大河 太平記 41話「帝崩御」★尊氏 帝弔い 道誉 流罪に ▽ あらすじメモ

後醍醐崩御 のちの後村上帝に譲位

暦応2年(延元4・1339)8月15日
吉野朝 御座
後醍醐帝(片岡孝夫)が重い病の床に伏し、崩御の時が迫っていた。
朦朧と「西廂(にしひさし)に鞠を忘れた…」とつぶやく。
かたわらの阿野廉子(原田美枝子) が「ここは吉野に ございます。西廂はございません」と言う。
後醍醐は「よう歩いたのう。笠置、船上山、叡山。みなに苦労をかけた とりわけ、そなたには。千種も、顕家も、あまたの者を死なせてしもうた。やむをえん 世を正し 見事な王土を作るためじゃ。そう思うてきたが、未だに王土は見えぬ」 と苦しい息で言う。

後醍醐は側近の公家達を側へ寄せるよう命じ、支えられながら体を起こした。
御醍醐は、廉子に差し出された法華経と御剣を両手に持ち「皆に命じおく。朕亡きあと義良(のりよし)がもと、天下を静むべし。朝敵足利をすみやかに討ち、四海を太平ならしめよ。これ、朕の妄念なり。これ思うゆえ、朕は吉野の苔にこの身を埋めるとも、魂魄(こんぱく)常に都の天を望まんと思う。よいか!」
言い終えた後醍醐は崩れるように倒れた。
廉子は義良親王の肩に手を置き 義良は帝に深々と頭を下げた。

翌8月16日早朝 後醍醐天皇は崩御された。その帝位を継いだのは義良親王、すなわち 後村上帝である。

足利尊氏 後醍醐の弔いを行うことで 揉める

足利尊氏邸
吉野の異変はいち早く 都の足利家に伝えられた。 足利尊氏(真田広之)はただちに家臣に喪に服するよう命じ、幕府の行事もすべて中止した。
自らも仏間に籠もって後醍醐の冥福を祈っていた。
その悲嘆ぶりは北朝の公家、幕府の武家達をとまどわせるほどであった。

足利直義邸
桃井直常(高橋悦史) 細川顕氏(森次晃嗣)が「先帝の弔い事を この都で幕府を挙げて行うとは正気の沙汰とは思えませぬ。」
「我らがよって立つのは今の帝であり 持明院の公家方でございまする」
「敵の大将が死んで、何故こちらが嘆かねばならぬ?」と嘆く
直義も「兄上はご自分の感情でしかお動きにならぬ。政を行う我らの身になってもらいたい」
直冬(筒井道隆)もこの様子を黙って見ていた。
 
足利尊氏邸
清子(藤村志保) が訪ねてきて、登子(沢口靖子)から寺への寄進を受けていた。
清子は 尊氏が後醍醐の菩提を弔うために寺を建て、大きな法事を行うつもりで、世上では 「先帝をあまりに立てれば朝廷も面白かるまい。さすれば幕府の政にも何かと波風が立とうよ」と案ずる者がいる と不安を口にする。
登子は、「それは三条坊門の直義殿の館で申されてることではございませんか。」
清子は都大路で小耳に挟んだと言うが、登子は清子が 直冬に会うため 連日直義邸へ通っていると 言い立てる。

そこへ参内の準備を終えた尊氏が現れ、登子は清子の言う「世上の噂」を尊氏に伝える。
清子の様子から尊氏は「世上の噂は大事に聞かねばならぬ」と母に礼を言い、登子に清子から「噂」を 良く聞くよう命じて、参内に出かけた。

光厳上皇に弔いごと許される

内裏
尊氏直義を伴って参内し、光厳上皇に拝謁した。
大納言 勧修寺経顕(草薙幸二郎)が、朝廷に弓を引いた後醍醐のために寺を建立し、幕府を挙げて法事を行うことについて尊氏に仔細を賜りたいと問いただした。
光厳上皇に「思うところを申すがよい」と言葉をいただいた。
尊氏は「先帝をお恨み申したことはございませぬ」 と語りだした。
二十歳の時に初めて後醍醐の姿を見て これほど気高く、英明なるお方がこの世にいられると胸が震えた。乱れた世に望みを失った自分は勇気を与えられ、あれが自分の出発であった。
そのお方に敵と名指しされても、いつか尊氏の思い 分かってもらえるものと思って今日まで戦ってきた。世を正し美しき都をつくらんとの思いは上皇も先帝も同じです。
「尊氏今日あるは先帝のおかげでござりまする。この都で弔いごとを いたしとうござりまする」と光厳上皇に平伏した。

光厳は微笑み、「将軍 その儀許す」 と言った。

退出しながら直義は 光厳の言葉は尊氏を恐れてのことかもしれない、また後醍醐が死んだことで各地の南朝方が衰えるだろうと語る。
しかし尊氏は「こたびの先帝崩御で 我らは戦を終える手だてを失うたのじゃ。もはや南朝勢力に戦いをやめよと命を下せる者がいなくなってしまった。光厳では後醍醐に遠く及ばず、この戦いは船頭を失った船のようなもの、世は乱れに乱れるだろう。 それゆえ弔うのじゃ。我らも先帝と同じ思いであったと、戦をやめよ、と呼びかけるのじゃ。さもなくば我らは生涯戦うことになろうぞ」

南朝方 激しく抵抗

尊氏の不安は的中した。
信濃では北条高時の息子 時行が再び挙兵し、常陸では北畠親房(近藤正臣)の軍が反撃の火の手を上げた。
さらに 越前 府中では新田義貞の弟 脇屋義助が激しく抵抗した。
それらは 帝と言う大きな軸を失った南朝の必死のあがきだった。もはや南朝方を制御するものはいなかった。戦は諸国に飛び火して 泥沼化し いつ果てるともない様相を示した。

足利幕府はこれらを力でねじ伏せて行き、中でも 佐々木道誉、高師直 ・師泰兄弟、 土岐頼遠などの活躍はめざましく、一躍都でも のし上がるようになった。

佐々木道誉 妙法院を焼き 流罪に 高兄弟 領地を奪い 尊氏に叱られる

東山・妙法院
佐々木道誉(陣内孝則)が、天台座主 亮性親王がいる妙法院の庭の枝を 通りがかりに折り取ってしまったのだ。飛び出してきた妙法院の僧兵たちと 道誉の家臣達と斬り合いになり、松明を寺の中へと投げ込み 火を放った。これが都を震わす事件となった。

幕府 評定所
朝廷の抗議を受けて道誉の身柄を押さえた。
尊氏は戦功のある道誉を 捕らえたことを怒るが、直義は朝廷が道誉の首をはね 差し出せときつい御命でござると伝えた。
また高兄弟が戦の度に 兵糧米の徴収と称して公家・寺社の田畑を掠め取っており、これにも朝廷が怒っていると告げ、幕府が公家や寺社とうまくやっていかねばならぬため、評定方は判官殿を許すわけにはいかないと尊氏に言った。
そこへ高師直(柄本明) 高師泰(塩見三省)の兄弟が現れ、尊氏は公家・寺社の領地を奪っていることを叱る。

佐々木道誉亭
その夜、尊氏は高師直を連れ 幕府の奉行に見張られている 道誉を訪れた。
道誉は酒を飲んで歌など歌っている。
尊氏が「情けない とは思われぬか」言う。、
道誉は「情けない。まことにのう。幕府のために戦うてきて、挙げ句の果てがこの扱いよ」と笑う。
尊氏が「なぜ妙法院に火までつけた?相手が悪い」と問う
道誉は「わからぬ。体の虫が納まり返った寺や、天台座主などに 火をつけてやれと言った」と酒をあおった。

道誉は 「ハーハッハッハー 。わしは何のために戦うておるのか?朝廷のためか、御辺の御舎弟が行うておる幕府の政のためか?それともその政で守られておる荘園領主どものためか?」
道誉は自分や師直たちの軍が強いのは、北条の世では 御家人にもなれなかった武士達をとりたて、彼らに恩賞・領地を与えて 出世できると思わせているからだと言う。
フッ ハッハッハー 。 大御所 何故 御舎弟に幕府を任せた。政を渡した! 御舎弟は古い 上しか見ていないと激しく批判する。
道誉は「御辺が政を行うのじゃ!御舎弟から全て奪い返すのじゃ!先帝はもはやおかくれになった。
このさき世の中をまとめられるのは御辺しかおらぬ!」 と叫ぶ。

そして「さて言うべきことは言うた。これでいつ首を切られても思い残すことはないが、死なぬに越したことはない」と朝廷にとりなしてくれるよう尊氏に手を合わせて頼むのだった

高師直亭
尊氏に叱責を受けた師泰は鬱憤を師直に向けていた。
師直は冷静に「足利宗家を支えているのは執事のそのれがしや兄上だ、殿も認めておられる」と慰め、御舎弟殿を追い払えば、評定所の頭の古い面々をどう始末すればよいのだと師泰に言う。

師直は奥に下がったのは、家臣たちが 公家の娘・二条の君 (森口瑤子)を連れてきたからだった。
師直が家臣達を下がらせると、二条の君は上に羽織っていた単衣を脱いた。師直はそんな彼女に襲いかかっていく。
このころ 都の名高い武将達が 力ずくで高貴な公家の娘を側室とした。高師直もその一人だった。

足利尊氏邸
月夜の縁側で尊氏は登子に「変わってしもうた。外ばかり見ておるうちに 中が変わってしもうた。わしはどこかで大きな間違いをしでかしたのやもしれぬ。足利党は何かが狂い始めておる」 告げる。
登子は「殿が道をお示しになれば、みな殿についていきまする。ご案じなさいますな」と慰める。

二ヶ月後、道誉は死罪一等を減じられ上総国への流罪に処せられた。
道誉は輿に乗せられ、京をあとにした。

これで万事収まるかに見えた。だが この後 幕府を揺るがす 大事件が待っていた。

▽まとめ&感想

後醍醐崩御 のちの後村上帝に譲位。
足利尊氏は後醍醐の弔いを行うことで評定方と揉める。
光厳上皇に弔い事許される。弔うことで南朝方に戦を止めよと呼びかるためだった。
南朝方 激しく抵抗。佐々木道誉 妙法院に火を放ち流罪に 高兄弟 領地を奪い尊氏に叱られる。

——————————————————
後醍醐帝も亡くなり、落着すると思いましたが、また色々出てきました。
尊氏が後醍醐帝の菩提を弔うために天龍寺を建てた。
次は、兄弟仲違いするのでしょうか?