太平記 34話「尊氏追討」▽あらすじメモ▽

鎌倉の尊氏に帰京するよう勅使が来た。尊氏の帰京を直義止める

鎌倉 足利尊氏亭
建武2年(1135)10月。鎌倉にいる足利尊氏(真田広之)のもとへ帝の使いがきた、「今回の合戦の恩賞は朝廷が行うこと、尊氏はただちに帰京するように」と 後醍醐天皇(片岡孝夫)の詔を伝え、「都を勝手に出たことを帝はおとがめではない。だから征東将軍に任じられたほど」と京に戻るよう勧めた。

尊氏は勅命に従ってただちに帰京し詫びて参ると直義(高嶋政伸)たちに言う。
「殺されまするぞ!」 と直義は諫めるが、尊氏は帝に申し開きをし、よく話し合いたいのだと言う。直義は「無駄じゃ無駄じゃ! 我らは公家の支配から離れようとしている者。朝廷からは敵にしか見えない。」
「わしは都へ戻る!」と出ようとする尊氏を、直義が「なりませぬ!」と 手を開いて押し止める。
直義は「兄上がこれほどの大馬鹿者とは思わなんだ。それでも源氏の棟梁か!公家の犬ではないか! 勅使は私の一存で追い返しました!もう手遅れにござりまする!」と言い放つ。
激昂した尊氏は太刀を抜く。「斬ってお通りなされ!」と兄をにらみつける直義。「言うたのう!」と尊氏は刀を振り上げるが、さすがに斬れず、太刀を収めた。
高師直(柄本明)達家臣も「殿、お通しいたしませんぞ!」手を伸ばし塞いだ。

後醍醐帝 新田義貞に尊氏追討の宣旨

京 里内裏
後醍醐帝は庭を歩きながら、公家達に言った。「都へ戻り、申し開きをしてみよ、朕は許す。朕は許すのじゃ!それがなぜわからん!」
そして 申し開きもせず 我が子護良を殺め、朕の許しを得ず領地を分け与えたこと 詫びないのか 朕の命なのに」と天を仰いだ。勾当内侍(宮崎萬純)がそれを見ていた。
公家達に、足利の関東支配は認めないと告げ、新田義貞を呼び出すよう命じた。

やがて新田義貞(根津甚八)が参内した。後醍醐帝は「新田義貞、汝に命ず。鎌倉に下り、足利尊氏を討つべし!」と命じた。「足利は関東に幕府を開こうとしている。これは自分の政を妨げるものである。足利に代わりて武家を束ね、急ぎ足利を討伐せよ!」と義貞に言い渡す。
義貞は黙ってうつむいたまま命を受けた。

退出後、義貞は内裏の一室で一人勾当内侍を待っていた。義貞は内侍に自分が勅命で関東へ下り足利尊氏と戦うことになったこと、再び都に戻れるかどうかわからぬ大きな戦いであることを告げ、「万に一つ、戻れぬものなら内侍どのに…」と切り出し、「この義貞、かかる折りでもなければ、この胸の内を申し上げることもかないませぬ。小心者よとお笑い下され。おもとは一条家 公家の姫君。それがしは むくつけき 武家の者 、詮無き想いと思って一年、されどこの気持ち、一度は伝えおかんと…」と打ち明けた。
これに内侍は「公家も武家もござりませぬ。生きとし生けるもの、みな同じでござりまする」と語るが、「さりながら、この内侍には、思うお方がござりまする。お許し下されませ!」と、義貞の気持ちに応えられないことを涙ながらに告げた。
「本望でござります。言うべきことが言えましてござります、心おきのう、戦いに参れます!」と言う義貞を、内侍は顔を上げ 涙を流して見つめる。

京都 都大路
建武2年11月8日 朝廷は足利尊氏を朝敵と見なし 追討の宣旨を下した。新田義貞が6万の兵を率いて 東海道を下ったのである。

不知哉丸 仏門に

清子(藤村志保)鎌倉の花夜叉一座のいる宿を訪ねていた。門のところで遊んでいた不知哉丸が清子に気づき、「あ、おばちゃん!」と声をかける。清子は「変わりはないか」と優しく不知哉丸に話しかける。

花夜叉(樋口可南子)石(柳葉敏郎)を呼びに中に入った。石は服部元成(深水三章)の前で舞に使う面を彫っていた。石は、「わしのじいさまが冬になると、翁の舞の面を彫っており、教わった。」藤夜叉の顔を面に彫り、それを元成らの舞いに使ってもらうことで供養になる」と言うのだった。
ちょうど元成も新しい 美しい面を 欲しいと思っていて、石の腕も筋もいいと見込んでいた。
花夜叉が、足利様の母君が不知哉丸を引き取りたいと きていることを告げる。

石が外に出てみると、不知哉丸は一色右馬介(大地康雄)らと相撲を取って遊んでいるた。
「不知哉丸、そいつから離れろ!」と石は不知哉丸を引き離し、「こいつらがそなたの母を死なせたのだ!刀を持っている奴はみな敵じゃ。そんな奴のところにもらわれていくことはない!」と右馬介たちをののしり、不知哉丸に足利家が引き取りたいと言っていると教え「足利などに渡さんぞ!」と叫ぶ。

石が一室に飛び込むと、清子がそこに控えていた。
清子は「尊氏の母にござりまする。仰せの儀、まことにごもっともでござりまする」と 石に深々と頭を下げる。
そして不知哉丸を武士にするために来たのではない、我が身同様、足利ゆかりの寺に入れたいのだ、と石に説く。この乱世、幼子を守ろうにも守り切れぬ事がある。寺に入るのがよい、母親の供養も学問も出来よう、10年20年先のことを思えば それが和子のために一番よい道かと、との清子の説得に石は考え込む。そこへ不知哉丸が「石…」と近寄ってきた。石は「仏門か…」とつぶやいた。

千寿王が手習いをしているそばで、尊氏は何やら書物をめくっていた。すると千寿王が墨をこぼしてしまい、様子を見に来た登子(沢口靖子)が騒ぎ、尊氏に冷たくあたる。
そこへ清子がやって来て尊氏に「寺に写経を納める儀について」と話し出す。「寺に納める儀については、かないましたか?」と尊氏が聞くと、「かのうた。案じることはない」と清子が答えた。

そこへ京からの早馬が「新田義貞が六万の大軍を率いて関東へ攻め下ってくる」と伝えた。
驚いた尊氏が「誰の命で?」と問うと、「帝の宣旨が下った由!」との答え。「なに!」尊氏は愕然とする。

新田義貞軍と矢矧川で 合戦の火蓋を切る 正成 遅い

三河 矢矧川
11月25日新田義貞軍は三河の国境 矢矧川で初めて、足利勢の高師泰軍と遭遇、合戦の火蓋を切った。これを数に勝る新田軍が 一気に足利勢を破り、三河へなだれ込んだ。

京 楠木正成 亭
新田軍が出兵した後の都では、残留組の武家達が 事の成り行きを見守っていた。
そんな楠木正成(武田鉄矢)のところに鎌倉にいる 妹の卯木こと花夜叉から、尊氏が朝廷との間に立って欲しいと正成に依頼しているとの書状が届く。「遅い!」と正成は久子(藤真利子)の前で叫ぶ。もはや戦いは始まっており、一度仰せられたことは覆せない。「なぜこうなる前に!」と正成は悔やむ。

尊氏 出家・道誉 制止出来ず 敵方に寝返る

鎌倉の足利亭
登子に呼び出された佐々木道誉(陣内孝則)が姿を見せた。
登子は尊氏が出家すると言い出しているので、なんとしても思いとどまらせてほしいと頼む。
道誉は「出家?」と驚いて尊氏のもとへ駆けつける。
尊氏は直義や家臣一同を集めて、「新田6万の兵は 新田の軍ではない。帝の勅を受けし 官軍ぞ 帝の兵と戦うは 余りにも畏れがましい。全ては尊氏の責任であり 出家をして 衷心より帝におわびする。そのために出家する。事ここに至ってはこうでもせねば戦を避けることはできぬ!。直義、師直、かまえて戦はならぬぞ!関東の諸国に伝えよ 本日より仏門に入ったと。いずこの武家も 弓刀を置き 朝廷の怒りが解けるのを待てと。」と一気に語る。

道誉が尊氏に声をかけると、「朝敵の汚名をうけ、生きながらえた家はない。思案の末じゃ」と尊氏は道誉に言い、登子には「そなたや千寿王、足利家、我が一門、皆を救うにはこうする他はない。許せ」と言う。
尊氏は庭に出て地面に座り、烏帽子を外し短刀を抜き、そのまま髪を束ねる本結を切り落とした。
「殿!」登子は髪を乱した夫を見てがっくりする。

この日のうちに、尊氏は近くの浄光明寺に入った。この事態に関東武士が主を失った。

11月末、新田軍はついに遠江を駆け抜け、駿河へ迫った。

鎌倉 浄光明寺
雨の降る夜、道誉(左身頃が緑、右身頃上が赤下黄金色)が浄光明寺の尊氏を訪ねてくる。尊氏は髪を伸ばしたまま袈裟をつけ仏壇の前にいた。
道誉は直義と師直が一万と僅かの兵を率いて、新田軍を駿河でくい止めるべく出陣したことを尊氏に伝え、自分もこれから駿河へ出陣すると告げる。
し かし尊氏は無反応で、道誉は今度の新田の出陣は、実は義貞が鎌倉を足利から取り返すべく、心の底に あなたへの妬みがある と尊氏に説く。そして足利と新田を競わせようと言う朝廷の思惑があるのだとも語る。
「遠江で我が手の者が入手いたした」と道誉は懐から一枚の書状を取り出し、「帝の綸旨だ」と言って尊氏に見せ、その内容をそらんじる。「足利尊氏 、直義、武威を誇り朝廷を軽んずる間 追討せらるるところなり、たとえ隠遁の身たりといえども刑罰許すべからず。深くかの在所を尋ね 追討せしむべし。」
道誉は尊氏に「寺に入っても無駄じゃ」と告げ、「何のために北条を倒した?良い世を作るためではなかったのか!公家の世がはや美しいとは思えぬ。新田にそれができるか?」と尊氏に詰め寄る。
そして綸旨を懐にしまい、「御舎弟どのでは勝てまい。駿河で大敗すれば先は見える。おぬしが立たねば、わしは新田に寝返るぞ。生き伸びるために寝返るぞ! 」そういい立ち上がる。

しかし尊氏は黙り続けた。
道誉は「御辺の気が変わり、戦にお立ちの折りはご一報たまわりたい。いずこにいようと馳せ参じ、戻って参る。御免」そう言い捨てて立ち去っていく。
寺の廊下を歩きながら、道誉は懐の綸旨を取り出し、ビリビリと引き裂き、懐へ戻した。そして高笑いしながら去っていった。

直義軍 総崩れ 箱根の三島口で必死の防戦 尊氏出陣

12月5日
駿河の手越河原
足利勢は 直義を総大将として新田勢を迎え撃った。ここが破られば新田勢が関東になだれ込む。足利勢総力を挙げての合戦だった。
しかし 勢いに乗る 新田勢は これを撃破。足利軍は総崩れとなった。

浄光明寺に籠もった尊氏は、仏前で、駿河の戦場に思いを寄せながら、尊氏はただ黙然と祈り続ける。
そこに、嵐の夜であったが右馬介が浄光明寺に駆け込んできた。
そして尊氏に手越河原での敗戦を伝える。そして佐々木道誉、宇都宮貞泰が新田軍に寝返ってしまったことを告げた。
直義の安否を尋ねると、直義は箱根の三島口で死に物狂いで 敵を防いでいる。師直も同じであると 右馬介は言い、これから自分も箱根 へとって返し戦う、と尊氏に告げる。

それでも尊氏は黙り込むばかりであった。
右馬介は尊氏の気持ちは誰よりも良く分かる、と言った上で「人には、人の道がございます。このまま御舎弟殿を見殺しになさりますか?」と言って、さらに 「直義が別れ際に、兄上によしなに 今生の別れを伝えてくれ と言っておられた。さほどに帝が大事でござりますか?」

右馬介が出ていこうとしたとき、突如 尊氏が「待て!鎌倉に、今 いかほどの兵がおる?
右馬介が振り返ると、尊氏の目にらんらんとした光が戻った。「兵を集めよ!」との尊氏の声に「ははーっ!!」と平伏する右馬介。
尊氏は「新田義貞を討つ!出陣じゃ!」と立ち上がった。

鎌倉の町に、右馬介以下、わずかばかりの兵が集められた。髪を振り乱したまま鎧を着け馬にまたがった尊氏「南無八幡大菩薩!われらにご加護を!」 「エィエィー」
尊氏は、右馬介たちを率いて鎌倉の町を駆けだした。

時に建武2年12月9日。ついに足利尊氏が立った。これを境に天下は大動乱へと突入していった。

▽まとめ&感想

鎌倉の尊氏に帰京するよう勅使が来た。尊氏の帰京を直義止める。
後醍醐帝 新田義貞に尊氏追討の宣旨を出した。
祖母清子が不知哉丸を仏門に。
新田義貞軍と矢矧川で 合戦の火蓋を切る 。正成 尊氏の仲裁要請に遅い。
尊氏 出家。道誉 制止出来ず 敵方に寝返る。
直義軍 総崩れで箱根の三島口で必死の防戦。ついに尊氏出陣。
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尊氏と義貞ついに戦うことに なりました。
道誉の衣装 相変わらずハデで、寝返ってしまいました。(この人は読めません。 作戦ですよね。)