太平記 35話「大逆転」▽あらすじメモ★尊氏 鎌倉 箱根 京 摂津 九州で院宣

尊氏出陣 脇屋義助軍 全滅 道誉寝返り 足利軍大勝

駿河国 竹之下
脇屋義助の陣
鎌倉を出陣した足利尊氏(真田広之)の軍が夜間ひそかに山中を進み、脇屋義助(石原良純)の陣を見下ろしていた。尊氏は一色右馬介(大地康雄)に「総勢7000ほどか? 冷えるのう 右馬介、飯は食うたか。次の飯は昼頃かのう。」そして尊氏は 攻撃開始の合図を送った。

僅かな手勢を率いて鎌倉を出た尊氏は、新田義貞の搦め手に廻り込み 脇屋義助の軍に奇襲をかけた

山を駆け下り、尊氏の合図で火矢が一斉に放たれ、ぐっすり寝込んでいた脇屋義助の兵を襲った。

新田義貞の陣 
異変は箱根で戦っていた新田義貞(根津甚八)の陣に伝えられた。
「御舎弟殿は、宮と三島口へ落ち行かれたが、他の公家達は 行方も知らず、竹之下の陣は全滅でございまする!」
「敵は、たれぞ?」との義貞の問いに伝令は「足利尊氏にござりまする!」と答えた。

新田軍・佐々木道誉の陣 
知らせは新田軍に加わっていた佐々木道誉(陣内孝則)にも伝えられた。
「足利尊氏の軍が、御舎弟どのを襲うたぞ!方々、ご油断めさるな!」
これを聞いた道誉は、太刀を抜き、「佐々木判官、思うところあり。寝返り御免!

佐々木道誉も駿河の戦いで新田軍に下り、足利を裏切ったと見せて 新田軍に潜り込んでいた。それらが動いた
義貞は箱根山中で、足利直義軍を追いつめていた。しかし 搦め手の弟の軍の崩壊と、寝返り者の続出で、やむなく三島口へ後退した。
尊氏出陣の知らせは足利軍を勇気づけ、逃げ去っていた味方が続々と復帰し、足利勢の攻勢に拍車をかけた。

反公家派の豪族が反乱もあり都は大混乱

箱根の合戦、さらに駿河でも新田軍が敗北したことは早馬で都に伝わり、坊門清忠(藤木孝)四条隆資ら公家達は上を下への大騒ぎ。
そこへ「恐るべし、恐るべし」と名和長年(小松方正)が来て、「四国の足利一門 細川定禅 3000の兵を集めて備前国に上陸した由、それに呼応して 備前の佐々木信胤、播磨の赤松円心などが兵を挙げ、西国はただならぬ気配でございまする。」
「東と西の挟み撃ちか!」と公家達はますます慌て、「ともあれ お上に奏すべし」とあわただしく帝のもとへと向かっていった。

四国・山陽・山陰の諸国で 反公家派の豪族が反乱を起こし、都に向かって進撃を始めていた。
驚いた朝廷は 東海道で苦戦を続ける 新田軍を 急ぎ都へ呼び戻した。
雪崩を打って 逃げ帰る新田軍を足利軍は追い、一気に近江の大津へ押し寄せた。

近江国 大津
大津の軍議は大いに盛り上がっていた。
高師直(柄本明)が道誉に「駿河で寝返りにおうた時には八つ裂きにしてもたらぬお方と思うたが、また帰ってこられたとは大した軍略」と皮肉混じりに言う。
「軍略というほどのことではない。節操がないだけじゃ」と道誉が笑いながらいう。
尊氏も「さよう、いくさに節操は禁物じゃ」いい、道誉が「さよう、さようなのでござる」と言ったので一同は大笑いする。
そして地図を広げて天皇方の軍勢の配置を確認した。
「敵方の都の守り 瀬田に3000騎 総大将は千種の中将 名和 結城。 淀1万騎 大将は新田義貞。宇治 5000騎 楠木正成。」

尊氏は一人地図を見つめていた。右馬介がどこからともなく現れ、尊氏が「楠木殿と会うたか?」と尋ねる。右馬介は「宇治は守りが固く 楠木殿に近づけなかったが、人を介し殿の意向を楠木殿に伝えさせている」と答える。

尊氏 正成と密かに会う

山城国 宇治
楠木正成(武田鉄矢)の陣に、尊氏の使いとして花夜叉(樋口可南子)が訪ねてきていた。
正季(赤井英和)は 朝敵と会ってはならぬと怒り、花夜叉を責める。
花夜叉は尊氏には 伊賀で助けてもらった借りがあると言い。

正成が「戦いとうないなら、なぜ囲みを解かん、なぜ兵を鎌倉に引かん」と問う。
「兄上は戦がしたかったのではなく 立場上やむなくでしょう。足利殿には関東の武士を束ねる立場がございましょう。」と言って「愚かな戦で我が兄を失いたくないだけでござりまする」と訴える。

夜になって、山中の一軒家に、正成と尊氏が、衣を変えて、ひそかにやって来た。
「お会いしたい一心で、ご無理を申しました」と尊氏が言うと、正成は「ここに兵を集めて 御辺を捕らえれば この戦は終わる。」と打ち明けた。
尊氏は、自分の首を切っても戦は終わらぬ。お公家の支配に不満を持つ武家が多くいると語った。

正成は尊氏を囲炉裏の火に当たるよう声を掛けた。「三河あたりで鎌倉にお帰りになるものと思っていた」と言う。
尊氏は自分もそのつもりだったが、兵が集まり 皆 口を揃えて「都へ行くべし、都へ攻め上り お公家に武家の力をしめさん」と言うのだと弁解し、「それがし朝敵と呼ばれ、この首に恩賞がかけられし者。皆と共に行けるところまで行ってみるかと、ふいと そう思ったのです」と語る。
そして「都に上り、帝に願い奉ること出来ぬかと。願わくは 武家のための政は 武家にお任せ願えぬかと、諸国の武家の不満は収まらないと、この戦のさなか もはや後戻りはできないのだと。覚悟をいたしました。」
これを聞いた正成は「それは、幕府を興す ということじゃの?」と聞く。
尊氏はうなずき、「その幕府に楠木殿もご参画くだされませぬか?」と問い返す。
「北条の幕府とは違い 偏りのない政を行う、帝には幕府が道を誤らないよう高い御座から お叱りいただく。正成殿が加われば、畿内の武士も、新田も名和も集まれば良い。さすれば 世は穏やかになる。」

黙って聞いていた正成は「わしは、足利殿が好きじゃのう。」とつぶやく。「しかし あの帝が認めるはずがない。3年前まで河内の名もなき土豪だった、それを河内守という雲の上の位にお引き立てくれた。これは大きな借りだ。生涯かけて返さなければならない大借金だ。帝が足利どのを朝敵と仰せられる限り、戦わねばならん」と言い切る。
しかし個人的には尊氏と戦いたくはない、それを言うためにここへ会いに来たのだ。ここから鎌倉へ引き上げてくれぬかと正成は頼む。さもなくば 戦うしかない。今はそう申すほかござらぬ。
♬~

尊氏 北畠顕家軍と戦い 摂津まで逃亡 赤松円心 光厳上皇を錦の御旗に

翌日、尊氏は正成のいる宇治を避けて、淀に廻り、そこを守る新田軍と激突した。
淀の合戦

足利軍は新田軍を破り、一度は京へ入った。しかし その入京も長くは 続かなかった。
北畠顕家軍
足利軍の背後をつくように、奥州の北畠顕家率いる大軍が疾風のように、京へ攻め上ってきたのである。

都の危機を察知し、神がかり的な勢いで 駆けつけてきた北林軍と 楠木 新田軍の挟み撃ちに遭い足利軍は大敗を 喫した。


直義が顕家軍と京の町で戦うが、その勢いに「ひけ!」と退却を命じる。
顕家が「逃すな!」と叫んで追撃する。

尊氏は、丹波の山中に逃げ込み、山伝いに、摂津国(現在の神戸)へたどり着いた。


摂津国 湊川
尊氏は赤松円心(渡辺哲)に迎え入れられ、ようやく息をついた。
かつて北条を倒した時、それがしを認めてくれたのは尊氏だけだったと言って「主とするならこのお方と、おのれに言い聞かせて参りました。なん成りと、お命じくだされ」と尊氏に言う。
道誉も師直も尊氏より先に着いており、円心は一同に食事をすすめる。

食事を取りながら、道誉が「円心殿が面白い話をされてな。こたびの我らの負けは気分の負けじゃと、仰せになるのじゃ」と言い出す。
「戦は気分でするものではない」と師直が言う。
道誉は「自分達が敗れたのは帝の光、朝廷の光に気負けしたのではないか。このわしとて 妙な後ろめたさがあるのじゃ。我が兵は謀叛軍、向こうは征討軍。錦の御旗が輝いている。」
師直は「お気の弱いことを、そんなことでは勝てませんぞ。」
道誉は「円心殿は我が軍も錦の御旗を持てばよいといわれる。」
「錦の御旗?」と尊氏が聞くと、円心が「今の帝は持明院統の先帝を力尽くで追い払われ、帝に戻られた。それを上皇が恨みに思い、時至れば 一戦も辞さずと お覚悟がある由、その光厳上皇がひそかに足利殿の決起を頼みに思っているとの噂を耳にした。この光厳上皇の院宣を出してもらってはどうか」と進言する。
尊氏は「戦は勝たねばならぬ。勝つためには錦の御旗もあるに越したことはない、神仏の御加護を願い、天地を味方につけねばならぬ。やってみようぞ。」
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摂津の合戦
その後も尊氏は、上皇の院宣を手に入れないまま、摂津で 新田・楠木軍の追い打ちに遭い 敗れた。

尊氏は新田軍の追及を逃れ、海路 九州の筑前へと落ち延びていった。従う兵はわずか五、六百人であったという。

京で戦勝の祝宴 新田義貞は恩賞に内侍 尊氏 光厳上皇の院宣を得て京に向かう

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京 内裏
それから半月後、勝ち戦に浮かれた公家や武家が帝を囲んで祝いの宴に酔いしれていた。
尊氏を九州へ追い落とした戦勝の祝宴が内裏で催され、後醍醐天皇(片岡孝夫)や公家達、新田、名和、楠木といった武家達が一同に会した。
無礼講とあって文観(麿赤児)が酔って騒ぎ立て「足利軍を僅か10日余りで、この都から追い出してしまった。神仏が我らに味方したのじゃ」と気勢を上げていた。
後醍醐は奥州から駆けつけた北畠親房(近藤正臣)顕家(後藤久美子)父子の功をねぎらった。

文観が「功第一は北畠卿!恩賞も思いのままぞ」とはやし、公家衆も、やんやと褒めたたえる。
騒ぐ文観に親房が「恩賞欲しさに東国より 馳せ参じたのではない。そもそもこたびの戦に 功ある者など一人もおりません」と言い、ここまで足利を つけあがらせたのが悪い と公家達を非難する。
坊門清忠が反論するが「その方は 名和とたばかり 護良親王を捕らえ、悪逆なる足利に引き渡した第一の咎人ぞ。ひかえよ!」と親房に一喝されてしまう。
足利を敵と見抜いていた 護良親王を己の栄達のために、足利と共に葬り去ったではないか、そこも、そこも。こたびの大事を引き起こしたのは、坊門!文観!そこもとたちではないか! 」。そして「そう思われませぬか、三位の局殿?」と阿野廉子(原田美枝子)に声をかける。

後醍醐が「親房 もう良かろう」と告げると、親房は愚痴りましたと、笑って話を止めた。

名和長年と文観は、義貞の摂津の合戦での活躍を誉めそやす。
これに合わせて一同もそろって左中将殿と義貞を褒めあげた。
後醍醐も「義貞こそ武家において第一の功をあげし者ぞ」と讃えて褒美として刀を義貞に授けた

勾当内侍(宮崎萬純)が呼び出され 義貞に酌をすると、二人の噂を知る人は はやしたてた。
そんな中、廉子が後醍醐の耳元にささやいていた。

この 新田義貞は足利追放の立役者として、座の称賛を一身に浴びた。以後 一代の英雄とみなされることになる

新田義貞邸
酔いつぶれた義貞は、夜中に目を覚まし、我が身に女の衣装がかけられているのに気がついた。前を見ると、衣装脱いだ内侍が座っていた。
驚く義貞に、内侍は廉子に義貞をここまで送るよう仰せつかり、それが帝の命であると語った。「左中将殿がおよろしければ、もはや内侍は内裏に帰参に及ばず」といわれていると告げる。
「帝がおもとに、この義貞のもとへ行け、と?」と驚いて問う義貞に、「どうぞ、お受け取りくださりませ!内侍はこのたびの恩賞でござります!」と深々と頭を下げる。

義貞は「おもとには、思うお方がおるのでは…?」と尋ねる。
すると内侍は「そのお方に、行けと命じられました。そのお方に。十年、お声がかかるのをお待ちして、ついにお声が無く、ただ、行け と、このような内侍、お嫌でございましょう!」
泣きながら飛び出した内侍を、義貞が抱きとどめる。
「嫌であろうものか!恋い こがれたのじゃ!わしは、手に入れた。足利にも勝った!何もかも、手に入れた!」と義貞は内侍を抱きしめる。
「恋い、こがれたのじゃ!」義貞は内侍を抱いたまま倒れ込んでいった。

そのころ、正成の館では縫い物をする久子の前で、宴から戻った正成が考え込んでいた。
「のう、久子。もう河内へ帰ろうかのう」と言い出す正成。
正成は久子に「この都はわしには合わん。もはやこの都には先がない。河内へ帰ろう」と言うと、久子は「はい」と微笑んだ。

尊氏は光厳上皇の院宣を受けた。そして3ヶ月後 西国の反後醍醐派を糾合し再び京を目指し攻め上がろうとしていた。

▽まとめ&感想

尊氏鎌倉から出陣して 脇屋義助軍を全滅させた。道誉寝返りし足利軍大勝。
反公家派の豪族が続々反乱して都は大混乱に。戦いを避けたい尊氏 正成と密かに会うが何も出来ず。
尊氏は新田・楠軍に北畠顕家軍も加わった天皇方に負け摂津まで逃亡。
赤松円心が光厳上皇を錦の御旗にすること提言。
京で戦勝の祝宴 新田義貞は恩賞に内侍。尊氏 光厳上皇の院宣を得て京に向かう。
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尊氏鎌倉から出陣 して箱根で大勝 京で敗れ、 淀で敗れ、 摂津で敗れ 九州まで行って院宣を得ました。
本を読んでいて、箱根での戦い 道誉の裏切りで勝利 北畠軍との戦い 楽しみにしていたのに、ナレーションで さらっと あっという間に九州に行ってしまいました。

驚いたのは、北畠親房の暴露 しっかり見ていました。
そして 義貞に 内侍が恩賞でした。