NHK 2021.1.7放送
ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!「麒麟がくる もうすぐ本能寺の変SP」
もうすぐクライマックス・本能寺の変を迎える大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」とコラボ。駒役の門脇麦と足利義昭役の滝藤賢一をスタジオに招き、明智光秀をはじめとする登場人物たちの意外なおなまえ秘話に迫る。「明智光秀は明智じゃなかった!?」「足利将軍のおなまえプレゼント作戦」「戦国のおなまえスーパースター」「明智光秀はおなまえを変えて生きていた!?」など、大河ドラマを100倍楽しめるスペシャル回!
NHK HP より
明智光秀は”明智”でなく 惟任日向守光秀 と信長に変えられ屈辱?
豊臣秀吉が明智光秀を討伐した時の史料「惟任(これとう)退治記」に
惟任日向守光秀とある。今まで明智だと思っていた光秀が、本当は「惟任日向守秀吉」だった?
静岡大学名誉教授の小和田哲男さんよると、
本能寺の変の7年前の1575年、織田信長は 家臣たちの名字を改めたいと朝廷に願い出て、許可を得ました。
信長は明智の名字を「惟任(これとう)」と改め、また今の宮崎周辺にちなんだ「日向守」という官職を名乗らせた。
当時、信長は光秀以外の家臣にも 九州にゆかりのあるおなまえを付けていた。
「惟住」「別喜」「原田」
小和田さんは、同時期に羽柴秀吉が 羽柴筑前守秀吉という今の福岡周辺に ちなんだ官職を名乗らせたことに注目している。
これは信長が九州・島津氏と 将来戦うことになると予想。
秀吉と光秀を九州攻めの総大将にして攻めていく つもりだった という 小和田さんの考えでした。
名字研究家 森岡浩さんは、信長が「惟任」を与えたことになっているが、光秀の時代以前に「惟任」は史料になく、江戸時代に書かれたもの。
戦国時代 以前にあった「惟宗」は島津氏・宋氏のご先祖様とも言われている。
信長が、「惟宗」を参考に「惟任」という 九州っぽいお名前を創作したのではないか。
歴史家 乃至(ないし)政彦さん
注目したのは お名前を変えた直後 天正3年の署名 りっしん偏 でなく 糸偏の別の漢字 維 だった。
「信長公記」にも 維任 (天正3年~10年 本能寺の変直前まで)とあり、誤字ではない。
維任(いとう)と読んだのでは?
伊東氏、戦国時代の九州に実在し、日向国で勢力を伸ばしていた。信長は、これを参考に「維任」を創作して光秀に与えた。明らかにパチもん、光秀は字を間違えたフリをして「惟任」に変えたのでは。
小和田さんは、光秀が 美濃源氏、土岐氏の分かれ のプライドやアイデンティティがあったのに 変えられ、信長の無茶ぶりと受けとった可能性がある。
信長の名前のセンス 子供達に 奇妙丸・茶筅丸・大洞・小洞・人
足利将軍のおなまえプレゼント作戦は 戦国大名をしっかり味方に
室町将軍 15代将軍 足利義昭(滝藤賢一 演) 信長と共に上洛を果たしますが 後に決別、各地の大名と共に信長と対立します。
奉公衆に細川藤孝・三淵藤英 共に 藤があるが これが おなまえプレゼントの証
義昭の兄 13代将軍 足利義輝(向井理 演)の元の名前 足利義藤 から1字取って与えていた。
東洋大学准教授 木下聡さんによると、1字もらう事は 名誉なことで、周囲の友好的な所でも 敵対しているところでも自慢でき、ステイタスシンボルだった。
由来は 武家社会の成人の儀式にあり、親代わりの人が烏帽子をかぶせ 名前の一字を与える風習があった。義昭の父 義春や義輝(義藤)などが、名前の一字を積極的に与えた。
将軍からすれば、「お前のこと信任している」、「どこかに逃亡するなよ」と主従関係をつなぎ止めた。
おなまえプレゼント 全国的に行い、地方の戦国大名にも。
今川義元・朝倉義景・
戦国大名は、現代の会社の肩書きのように 権威ある将軍のお名前をもらい 自分を偉く見せた。
信長包囲網に参加した将軍、毛利輝元・朝倉義景・上杉輝虎(謙信)・武田晴信(信玄)は確かにもらっていました。自分のとことに つなぎ止める くさびのひとつになっていた。
歴代のおなまえプレゼント作戦は 義昭の身の安全に繋がった。
信長もおなまえプレゼント作戦を行っていた。
「長宗我部元親書状」で光秀の家臣 石谷頼辰宛の手紙に 、信御字拝領 と記され 信長の字をいただいた御礼が書いてあった。
光秀が橋渡しをして、四国の大名 長宗我部元親の息子に 信親と名を与え、信長と 長宗我部は同盟関係を結んだ。
しかし信長は方針転換、長宗我部を攻撃して、光秀の面目丸つぶれになった。
足利義昭の父 兄が名前の一字を与えたのは、そのほか、赤松義祐・大友義鎮・伊東義祐・島津義久・相良義陽・有馬義貞・宗義調・尼子義久・六角義賢・伊達輝宗(政宗父)がいた。
これにはランク付けがあり、財政がひっ迫した 幕府の苦し紛れの策でもありました。
義 | 足利将軍の通字なので格が上 100貫(約1000万円)+太刀・馬 |
輝 | 30貫(約300万円)+太刀・馬 |
晴 | 30貫(約300万円)+太刀・馬 |
戦国一のおなまえスーパースター 近衛家
前関白の近衛前久は義昭の従兄弟で、藤原家の子孫で5つの位の高い公家、「五摂家」の筆頭でした。
天皇家を除くと、日本一の名家です。
足利義晴より近衛晴嗣と名をもらったのに、返上 前久と名を改めた。
将軍家の実体がわかって、幻滅した。京都の治安さえ維持できない、実力のない将軍ではしょうがないと名を捨てて、戦国大名達と積極的に関わっていた。
本能寺の変で、光秀の軍勢が、前久の屋敷より 信長の息子を攻撃したので事件の黒幕の疑いをかけられます。秀吉の追及から逃れ 前久は京を脱出、匿ったのは徳川家康。
それは 前久が、家康に「お名前」の貸しがあった。桶狭間の戦いで今川義元を討って 三河国の統一を果たした家康。当時 松平であったので、今川の上をいきたいから徳川、徳川三河守を名乗りたいと、天皇に願い出たが断られた。
家康は前久に相談、前久は藤原氏一門の総帥なので 徳川三河守を名乗ることが出来た。
明智光秀は 名前を変えて 生きていた!?
本能寺の後、明智光秀は農民に討たれたと伝わるが、実はお名前を変え生き延びたという伝説があります。
その1 四国の長宗我部を頼った 明智一族 明星サマに!?
愛媛県 新居浜市 慈眼寺には、明智家ゆかりの 桔梗の欄間が本堂にあり、本能寺の変で敗れた明智一族が長宗我部を頼って四国に逃げ延びてきた。
桔梗の欄間のある部屋、明智一族の寄附で明智の間があったと伝えられている。
明智の分家は、明るい「星」と明智より 明星サマと名を変えていた。
実際の明星家を訪ねると、明智家の桔梗紋の紋付きがあった。10年ほど前つながりに気付いた豊茂さん、一番古いお墓にも桔梗紋がありました。
身を隠した明智一族 星のようにふたたび輝くために 明星サマに!?
その2 光秀本人も美濃に生き延び 荒深サマが墓を守る
こちらは 光秀出生地の1つ 岐阜県山県市 中洞白山神社。
光秀の産湯を汲んだとされる 井戸が残されています。
神社を管理する 荒深勝治さん・荒深誠市さんが驚きの伝説を語ってくれた。
ここは光秀の生まれ故郷、山崎の戦いから 逃げ帰って ここにたどり着いた。
荒深は光秀公の子孫といわれる。
逃げ帰って、荒深と名乗り生き延びた。
荒深は「荒木山城守」からとった。
本能寺の変から11日後、自害しようとした光秀を遮ったのは、側近 荒木山城守、身代わりになった。
光秀と荒木山城守は入れ替わり、荒木山城守になりすました光秀は 美濃国に生還した。
荒木山城守への深い恩義から 「荒深小五郎」へと光秀は改名。
そして 1600年の 関ヶ原の戦いで 荒深小五郎 こと光秀は 憎き豊臣方と一戦を交えるため出陣の途中志半ばで生涯を終えたと伝わっている。
中洞白山神社に墓があります。
荒深家 残っているのは この地域で 20軒前後で、墓守をしている。
▽まとめ&感想
ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!「麒麟がくる もうすぐ本能寺の変SP」
明智光秀は”明智”でなく 惟任日向守光秀 と信長に変えられ屈辱?
足利将軍のおなまえプレゼント作戦は 戦国大名をしっかり味方に
戦国一のおなまえスーパースター 近衛家。
明智光秀は 名前を荒深小五郎に変え美濃で生きていた!?
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なんか 戦国大名に 義 とか 輝 が多い気がしていたけれど、まさかの足利将軍家からの、おなまえプレゼント作戦だったとは 驚きです。
光秀が、「荒深小五郎」として 美濃で生き延びていた、伝説があるのですね。
前に読んだ 早乙女貢「明智光秀」で山崎の合戦から比叡山に逃れ、天海僧正になり 春日局・家康と繋がっていた。詳しくは もう一度 読み返します。