歴史発掘ミステリー 京都 千年蔵 大原勝林院★浅井長政の安堵状が信長の比叡山攻めに?

たまたま 「明智光秀」聞こえてきたので 2021年1月5日 視聴
元々は BSプレミアム 2020年8月22日放送の 59分版
車で大原から琵琶湖方面に出て、比叡山を廻ったことがあったので とても気になりました。
街中を避けてR367,R477を通り以外と近いとびっくりしました。

今回の舞台は京都から北東に20キロ、大原・勝林院、1013年、平安時代に創建された仏教音楽「声明」の聖地だ。しかし、明治時代になって朝廷や幕府の支援を失い、今は修復費用もままならない困窮ぶりだ。番組では全国の専門家15人とともに“蔵の中身の全部出し調査”を決行。仏像や絵画、古文書など1853点の文化財を徹底調査。織田信長、明智光秀、足利義満から藤原道長まで、あの歴史的なビックネームと大原、勝林院の知られざるつながりを追う。

NHK HP

大原三千院の隣 勝林院は声明の聖地・証拠の阿弥陀

勝林院は、お経に節をつけた仏教音楽 声明(しょうみょう)の聖地として知られる。ここで修行し、奥義を究めた人は 朝廷の儀式にも招かれる 誉れを賜ったといわれる。

磯田道史先生と渡邊佐和子アナが、大原の三千院から150m奥まったの勝林院へ。
お堂の中央に安置されている本尊の阿弥陀如来坐像は「証拠の阿弥陀」と呼ばれるきれいな、仏様です。
法然は、念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できると説き、本尊が光を放ち、法然の主張が正しいと証明したのです

「蔵」の寺宝を全部出し調査 のため、魂抜きの儀式を行いました。
本殿
証拠の阿弥陀 はずれる箇所があり、モモの部分に3体の納入仏、 江戸時代、鎌倉時代、平安時代の像がありました。平安時代の像は、珍しく桧の白木造りで とても繊細できれいでした。

磯田先生は阿弥陀さんの胎内に、小型カメラとともに潜入 仏像の裏側から見て、江戸時代の修復の跡を確認しました。金色の仏像の裏 耳の穴があったり、見入ってしまいました。

そして須弥壇の下からは、古い涅槃図の掛け軸 は損傷が見られるが、縦4.5m 横3m と巨大で 150年ぶりの開帳でした。240年前の江戸時代の 金色に輝き穏やかに横たわるお釈迦様、多くの表情豊かな弟子 信者 動物が周りを囲んでいました。

足利義満の肖像画 天皇家の法事で声明のリードボーカル

北の蔵の2階、6畳ほどの広さには、多くの絵画の掛け軸がありました。
その中に 足利義満の法体姿の肖像画があり、豪華な顔料や金銀を使い書かれていた。
なぜかというと、1000年 秘曲を伝授されたものだけが許される声明の系譜図に、後白河法皇など天皇、有力な貴族、和漢朗詠集を編纂した公任らに交じり 義満の名が印されていた。
義満は金閣寺建立で知られるが、雅楽や能といった芸術にも秀でており、武家のみならず朝廷や貴族、寺社勢力をも束ね、頂点にのし上がることができた。
勝林院にあった『魚山叢書』に、1406年、天皇家の法事「御懺法講」(おせんぼうこう)が宮中で開かれ、北山殿(義満)は4人の大原の僧を伴い、武士として初めて声明を披露した。
しかも調声(リードボーカル)を務めたという。国家的な仏事を義満が取り仕切る姿をみて貴族たちも感服したと思われる。

明智光秀の安堵状・浅井長政の安堵状

南の蔵には古文書がたくさんあり、その中に明智光秀の安堵状があった。
安堵状には、天正元年 織田信長が入ってきた時、有力寺院の土地や権利を保障してあげる というものだった。

浅井長政の安堵状があり、これは姉川の戦いの5ヶ月後の元亀元年11月に書かれたもので花押は晩年のものと確認された。このことは、戦国時代の定説を覆す新発見!
通説では、長政が信長に大敗 近江に引き下がり 滅亡の一途をたどったとされていたが、実は 長政が、京都の大原を支配し、北陸からの米やサバの流通を押さえ、東に抜ければ、琵琶湖岸 堅田を押さえ、湖上ルートも止められた。六角に東を囲まれた 信長は比叡山を焼くほど 追い込まれていた と考えられる。

▽まとめ&感想

大原三千院の隣 勝林院は、声明の聖地であり 証拠の阿弥陀があります。
足利義満の豪華な肖像画があり、これは天皇家の法事で声明のリードボーカルを務め、権力を誇示したた証だった。
明智光秀の安堵状・浅井長政の安堵状があった。長政は大原を支配し 米の流通を止め織田信長を追い込んでいた。

たまたま、目に留まった 明智光秀・大原でした。
たまたま、街中を避けるために 大原三千院から滋賀県に廻って比叡山を参拝していました。
三千院の隣の勝林院 気がつきませんでした。今度ゆっくり 阿弥陀様見たいなと思います。