明智光秀は国盗り物語(司馬遼太郎)でどう書かれていたか▽ネタバレ感想

『国盗り物語』1、2巻が「斎藤道三編」で、3、4巻が「織田信長編」です。
明智光秀について、知りたかったので、 織田信長編を読んでみました。

昭和48年のNHK大河の原作です。平幹二朗(斎藤道三)、高橋英樹(信長)、近藤正臣(光秀)、松坂慶子(濃姫)らが、出演しています。再放送があれば、見たいですね。
司馬遼太郎が、光秀達をどう書いていたか、抜き出してみました。

斎藤道三は嫡出の娘を国持の大名にしかやれない⇒帰蝶は信長の元へ

天文18年(1549年/22歳)
帰蝶輿入れの時、光秀という聡明で秀麗な容貌を持った美濃の名族の子を道三が溺愛

天文22年(1553年/26歳 )
道三が、冨田の聖徳寺で信長と会見
やがて、おれの子等は、あのたわけ殿の門前に馬をつなぐことだろう
(軍門に降り、家来になる)
信長に、厚情を示す。新工夫の雑兵用の簡易具足を送った。

弘治2年(1556年/29歳)
斎藤道三とその嫡子・義龍(土岐 頼芸の実子)が争う「長良川の戦い」が起こり、道三は亡くなり、
義龍は明智城を攻撃し、光秀は越前国へ逃れた。
道三は、譲状を書き、美濃を信長にゆずった。

道三が、光安に言伝を頼んだ。
光秀は、ゆくゆくは、天下の軍を動かす器量がある。……その中で、大器量の者は、尾張の婿の信長と、我が甥の光秀しかない。……城を抜け、国外に走り、広く天下を歩き、見聞を広め、わしがなさんとしたところを継げと。」
「京には、わしの捨てた、お万阿(まあ)がいる。今は、嵯峨野の妙鴦(みょうおう)様と言えば、国歌舞伎などを庵に呼んで、興行させるなど、派手好きな尼様として知られている。訪ねよ。」

しばらくして、浪人になった、光秀はお万阿を訪ねた。お万阿の旦那様は、山崎屋庄九郎という油屋で、美濃にさし下り、時々京に戻っていた。いまに将軍になると言っていた。

荏胡麻(エゴマ)油

昭和46年発行の本なのに、今話題の、エゴマ油が出てきて、驚きました。
斎藤道三は、油商人で、大山崎神人という資格で、独占して、荏胡麻油を売ることから始まった。菜種油が出てきて、廃業。 荏胡麻油は 寺社の灯明用に使われた。

エゴマ油は血液をサラサラに!オメガ3脂肪酸を含んでいる。(こちらで紹介)


琵琶湖の西の山岳地帯を北に分け入っていた。
諸葛孔明のように、志士的業績を残したい。
その対象に足利将軍家があった。 お万阿 は近江の朽木谷と聞いていると教えてくれた。

近江の朽木谷には、近江源氏の一流の朽木家に、足利義輝細川藤孝ら5人の家来と身を寄せていた。

信長は、今川義元を討ち、光秀は、越前一乗谷の朝倉義景へ

永禄3年(1560年/33歳)
今川義元は、将軍に次ぐ名族で、天下の政治をしたいと思ってきた。
桶狭間の戦い 日本屈指の大大名だった駿河の今川義元を討ち取る。

光秀は、諸国の動静を探り、足利幕府の将軍の威権を回復するよう、志を説いていた。
美濃源氏の明智氏の出であり、田舎大名の家老に収まる気はない。

光秀は、清洲に立ち寄り信長を見た。
越前一乗谷の朝倉義景のもとへ
ここに、妻 槇と光安の子、弥平次光春が、預けていた、京の老僧が亡くなったので、やって来た。
加賀の坪坂伯耆(ほうき)が攻めてきたのを、撃退し、ようやく朝倉義景に、二百石で仕えられた。

細川藤孝と知り合い、足利義昭を奪還

信長は、少人数で、京や堺を見て回って、日本制覇の野望を持った。
将軍、足利義輝に細川藤孝の対応で、拝謁。

永禄4年(1561年/34歳) 美濃の斎藤義竜 病死、竜興(たつおき)が後継に。そこに信長が攻め込む。
朝倉家の連絡将校となり、京と一乗谷を往来。京の将軍家からの派遣者になっていった。

永禄8年(1565年/38歳) 松永久秀が、天守閣の有る、信貴山城築いた。
足利義輝が松永久秀により殺された一乗院の覚慶(後の足利義昭)を奪還、逃がし
光秀は、多羅尾四郎兵近衛の手助けを借り、甲賀の和田惟政のもとへ、

永禄10年(1567年/40歳) 稲葉山城の合戦 信長、美濃の斎藤龍興に勝利。美濃を支配下に置く。

永禄11年(1568年/41歳) 足利義昭を奉じた織田信長に従い、京へ入る

足利義昭の暗躍に手を焼き、追放

元亀元年(1570年/43歳) 浅井・朝倉軍との攻防に参陣。
光秀は、身分は将軍直参の身で、禄は織田家から受けている。
義昭は、浅井・朝倉家と密通し信長と和睦させたいという。
また、将軍家御料を増やしてと要求。藤孝が諫言するも、改めない。
義昭にとって、政治は遊びで、かつての寵童を、寵臣 上野中務少輔清信の婿養子に、官位ももらって、従五位下 大和守である。
清信は、義昭の指示で、武田信玄にも密書を送っている。
信長は、あだ名を付けることに絶妙の才があり、義昭を「小蕪」、秀吉には「禿ねずみ」、光秀には、「金柑頭(きんかんあたま)」と呼んでいる。金柑頭とは、頭のてっぺんがほとんど地肌を見せ、赤く艶めいて、その色といい、形といい金柑にそっくりであった。
信長は、小蕪殿がいかに食えぬ男か?あやしい。

元亀2年(1571年/44歳)
信長に命じられ「比叡山焼き討ち」を起こす。

光秀は、織田家の家中でも、鉄砲の扱いのうまさと、城攻めの法にかけては、日本一ではあるまいか。「ただ、多少身をかばう傾向がある。」と、細川忠興が岳父について、語っている。

信長にとって、光秀の頭を掴み砕きたいほどに、やりきれないのは、光秀が平俗きわまりない、次元の住人のくせに、言葉を装飾し、容儀にもったいを付け、文字を誇りに、賢らにも自分を説きたがるところである。
近江・志賀郡を拝領。坂本城の築城を始める。

天正元年(1573年/46歳)
信長に従い、義昭を攻める。 室町幕府は滅んだ。
信長は、光秀に、旧主、朝倉義景 の頭蓋骨を杯にして、酒を飲ませた。信長には狂気がある

信長着々と天下統一へ、光秀は信長の狂気に心を滅入らす


室町幕府を倒した以上、新しい幕府は開けない。平家を称したので、征夷大将軍の資格がない。
天皇家の、公卿になった。 天皇家の神聖を背景に日本統一を目指した。
信長は、従三位に、光秀らも従五位上をもらい、光秀は惟任日向守源光秀(これとうひゅうがのかみ)、秀吉は筑前守に。日本人のおなまえでもありました。(こちらから 秀吉・光秀のお名前戦略)

天正3年(1575年/48歳)
長篠の戦いで武田勝頼に勝利
織田家の威武、光秀の徳望、藤孝の家柄で、丹波攻略

光秀の、槍神の一人、家老の斎藤利三(道三と似た名前、こちらが美濃斎藤の正札)がおり、稲葉一鉄の娘をもらっていた。
この利三の末娘が、後の、家光の乳母 春日局(福)

織田家の将領の荒木摂津守村重、一僕の境涯から取り立てられて、夢のような出世を遂げていた。
この荒木村重が謀反を起こし、中国の毛利氏に寝返った。
信長は、荒木村重の族種を皆殺しにした。信長の狂気に心を滅入らせた。
この荒木家の嫡男新五郎村次に光秀の娘が嫁いでいて、籠城時に離別した。
この娘を、ずっと側にいた、光春に嫁がせた。

正4年(1576年/49歳)
信長から命じられ、石山本願寺攻めに従軍するが、発病のため坂本へ帰城。

天正5年(1577年/50歳)
各地の攻防に参陣(紀伊、大和)。 この頃、亀山城を築城を始める。

天正6年(1578年/51歳) 娘・玉(後のガラシャ)を細川忠興に嫁がせる。

天正7年(1578年/52歳)
丹波・丹後を平定。 落城した横山城を改築し、福知山城を築城を始める。

天正8年(1579年/53歳)
信長は、近畿をくまなく平定。
信長は、諸将は道具にすぎない。不要になれば、捨てられる。

光秀、信長より格上の源氏の正統な血筋だ

長年戦っていた、武田についていた信濃が信長の元に馳せあつまろうとしていた。
光秀「我らも多年山野に起き伏し知恵を絞り、勇を振るった、骨折りの甲斐、いまこそあったというものよ。」
信長「おのれが、いつ、どこにて骨を折り、武辺を働いたか。いえるなら、言え。骨を折ったのは、誰あろう、このおれのことぞ。」高欄の欄干にぐわっと、その頭を打ち付け、さらに話しては、打ち続けた。
激レアさん打ち上げなのに廊下でボコボコ事件と紹介された。
耐えられぬのは、衆人の中で、これほどの目に遭わされる、屈辱である。

信長の上使「その方に、出雲・石見の二国を与える。しかしながら、いまの近江・丹波は召し上げる。」
与える土地は、毛利の領地であり、斬り取れにせよ。無禄になった
一介の牢人の分際から引き立てられ、仕官後10年そこそこで、五十余万石の大大名になった。
その代償として、道具として、感情を要求せず我慢し続けなければならない。
参籠した。
「時は今、天(あめ)が下しる五月哉」
土岐は今、信長よりも、格上だと光秀はアピール。
日本人のおなまえっ、放送されました。

天正10年(1582年/55歳) 本能寺の変を起こす。 山崎の戦いで敗死。

出来れば、道三山城入道のごとくありたい。
丹後の細川藤孝や、大和の筒井順慶に手紙を書かなかった。
亀山城から、斎藤利三、明智弥平次と共に、西に行かず、東に向かった。
「敵は本能寺にあり」
信長は、自害し。火災により、死体を含めて、灰にした。
細川藤孝は、子の忠興名義で、丹後十二万石を拝領。幽斎という号を用いた。
あの男は、前後の見境も無く激情のあまり、信長を殺した。それだけのことだ。天下を保てる男ではない。

光秀は、人気が無かった。川蜷(かわにな)のように黙っています。
思い切った金銀配りをした。
浮世での望みを絶ち始めている。むしろ望みが絶え、肉体が滅んだ後の人気を後世に買おうとしていた。
羽柴秀吉の猛進はすばらしかった。秀吉が勝つという計算、たれの目にもは、明らかだった。自然人は勝つ方に参加し、その人数は膨れ上がった。
順慶さえ、来なかった。光秀は、「望みは、絶えたか。」
不意に、光秀の最後が来た。

▽まとめ&感想

歴史小説は、解説本と違い、話がつながって、生き生きと活動し、面白いです。
老眼で、つらいけど、司馬遼太郎先生は、はさすがです。
激レアさん日本人のおなまえっに出ていたエピソートが書かれていました。

斎藤道三は嫡出の娘を国持の大名にしかやれないと、帰蝶は信長の元へ
道三が「やがて、おれの子等は、あのたわけ殿の門前に馬をつなぐことだろう」と予言していた。
信長は、今川義元を討ち、光秀は、越前一乗谷の朝倉義景へ。
そして、一介の牢人の分際から引き立てられ、仕官後10年そこそこで、五十余万石の大大名になった。光秀は、信長の狂気に悩まされ、追い詰められていった。
幽斎は「あの男は、前後の見境も無く激情のあまり、信長を殺した。それだけのことだ。天下を保てる男ではない」