何だコレミステリー 明智光秀と本能寺の変 第3弾▽ネタバレ感想 天皇がキーワード

世界の何だコレ!?ミステリーSP【明智光秀と本能寺の変!大好評につき第3弾】
フジテレビ 2021.1.13 放送
信長討伐もなぜ明智光秀は天下を取れず。運命を分けた最期の11日間を「あばれる先生」と三重大学 藤田教授が検証

光秀 本能寺の変後 瀬田の唐橋を改修 近江を情報遮断

光秀はイチかバチかの賭けに出た「本能寺の変」を起こし11日後に殺されてしまう と言われてきた。
しかし光秀は必ず成功させる自信があった

1582年6月2日 光秀は 約1万3千人の大軍を率いて出陣。
「敵は 本能寺にあり!」
本能寺を襲撃、一方 織田信長の家来は たった100人ほど。
信長は謀叛を起こしたのが光秀と知り、「是非に及ばず」(どうしようもない)と言い放ち、
天下統一を目前に49歳の生涯を閉じたといわれる。

周囲から 光秀は策略家と呼ばれでいた。
後に 権力を握っている期間が 極めて短いことをさす 三日天下という言葉の語源にもなった。

このとき、織田家の重臣たち 柴田勝家、 滝川一益、羽柴秀吉は 全国各地で 戦をしている最中であり皆 すぐには 信長の敵討ちに駆け付けられる状況ではなかった。
これも 全て計算した上で 光秀は 本能寺の変を起こしたとされる。

翌日 光秀の軍は、本能寺から およそ 20km 琵琶湖の南側に来ていた。
琵琶湖を早く渡るため 船に乗り 風を待つよりも 回り道をしてでも この橋を渡った方が安全なことから 急がば回れ ということわざが生まれた瀬田の唐橋を改修していた。

安土城(織田家の本拠地として、琵琶湖の東側に建てられた お城)に行こうとしていた。
光秀は 天下を取るため 信長暗殺だけでなく 織田政権のシンボル 安土城を乗っ取り 信長派の家臣の士気を下げようとしたのではないか。

2日後も瀬田の唐橋を修復をさせていた。
いったん 近くにある 自分の城 坂本城に戻った 光秀。
このとき 彼が恐れていたのは、柴田勝家
北陸で戦をしている 勝家が、本能寺の変を知れば、大坂城にいる 信長の息子 織田 信孝と連携し 挟み撃ちを仕掛けてくるに違いないと 敵の作戦を予見した 光秀は、琵琶湖周辺を支配する城を攻め落とした。これで、北陸から大阪への道を寸断して、交信を断ち 勝家に連携させなかった。

光秀は安土城を奪い 天皇から後継者と認められた

あばれる君と藤田先生、織田信長の居城 安土城跡に来ました。山一帯が信長の本拠地。
安土城をVRで見てみると、伝承ですが入って左側に 大きい羽柴秀吉邸、真向かい 右側は前田利家邸があり、奥には天主(天下の主)がそびえ立っています。

3日後 橋の修復が終わり 安土城を乗っ取り、信長蓄財していた安土城の財宝を家来に分け与えた。
自分は信長とは違う新しい世の中をつくる と表現するために行った。
策略家の光秀は、新しい政権は 皆を幸せにするものだと 印象づけようとしたのでは ないか。

そして 光秀は 次の日も、また 次の日も この安土城に 居座り続けたとされる。
現時点で 光秀は信長を討ったもののいまだ 織田家の重臣たちに 囲まれている。
本来であれば 一刻も早く 自分の城に戻り 戦の準備をするべきなのに。

天の主が治める 安土城で天皇の使者を3日間も待っていた。
それは、天皇が認めてくれなければ 反逆者の汚名を 着せられたままになってしまう。
光秀は 室町時代の 秩序、常識、教養を持っていた。相当気にする人だった。

天皇が信長の後継者と認め、京都を守りなさいと言うミッションを与えられた。

日本を統治する資格を手に入れた
あとは 敵対勢力を壊滅すれば、正真正銘の天下人になれる。
ここまでは 全てが 光秀の思惑どおりに 進んでいるように見えるが、ある男の行動により歯車が狂意始める。

6日後(光秀の死まで残り5日) 光秀は、秀吉が岡山から姫路まで戻っていることを知る。

秀吉は 光秀の変を予見 準備していた

豊臣 秀吉は本能寺の変が起きたとき 京都から 200km近く離れた 岡山県で中国地方を治める 大大名
毛利家と戦の最中だった。

あばれる君と藤田先生 岡山県の 本能寺の変の時戦っていた 毛利家の備中高松城跡にやって来ました。
そこから見える、真向かいの 旗印しの立っていた場所に秀吉の陣地があり、1ヶ月半近く 睨み合いを続けていた。

それが、当日夜 遅くとも翌日の朝には 伝令が 本能寺の変を知らせた。伝令が届くのが早すぎた。
他の重臣が本能寺で信長の死を知ったのは 、勝家が4日後 、一益は5日後で 信長の死は信じられなかった。

これは 秀吉が予知し、伝令や馬をリレー形式で走れるよう前もって手配していた。
しかも 優位に戦っていた秀吉は、毛利家の領地のうち5カ国を織田家に差しだし、すぐそばの城主の切腹させることで和議を結んだ。独断で毛利家と和解した秀吉。

秀吉は多くの伝令を用意し、信長の死を確信していた。
光秀の様子が怪しいと情報を集めていた。
農民の子ではなく 商人の子と考えられる。

秀吉は、 たった5日の間に、本能寺の変が起きたという情報を手に入れ 大大名との戦を終わらせた揚げ句 大軍を率いて すでに100km近くも戻ってきている。


ちなみに 秀吉は、大軍を高速移動させるために、兵士には やりや よろいを捨てさせ 軽装で走らせた上、先の村々に 兵士たちが走りながら食べられるおにぎりを用意させたり、松明で道を明るくして夜も走らせた。

所Japan 姫路城(秘)夫婦愛▽本能寺(秘)秀吉黒幕説▽こんな話 信長ハイウェイ
(こちら)

細川藤孝は秀吉に懐柔され家を残す決断

6日後(光秀の死まで残り5日) 光秀は、秀吉が岡山から姫路まで戻っていることを知る。
親しい武将に直筆の手紙を送る。
最も 頼りにしていたのが細川藤孝、信長の家臣として 苦楽を共にしてきた大親友であり、藤孝の息子に 自分の娘を嫁がせ、親戚となったほどだった。
藤孝は信長の喪に服すと出家。光秀の娘は監禁される。

7日後(光秀の死まで残り4日)
光秀は秀吉を迎撃するため京都に進軍。
腑に落ちないことに 細川藤孝が仲間に加わっていなかった。

光秀は 再び藤孝に手紙を書いた。そこに光秀が本能寺の変を起こした理由の1つが書いてあった。
本能寺の変を起こした理由は娘婿で、藤孝殿の息子である忠興らを出世させるため 私は100日 以内に 近畿地方を平定する。それが終わったら、婿殿にすべて譲って 政治から身をひくつもりだ。」

元々 室町幕府の幹部だった、明智光秀・細川藤孝 「信長につぶされた 室町幕府を立て直した上で、藤孝の息子を日本の統治者にする」と直筆の手紙に書かれていた。
ところが なぜか手紙を受け取った 藤孝から返事はなかった。

細川家の永青文庫に眠っている貴重な資料があります。
それは 光秀の死から およそ 1カ月後 秀吉から 細川藤孝・忠興の元に届いた 誓約状
そこには、秀吉の花押 血判 があり 藤孝を引き抜き 「この度 信長不慮につき 比類なき御覚悟に、今後はいかなることがあっても命を守ってあげる」と書かれていた。
つまり、秀吉が細川親子に対して最大限の感謝をしている。
秀吉は 以前から藤孝に近づいており 藤孝は自分を家を残すギリギリの決断をした。

姫路城との間に 光秀派に属する武将たちの領地が多いので 秀吉の進軍は止まると考えていた。

あばれる君と藤田先生 大阪府 茨木城跡に来ました。
秀吉が 「信長は生きている」とウソの情報を流していた。
光秀の派閥にいた武将達は、秀吉の味方になった。だから秀吉は誰にも邪魔されずに岡山から引き返せた。

9日後(光秀の死まで残り2日)
光秀は県境の 淀城のまもりを強化。天皇の使者に京都の治安を維持せよと言われていた。

10日後(光秀の死まで残り1日)
織田家の家臣であっても、信長の敵討ちとして 光秀を討つには、信長の息子を総大将にするのが慣わし
そのため 重臣たちは大坂城にいる信長の息子信孝を総大将にすえ光秀と戦おうとしていた。

神戸大学に眠っている 秀吉が親交のあった中川清秀という武将に出したとされる手紙に「光秀達の軍隊が大坂に進軍してきたら 秀吉は一騎懸けで戦いたい。」と印されていた。
ついに 秀吉が天下人への野心をあらわにした。
手紙からは、大坂城にいる信長の息子を、総大将にせずとも 自ら手柄をあげる と意気込む、秀吉の姿勢が読み解けるという。

大坂城に立ち寄って、そして 信孝を総大将に立てて、京街道を上ってくると光秀は考えてた。
ところが 秀吉が、西国街道、今の新幹線が走ってる所、最短コース 選ぶんですね。

豊臣 秀吉は、一番に手柄を立てようとして 大坂城を経由するという 武士の習わしを無視し 京都へと進軍。 光秀が待ち構えていたのとは違うルートを選択した。

光秀が「秀吉を京都に入れてなるものか」と 守りの堅い城、待ち構えるのではなく打って出る策をとり 籠城戦から 野戦に打って出ることになった。

山崎の戦い 鉄砲使えず 藤孝の勝龍寺城に逃げ 最期は落ち武者刈りに

運命の日 11日後(光秀最期の日)
山崎の合戦
こんなに早く、秀吉が来ると思わなかったため、兵士を集めきれなかった光秀軍 およそ1万6千人
一方 岡山県から戻りながら、仲間を増やし続けた 秀吉軍 およそ4万人

あばれる君と藤田先生 決戦の行われた山崎合戦場 跡に。

そこで 策略家 光秀は 圧倒的な兵力差を覆すため 2つの秘策 用意していたとされる。
ここは この川もありますし湿地帯で 少数の兵で守るには、出入り口の狭いところで もぐらたたきのようにしてやっていく
①真っ向勝負を避け 足元が悪く大軍が一斉に入れない場所を選択
②武器の乏しい秀吉に、光秀は大量の火縄銃を用意した。
しかし 鉄砲を大量に準備したがあっという間に敗北、雨が降り火縄銃が使えなかった。


でも 確か 当時の記録 京都にあった吉田神社の神主は、無数の鉄砲音を山崎で聞いたと書き記している。
劣勢に追い込まれた光秀は勝龍寺城に立てこもり 火縄銃を用いて最後の抗戦をしたという

実は 光秀の本拠地は 安土城に次ぐ名城と呼ばれ 琵琶湖のほとりにそびえる 坂本城、にもかかわらず なぜこの勝龍寺城に逃げ込んだのか。

勝龍寺城の中に細川忠興・玉(ガラシャ)像がありました。
つまり ここは 細川藤孝の持ち城だった。

光秀は日本の政治を変えようとして意を決して 行動したもののふたを開けてみたら信頼している多くの部下がなかなか ついてこなかったと。

そこで 光秀は、日が暮れるのを待ち、ごくわずかな供回りを引き連れ、城を出た。
道中で 竹やりを持った農民に討たれ、命を落としたた。

あばれる君達は 竹藪の中の「明智薮」明智 光秀が討たれたといわれる場所に移動。

ぐるりと取り囲んだ 秀吉、最期に敢えて 包囲を1箇所解除し 光秀を逃します
光秀と秀吉 最期の頭脳戦
これは秀吉は 天皇から支配を認められている光秀を討つと、反逆者になります。
戦国時代 勝者側の命令にしたがって、村々は落ち武者刈りをしなければならないとルールがあり、秀吉は 直接手を汚さないようにした。

光秀は 天皇から、お墨付きを頂ければ 自分の命を奪う者は 反逆者となる 当時の常識を
巧みに利用し 自らの命を 守ろうとしたのではないか。

習わしを大切にする光秀が、信長を暗殺したことによって、ライバルだった秀吉が天下人になった。
たった二人で歴史を変えた。

▽まとめ&感想

光秀 本能寺の変後 瀬田の唐橋を改修 近江を情報遮断し、安土城を奪い天皇から後継者と認められた。
秀吉は 光秀の変を予見し準備していた。細川藤孝は秀吉に懐柔され家を残す決断をした。
光秀山崎の戦い雨で鉄砲使えず藤孝の勝龍寺城に逃げ最期は落ち武者刈りに命落とした。
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光秀 緻密に計算して 天皇から認められていることに驚きました。
秀吉は 光秀の動きしっかり見ていて 細川藤孝を懐柔してました。
最期 秀吉が光秀殺せば 反逆者になるので 落ち武者に任せて 手を汚さず 天下人になった。
面白いです。こういう番組大好きです。