高氏が、花夜叉一座と楠木正成を、舞いを見て関所通す
関所では検分が行われ、花夜叉一座が足利高氏(真田広之)と土肥佐渡前司(大塚周夫)の前に。
高氏が「いずこへ」と聞く。
花夜叉(樋口可南子)は熊野権現の祭りに行き、平安を祈り舞い歌うのですと答えた。
高氏は天下泰平の舞いを舞えば、芸人と認めて通してやろう。
一座で踊り出そうとするが、高氏はその場に残った、変装した楠木正成(武田鉄矢)に踊るよう命じた。花夜叉らは、顔を見合わせた。
正成は、男が夜這いをかける様子を舞い、関所は笑いの渦に包まれる。
舞が終わると、高氏は一座を放免するよう命じた。不満げな、土肥佐渡前司達は立ち去る。
高氏は「そこもとが万に一つ、楠木兵衛なら…、なにゆえ勝ち目のない戦に立たれたのか?」
正成「らちもない事を…」。
一座が立ち去った後、高師直(柄本明)「あの者、舞が出来なければ?」と、聞く。
高氏が「舞の一つぐらいわしでも舞えるぞ」。
そこへ、一本の矢が。そこには、「いくさとは大事なもののために戦うものと存知おり候。大事なもののために死するは、負けとは申さぬもの……。」と文が付いていた。
花夜叉一座は、山の上から伊賀の方をしばらく眺めた後、歌いながら大和へと旅立っていった。
京の高氏、後醍醐帝には新しく佐々木道誉が給仕人
11月初頭、高氏は京へ戻り、六波羅探題で、北条仲時(段田安則)や公家の西園寺公宗(長谷川初範)と会う。
公宗は鎧姿の高氏を見て「なぜ着替えてこぬ」となじる。、即位したばかりの光厳天皇の代理人ともいえる人物であった。朝廷と鎌倉幕府のパイプ役を務め、双方に莫大な影響力があった。
屋敷で食事をしながら、直義が人払いし、兄・高氏に、後醍醐天皇を「大きなお方」、楠殿が勝ち目のない戦に乗り出す理由があった。だから、持明院派と幕府は恐れ、天皇を追い落とした。皆知っている。
直義は、「権力を握った持明院派の公家にも、いい顔を見せて置かねばならぬ。」
高氏が「直義からそのような説教をうけるとは思わなんだ」
直義は、「明けて27になりますゆえ。」
後醍醐帝の様子を尋ねると、身辺の警護に抜かりはない、獄(ひとや)に灯りも入れず、この寒さの中、火桶も入れさせないのだという。
後醍醐帝(片岡孝夫)は、六波羅の獄に、入れられ大声で叫んでいた「かかる仕打ちやある!仲時参れ~!… とく火を持て~!」。
千種忠顕(本木雅弘)が 「主上(おかみ) 火桶の儀 、申し伝えまする。」
後醍醐帝は「声を上げれば体が温まる」と笑い、髭の伸びてきたあごをさすりながら、「生きておれば人間には、髭も伸び、垢もつく。… 朕は必ず生き抜いてみせようぞ!」
そこへ、佐々木道誉(陣内孝則)が、鎌倉殿の命により、本日よりご給仕の牢司として務めることになり、、火桶と明かりを持ってきた。道誉はさらに忠顕に近づいて「不足しているのは火桶だけではござるまい。よろしければ帝ご寵愛の三位の局も、この判官がお連れいたす。御奏聞ください。」とささやく。
忠顕から道誉の名を聞いた後醍醐帝は「佐々木か…忘れまいぞ。」とつぶやく。
その年の暮れ、幕府は後醍醐帝の隠岐の島に流刑を決めた。
高氏は直義の意見を受けて、歌会をしている西園寺公宗の館を訪ねる。そこは新しい帝を取り巻く、持明院派の公家達のたまり場だった。この持明院派は、御醍醐派の公家を朝廷から追い払い、次々に大臣や司の長となり、我が世の春を謳歌していた。
挨拶する高氏に公宗は「いささか遅いのう。いとまなら北畠殿や…」と冷たくあしらう。それとも、先帝・後醍醐が隠岐へ流刑と決まったから、寝返りするのか?
–公家達の哄笑 ホッホッホッ ホッホッホッ–
館を出た高氏は直義に「京の都も鎌倉と同じになってしもうた。美しい都ではのうなった」と嘆く。「やはり帝は、先帝お一人のように思えるのだ」とつぶやく。
正成の「いくさとは大事なもののために戦うもの」という言葉が思い出されていた。
高氏は直義らと、京を発ち、鎌倉へ帰ることにする。
3ヶ月の短い遠征だった。反乱の一応の決着を見、ほかの将軍達も続々引き上げていった。
高氏鎌倉に戻るが、父の弔い事出来ず
鎌倉では長崎円喜(西岡徳馬)が久々に出仕していた。息子の高資(西岡徳馬)は、御出仕とは珍しい。円喜は、京より、大仏(おさらぎ)殿の軍が帰着する。京の高貞よりの知らせで、先帝の子大塔宮は吉野の山奥に逃げたそうな、楠木正成を取り逃したという。
高資は「もはや天下は安泰」と楽観するが、円喜は、「こたびの戦ぶりには解せんものがある。とりわけ足利殿の戦ぶりは解せぬ」と。
高氏は三カ月ぶりに帰宅し、出迎える登子(沢口靖子)、清子(藤村志保)、幼い千寿王。
家族再会の喜びに浸った。
新たな難題が待ち受けていた。父・貞氏の弔い事を鎌倉で行ってはならぬと、長崎殿が命じになった。足利家の弔いとなれば、諸国の一族郎党が、鎌倉に集まり、世上乱れたる折節なれば、穏やかではないと。登子の兄守時も申し訳ないと。
高氏はやむをえぬ。しかし弔いを行わないと一族に不満も出るだろうと、得宗の北条高時(片岡鶴太郎)に直にお願いいたそう。
高氏が高時の屋敷を訪れると、紅葉の美しい庭のそばで、顕子(小田茜)を侍らせて仏の絵を描いていた。貞氏の弔い事の件で、得宗殿のお慈悲にすがりお願いしたく、書状を渡そうとすると、側にいた長崎高資が扇子で書状をはね跳ばす。
高時は「足利殿に口が過ぎようぞ!もうよい!」と叫んで、引き下がらせる。
高時は描きかけの仏の絵を見せて高氏に語り出す。
母は、仏の絵を描き念仏を唱え続ければ、極楽浄土にいけると言われたが、いつまでたっても極楽は見えてこない。
ある僧は、「仏の顔は、我ら凡俗には生涯見え申さぬ。ただ信ずる他はない。信ぜよ」と申すが、顔の見えぬ仏をどうやって信じられようか。わしには分からぬ。
「例えば、何を信ずる?」
「得宗殿のお慈悲の心を」
高時は「慈悲は犬に喰わせてしもうた。長崎がそういたせと申すのでな」
「長崎は、先帝も隠岐で殺してしまえ。それが世の安泰のためだと。恐ろしきことよ。
母御前は、長崎と仲良ういたせと仰せられる。」
「先帝も殺し奉り、浄土も見よと申すのか?わしは忙しい。」とつぶやく。
顕子が朱を、仏の顔に垂らしていた。赤く塗りつぶされていく仏の顔。高時は顕子に覆い被さり、共に筆を持って戯れ、手でこする。仏の絵はまるで血塗られたようになり、書状を破り手を拭くのに使ってしまう。高氏はやりきれなくなって 、立ち去っていく。
元弘2年3月7日。佐々木道誉が率いて、先帝・後醍醐は隠岐へ配流となり、阿野廉子(原田美枝子)も連れ、旅立った。
▽まとめ&感想
高氏が、花夜叉一座と楠木正成を、舞いを見て関所通す。
京に高氏入り持明院派に挨拶、後醍醐帝には新しく佐々木道誉が給仕人になった。
高氏鎌倉に戻るが、父の弔い事出来ず。高時に願い出ても叶わなかった。
高氏、正成を逃がしてしまう。持明院派に挨拶し、父の弔い事出来なかったりして、鎌倉幕府を倒さなければ、ならなくなってきました。書籍では、なんか足利家は悪役のような書かれ方ばかりで、どうして?と思っていました。
北条高時(片岡鶴太郎)の壊れ具合もすごいです。
公家の西園寺公宗達のホッホッホッも、頭に残りました。