遠縁の家で、栄一と、千代(妹の貞同行) 八つ(午前2時)頃 こっそり会い 暗いうちに別れた。

栄一達は京に戻った。
一橋慶喜は京都を制圧しており、諸藩の留守居役はこぞって 一橋家御用談所に交際を求めてきた。用人筆頭 黒川嘉兵衛は、苦労人で 親切な上役で、栄一達を気づかってくれた。
火消しの新門辰五郎を手下200人とも 京に呼んだ。
黒川は、栄一を宴席に度々 伴ってくれた。

天狗党が中山道から北国路にでて、京に迫ってきた。武田耕雲斎・藤田小四郎を将に800人、水戸の流れをくむ 慶喜に訴えようとしていた。
慶喜は浮浪の徒多人数が徒党を組み上洛しようとしていると割り切って考えていた。
結果は悲惨であった。

慶応元年(1865)2月 御目見以上となり小十人に昇進、俸禄も十七石五人扶持、月俸十三両二分に加増されました。
一橋家の兵力の主体は幕府や水戸藩からの借り入れ部隊だったので、栄一は申し出て歩兵取立御用掛となり、一橋家領地から むずかしい仕事だったが 500名の兵力を集めることに成功。

一橋家の受けとった年貢米を灘・西宮付近の酒造業者に直接売って収入を増加させるなど、一橋家の財力を強める方法を 慶喜に建白し、御勘定組頭に任じられた。
建白していた殖産興業策を次々と実行。大坂の豪商と交渉して藩札が額面通り通用するようにした。

慶喜 徳川宗家相続 征夷大将軍に! 栄一幕臣になり 弟 武昭のフランス留学に随行

慶応2年(1866)7月20日 将軍家茂は大坂城で病死
同年8月20日 幕府は家茂の喪を発して慶喜の宗家相続を公表しました。
同年12月5日 慶喜は征夷大将軍に任命され、江戸幕府15代将軍に就任したのです。

渋沢栄一は幕臣となりましたが、身分はお目見以下。将来に希望がもてずにいた。
ある日 目付 原市之進に呼び出され、フランスで万国博覧会が開かれ 各国の帝王や名代が出席される。日本からも将軍の親戚を派遣されるようにと フランス公使から申し出があった。評議の上、上様の弟 清水武昭(民部公子みんぶこうし)をつかわすことになった。
博覧会の終わった後、ヨーロッパの国々を廻り、3年ないし5年武昭様をフランスに留め 学問させようとの事。
付き添いは水戸藩の七人だが、上様の考えで 将来有為の人物であり、 庶務会計に適任者がいないので起用された。

栄一は西洋行きの服装を整え、喜作に連絡。千代に手紙を書いてフランス行きを告げ、千代の弟 尾高平九郎を見立て養子とした

慶応3年(1867)1月11日 フランスの汽船アルヘー号で、徳川昭武ら1行 28人は横浜を出港しました。
上海に寄港、香港で船を乗り換え、サイゴン・シンガポール・アデン。当時スエズ運河は開通していなかったので、陸路汽車でカイロ経由アレキサンドリアへ、再び船でマルセイユ、汽車でパリへ。栄一はフランス語を独学。
慶応3年(1867)3月7日パリ到着

慶応3年(1867)3月24日 昭武はナポレオン3世に謁見。
博覧会見学を振り出しに、歓迎行事が続いた。栄一は諸々の調停役に駆り出され、本来の庶務会計の仕事に忙しかった。それでも栄一はいちばん熱心に、精力的に見物し 勉強して廻った。

5月 慶喜 兵庫開港を実現
平九郎は江戸に出てきた。
8月14日 栄一をパリに送り出してくれた 原市之進が本圀寺遊撃隊士と名乗る二人に斬殺された

栄一達はフランスでの1通りの行事を終え、スイス・オランダ・ベルギーに巡遊  

明治元年(1868)正月には、前年10月14日大政奉還が行われたことを知った。
続いて、鳥羽伏見の敗報・将軍の謹慎 の報せがあった。

大政奉還 水戸の慶篤亡くなり帰国 栄一 商法会所を設立 大隈重信に八百万の神にと誘われ 租税正に就任

慌てて帰ったところで 慶喜は謹慎中、弟 武昭にこれといった役目があるわけでなく留学を続けた。用心深い渋沢栄一は、送金の中から 倹約して かなりの額を積み立て、投資していた。
フランス政府は 相変わらず好意的だった。

喜作は彰義隊頭取で、平九郎は隊士だった。新五郎も参加していた。
いざこざがあり、別の一隊を作り「振武軍」と名乗り、官軍と戦い 攻め落とされ 平九郎が亡くなった

慶喜水戸で謹慎・田安家達による宗家相続・東北諸藩の官軍への反抗などの報せも届いていた。

武昭達は専心修学を続けていたが、武昭の兄 水戸藩主が亡くなり 武昭が家督相続するために帰国。明治元年(1868)12月3日ほぼ2年ぶりに横浜に到着。

栄一は倹約し利殖もしていたので、残金は1万6千両もあったので、スナイドル銃1個小隊分買って、水戸へのお土産として武昭に持たせた。
残金とパリの前払い家賃や家具什器売却分を、徳川家から武昭のため出した金と言い張り、静岡藩の役所に引き渡した。
静岡藩の役所で、勝海舟に会った。

栄一帰郷して両親・妻子・知友に会った。千代の母やえと 長七郎が亡くなっていた。
江戸に戻り、静岡に着いた。
前様(さきさま)と呼ばれる慶喜は、徳川家の菩提寺 宝台院で謹慎していた。
静岡に着いて4日目に慶喜に拝謁し、パリ留学を報告した。警固の武士はいず 新門辰五郎が一人見回っていた。
静岡藩勘定組頭を命じられるが、固辞した。
翌日、拝借金運用について提案、「商法会所」を設立。
貸付・預金業務、米穀や肥料の買い付け、蚕卵紙や繭をまとめて売り込むなど 広範囲に行った。

妻の千代と歌子を静岡に呼び寄せた。
朝廷から、静岡藩を通じ 栄一に新政府に出仕せよと 招集がきた。
断るために上京したが、大蔵省に出頭し「租税正に任ず」という辞令を渡された。辞令を返すにも 相手が分からなかった。
大蔵大輔の大隈重信に会い、「新政府のやろうとしていることは、全て知識も経験もないいことばかり。分からない者が知恵を出し合いやっていこうとしている。我々皆が八百万(やおよろず)の神なのだ。君もその神々の一人として迎えた。」という言葉に引き込まれ、出仕する事とした。

下巻:栄一新政府のため活躍も対立が絶えず 予算編成を巡って 大久保利通と衝突 大蔵省を退官

渋沢栄一は政府の高官になった。
喜作は五稜郭に立てこもり、今は陸軍の監獄にいた。
慶喜は謹慎を解かれ、静岡の代官屋敷に夫人を呼び寄せ閑居の生活に入った。
栄一は湯島に一戸を構え、静岡から妻子を呼んだ。

新政府は熱気あふれていたが、矛盾も多く ぶつかる壁も多かった。大蔵大輔の大隈重信に建白して「改正掛」を発足。
若い上役伊藤博文 調べるためアメリカに渡り、改正案を出してきた。
大蔵卿 大久保利通に変わった。参議の木戸孝允(桂小五郎)が栄一を自分の目で確かめに来た。
政府の最高首脳達が「御議事」という討議の機会を持ち、栄一も「大内史」として発言権がないが出席した。
廃藩置県をするため、藩札の通用を禁止しすべて金札に取り替えさせることを 秘密裏に行う必要があった。
父 市郎右衛門が亡くなった。
新五郎に、フランス人の指導で 富岡に製糸工場を作ることに骨折ってもらっていた。
喜作が赦免され栄一は自分の邸に迎えた。富岡の製糸工場を手伝うことになった。

長州出身の大蔵大輔 井上馨を訪ね、兵部省御用達 山城屋和助の番頭 小腰平助に再会。山城屋和助は長州奇兵隊で山県有朋の部下だった。
そこで、長州出身の岡田平蔵(尾張沢銅山を扱っていた)と三井家の番頭 三野村利左衛門にあった。

岩倉具視ら新政府の首脳部の半数が2年近く使節として外遊。
大蔵省では大久保卿が出かけ、井上は実権を握り、栄一は次官格であった。
太陽暦の採用。所管事項を拡大解釈、 郵便蒸気船会社設立、合本組織の王子製紙の前身を発足。
外債をイギリスで発行。
明治5年11月 三井と小野で組合銀行を設立させた。

この1カ月前 千代が男の子を生んだ。長男がはしかで早世してから、歌子、琴子、糸子と女ばかりで、10年ぶりの男で、篤二と名付けた。
神田小川町裏神保小路に屋敷を移した。そこに、参議筆頭の西郷隆盛が訪ね、慶喜のことを聞いた。栄一は「慶喜はお元気で、大弓をひかれ、鷹狩りに出たり、投網漁をしたり、写真や油絵も始められた。」と語り、西郷隆盛は、悠々自適の生活をしている慶喜と、陰日向になって案ずる栄一の主従関係がうらやましかった。
旧佐賀藩士 江藤新平が司法卿となり、山城屋和助は追及され割腹自殺。
江藤は予算を削られ 大蔵省横暴と執拗に詰め寄った。
三条太政大臣が栄一の自宅に来て、井上、渋沢に、二人で財政金融を 預かってくれるよう依頼。
西郷の推薦で、江藤は参議に昇進。これは岩倉大使一行の出張中は、人事凍結に背いていた。
重要な国事は、参議会議で最終決定され、井上は会議に出席できなかった。江藤の参議就任後20日もしないで司法省の予算増額を決めた。

予算編成を巡って 大久保利通と衝突して、井上馨と栄一は大蔵省を辞した。
※当時の政府の構成 太政大臣・左大臣・右大臣・参議会議・各省・卿・大輔・少輔

栄一 民間の 第一国立銀行に入り 合本主義進める

渋沢栄一合本組織の「第一国立銀行」に入った。仲の良くない 三井と小野の出資なので もめていた。
栄一は、日本町兜町に引っ越し、洋装で出勤。
井上馨は尾張沢銅山に熱を入れていたが、司法卿の江藤新平が捜査を始め、執拗に追っていた。
征韓論が高まり、西郷隆盛、江藤新平が失脚
大久保利通が内務省を新設し、卿となった。山県有朋を陸軍卿に戻した。

明治7年正月 母 えい 病死の報せに、血洗島に戻ろうとしていたところに、小腰平助がやって来て、江藤さんと佐賀に帰ることになったと言う。
江藤新平が佐賀で反乱を起こし、大久保が連行され、裁判もせず 死刑執行された。

栄一は、過剰な蚕卵紙を買い上げ焼却を裏で指示、外国商人の買いたたきを防いだ。
大蔵卿 大隈重信を訪ねた栄一は、三井組の最高責任者になっていた三野村を見かけた。
第一国立銀行の三井が残り、小野組が倒産した。

栄一は、恩人に対する報恩をいつまでも続けた。徳川慶喜は言うまでもなく、一橋家用人平岡の遺族にも孫子の代まで続けた。

明治10年 2月 西郷隆盛 兵を鹿子島に挙げた。大久保は権力を固め、清国を相手に多額の償金を出させ、木戸や板垣を復帰させ、地租改正を進めた。
明治11年5月 大久保利通 麹町の邸で暗殺された。

三井家の番頭 三野村利左衛門がガンで亡くなった。三野村は子がなく、利助を養子にしていたが、この利助が三井組の為替店を合本組織の新しい銀行にすることを主張、三井内部では、反対され 利左衛門が懸命に説得するも限界があり、井上に頼んで政府に働きかけてもらい三井銀行が設立された。
陸軍御用達の大倉組商会の大倉喜八郎が声を掛けてきた。
三菱の岩崎弥太郎は 大隈に取り入って 西南戦争で大もうけしていた。

東京商法会議所」の設立や、銀行業者の連絡機関である「択善会」の運営など栄一は合本主義(公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方)の夢を持ち続けますが、実現は容易でなく 中傷も多かった。
三菱の海運独占に対して、苦労して風帆船会社を設立。

喜作をはじめとする 生糸売り込み商が、外国商館の横暴な商法に反撥、生糸の取引を停止して抵抗していた。
ところが 政変により、大隈重信が追放された。大蔵卿が変わり、生糸に対する200万円の政府資金を引き出すのに成功。外商を使わず海外に直輸出出来るようになった。
生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力
明治15年 妻の千代がコレラで亡くなり、百ヶ日法要を行ったところで終わりました。

▽まとめ&感想

上巻:栄一 千代と祝言 長七郎などの影響で江戸に遊学 平岡円四郎と出会い一橋慶喜に仕官
栄一達は人選御用の役で江戸に出ている間に平岡暗殺され 蛤御門の変があり慶喜が政局を握った
慶喜 徳川宗家相続 征夷大将軍に! 栄一幕臣になり 弟 武昭のフランス留学に随行
大政奉還 水戸の慶篤亡くなり帰国 栄一 商法会所を設立 大隈重信に八百万の神にと誘われ 租税正に就任
下巻:栄一新政府のため活躍も対立が絶えず 予算編成を巡って 大久保利通と衝突 大蔵省を退官
民間の第一国立銀行に入り合本主義進める
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徳川慶喜に出ていた 新門辰五郎が実在の人物に驚きました。
フランスから 戻ってのからの活躍、薩長の出身者による駆け引きの連続色々ありました。
これが、いまの自民党の原点かなと思うと少し複雑です。
明治以降の政治家 名前は聞いていても 実際何した人か分かりませんでした。
もう少しお勉強が必要ですね。