太平記 21話 「京都攻略」▽あらすじメモ▽新田鎌倉攻め

高氏 六波羅めざし進軍・大勝利

元弘3(1333)年5月7日、足利高氏(真田広之)は京・六波羅の北軍氏に反旗を翻した。足利軍は朝のうちに嵯峨野から大宮二条辺りまで進撃していた。高氏の軍に負けじと播磨の豪族 赤松則村、後醍醐帝の側近 千種忠顕がそれぞれ、六波羅目指して進撃した。
一方六波羅の浮上軍は、足利尊氏の謀叛に天地がひっくり返る騒ぎとなった。六波羅にはこの数ヶ月の戦乱のため、光厳天皇を始め、朝廷の公卿たちが避難していたが、皆、腰をぬかさんばかりだった。
六波羅探題北方 北条仲時は仮皇居に参内して、立ち退きを勧めたが、他に行くところはあるまいとうろたえるが、そこへ火矢が飛んできて、パニックに。

その日の夕刻には大勢が決していた。数万といわれた六波羅軍は霧散した。
六波羅が燃える赤い炎が上がるが、高氏は「戦はあとが大事ぞ」と言い、一番乗りは赤松らに任せ、むやみに争って死ぬな、家に火を付けるなと指示を出した。

触れ回るため直義らが去り、高氏は一人残され、安藤三郎と名乗った武士が「裏切り者!」と叫んで斬り付けてきた。馬上から突き落とされたが、返り討ちにする。
高師直(柄本明)が駆けつけ、「勝ちでございます。残るは鎌倉じゃ!」
高氏はしばし呆然としていたが、「あとは鎌倉じゃ。新田義貞殿じゃ…!」

新田義貞 幕府の徴税使を斬り 、鎌倉攻め開始

一方、同じ5月7日の上野の新田義貞の館。新田軍は一門をかき集めても150騎ばかりしか兵がなく、挙兵できずにいた。「これで北条と戦うたら天下の笑い者じゃ!」と弟の脇屋義助(石原良純)は怒る。
岩松経家(赤塚真人)は、「要は、越後の新田の領地からいくら出てくるか?」
義助は、「一族に声をかけたが、返事はまだない。」
義貞(根津甚八)は「足利殿と約束をしたのじゃ。戦になろうがなるまいが、鎌倉を攻めてみせると…。」と語気を荒らげる。

岩松経家が足利家が我々に、千寿王を預けるといっている。そうすれば東国の足利勢が加わり、5000騎は固い、と励ますが、義貞は「足利殿の助けで戦はしたくない」と漏らす。
岩松は「北条を倒すには、鎌倉と京を同時に攻めねばならぬ。…… 新田が立ったと天下に知らしめることぞ」とさらにせかすが、「たったの150騎でか…」と義貞はまだ迷いを見せていた。

そこへ幕府の徴税使として黒沼彦四郎・明石出雲介ら50人ほど が新田庄にやってきた。
「銭6万貫を5日のうちに 差し出せ」という過酷なものであった。前にも収めており、とても無理だと義助が訴えるが、黒沼らは、直接領内の家々から徴収すると言い出し、まず新田館の倉を検分する、と倉の方へ向かった。
 黒沼らが新田の倉を開けさせようとしていると、義貞らが駆けつけるが、仮病であったかといわれ、黒沼を斬ってしまう。
5月8日午前三時頃、義貞は、生品明神の境内に皆を集め、夜陰に紛れて国府を襲うと宣言。「目指すは鎌倉ぞ!我らに八幡大菩薩のご加護を!行くぞ」と義貞が叫ぶと、一同、鬨の声を上げる。

動きだした義貞は早かった。新田軍は、国府を夜襲し、長崎孫四郎左衛門の軍を一撃で破った。

鎌倉は新田挙兵・六波羅陥落で大混乱

新田挙兵の知らせは、鎌倉に届いた。しかし情報は錯綜していた。
長崎円喜(フランキー堺)は「数万?あの新田が?みな頭がどうかしておるのではないか?」「にっくき足利、近江の佐々木、こたびの新田…みな源氏ぞ」と他の源氏の造反を懸念する。
金沢貞顕(児玉清)は「言わぬ事ではない…足利を外に出すなと申したのじゃ。野に放った虎だわ!」とわめく。
幕府軍の京・鎌倉での対応を、あたふたと相談しようしているところに、六波羅は去る9日に謀叛軍のお手に落ち、ことごとく討ち滅ぼされた、と手負いの武者が伝えた。

高氏 六波羅に足利家独自の奉行所を設置

5月9日 足利軍を中心とする反乱軍に制圧された。百数十年に及ぶ鎌倉幕府の支配から、僅か2日の戦いで解放されたのである。

高氏は勝利に浮かれる他の反乱軍を尻目に、混乱した都の再建や、河内 千早城の北条軍攻略のため、六波羅に足利家独自の奉行所を設置した。
伯耆の国より、帝を迎える日まで、足利高氏が司ると宣言した。

楠木正成・後醍醐帝

六波羅陥落の知らせは、4ヶ月の籠城で生死の境にいた千早城に、数日後に届いた。
知らせを聞いた楠木正成(武田鉄矢)は「都が落ちた?足利殿が立たれたのか?」実感がわいてきた。
六波羅滅亡を知って、千早攻め2万の北条軍を恐怖に陥れ、慌てふためいて逃げ出た。
正成は北条軍を追撃する。 

知らせは、船上山の後醍醐帝(片岡孝夫)のもとにも届いた。報告する名和長年(小松方正)は護良親王、千種忠顕、名和一族の活躍を述べるが、後醍醐は「それだけではあるまい。足利が立たねば、こうも早く六波羅は落ちまい」と言い、「朕は都へ帰るぞ!」と立ち上がった。

新田義貞 鎌倉攻め 千寿王合流

上野を出発した新田軍は、破竹の勢いで鎌倉を目指していた。挙兵した翌日には、利根川を超え、2日後には武蔵国 将軍沢を越え、その日のうちに笛吹峠を越え、11日には 女景ヶ原 今の川越市西北部まで達していた。次々と味方が合流してきて、越後の新田一族が追いつき、15騎の軍勢が、4000騎の軍団になっていた。
そして5月11日の昼過ぎ、一色右馬介に連れられて高氏の子・千寿王が新田軍に合流した。
義貞は幼い千寿王に「この新田は父上の足利殿とは仲の良い友じゃ」と 語りかけ、菓子を自ら千寿王に食べさ せてやるのだった。
千寿王が合流し、関東の各地から多くの兵が、千寿王をいただく「足利の旗」のもとに馳せ参じた
このことが、後に義貞を深く傷つけることになる。
南下する新田軍と、北上する幕府軍の最初の戦は、所沢の西北 小手指ヶ原で行われた。
北条の赤い旗が次々と倒れ込んでくる。

鎌倉の高時 心情を吐露し、守時は最期の別れを告げ鎌倉の守りに

北条高時邸 女達の泣き声が聞こえてくる。六波羅の最期の様子の知らせが届き、家族の者がみな討ち死にしたか、自害したことを嘆き悲しんでいた。
北条高時(片岡鶴太郎)は「死んだのか。仕方あるまい。人間がみなどうかしてしまったのだ。」とつぶやき、酒に手を出す。
そこへ貞顕が入ってきて、小手指ヶ原の敗戦と、新田軍の増加と襲来をを告げる。
覚海尼(沢たまき)がその 理由を問うと、貞顕は寝返りしたもの増加と、六波羅陥落の知らせで士気をくじいたと答えた。
高時は「この高時は戦が嫌 い。足利や新田は戦が好きなのだ。戦嫌いが、戦好きに勝てるわけがない」
覚海尼が「戦は政のうち」と励ます。
高時は「もはや政にも疲れたのじゃ…」と鼓をいじり出す。
そして鼓を叩きながら、父・貞時が公平を重んじたこと、母の覚海尼が「公平」楯に高時を執権につかせたことを語った。「それでこの高時は執権となり、くたくたになり、生涯名執権の父上に頭が上がらず、母上に頭が上がらず…はてさて、公平とは疲れるものよのう…!」鼓を力を込めてねじりあげる。

その時「太守!」と叫ぶ赤橋守時(勝野洋)の声が聞こえてきた。
千寿王を逃がしたことで謹慎の身となっている守時に、覚海尼は「ようもおめおめと、はよう追い払え!」と声を上げる。しかしなおも「太守!」と呼ぶ守時の声に、高時は「うん」と答えて立ち上がった。
庭先に来た守時は鎧姿で「こたびのこと、面目ございませぬ」と平伏し、新田軍から鎌倉を守るため出陣したいと申し出る。
「なりませぬ!赤橋は寝返り者ぞ!」と円喜が駆けつけてくるが、高時は「そうは思わん。寝返り者ならわざわざ、会いには来ぬ」と言い返す。
高時は守時に近づき、「赤橋…よくたずねて来た。……ともに鎌倉は祖先の地。御辺もわしも他に逃げていく国はない。この鎌倉を兵や馬で踏みにじる者あらば、戦いたすしかあるまい。行くがよい。」
守時は感謝して、去っていく。「太守!」と責めるように言う円喜ら。
「赤橋め、永の別れに参ったのじゃ。生きて帰らぬつもりぞ…」
 守時は馬に跨り、「赤橋守時、鎌倉を死守つかまつり、北条家積年のご恩に報いん!者ども続け」と、出撃していった。

新田義貞の軍は驚異的な早さで南下していった。久米川 府中・分倍河原、関戸で合戦に及び、次々と北条軍を撃破し、鎌倉街道の3つの道から鎌倉に迫った。
5月18日、赤橋守時は大船方面から押し寄せる新田軍を洲崎で迎え撃った。守時は矢を撃たず突進する決死の戦法をとった。
寺に潜んでいた登子(沢口靖子)のもとへ、侍女が千寿王の無事と、守時が洲崎での苦戦していることを伝えた。「兄上…」と登子は祈った。

▽まとめ&感想

高氏 六波羅めざし進軍・大勝利。新田義貞 幕府の徴税使を斬り 、鎌倉攻め開始。
鎌倉は新田挙兵・六波羅陥落で大混乱。高氏 六波羅に足利家独自の奉行所を設置。
新田義貞 鎌倉攻め 千寿王合流 快進撃。
鎌倉の高時 心情を吐露し、守時は最期の別れを告げ鎌倉の守りに

軍記物語だから、実際にあった話になりますよね。
687年前、 たった2日で六波羅探題が陥落。
11日ばかりで、鎌倉の本隊まで攻められなくなってしまうなんて、とても考えられない事です。
片岡鶴太郎の高時、唖然とすることばかりでしたが、しっかり自分を見ていました。