太平記 30話「悲劇の皇子」▽あらすじメモ▽

北山の西園寺公宗の館で北条高時の弟 泰家達が後醍醐天皇暗殺の計画

後醍醐天皇は自らが諸国を支配する 建武の新政を 強力に推し進めようとしていた。大代理建設のための増税や 新しい貨幣を作る計画などである。
しかし 理想と現実の差は大きく 二条河原の落書きに象徴されるように、庶民の暮らしは一向によくならず、それぞれの所有地を巡る 諸国の 武家達の不満も大きく 急速に高まっていた。
一方天皇の跡継ぎ問題で、阿野廉子との対立を深めていた、護良親王は足利尊氏の力が強力になることを恐れ、尊氏討伐を図った。しかし、味方の武家の裏切りにあい、逆に都の平和を乱すものとして、捕らえられ 足利直義のいる鎌倉に送られていった。その行く手に 暗い影を見ながらも 月日は経ち、はや半年余りが過ぎていった。

建武2年(1335)6月。京都の北に 北山殿と称される西園寺公宗の館があった。
そこに公家や武家が集まり、恐るべき密談が行われていた。
後醍醐天皇(片岡孝夫)暗殺の計画である。
22日 帝は、この北山に東宮ともども 蛍狩りに ご臨幸と決まった。この気を逃さず、邸内で殺す。
日野資名、北条泰家(高時の弟)が加わっていた。
西園寺家は鎌倉幕府時代北条氏と強いつながりを持ち、それ故 朝廷で絶大な権力を振るっていた。それが今は 他の持明院統の公家同様 落ちぶれ果てていた。
思案顔の 公宗の弟・公重は 公宗邸から出た 輿の中で「輿を御所へ廻せ!」と行く先を変えた。
すると、黒装束の男達が現れ、輿を止めさせた。率いる一色右馬介(大地康雄)は輿の御簾をあげ、「公重公にもの申す。北条一族を招き、何をお企みか?」と問いただした。

翌朝、足利尊氏(真田広之)は右馬介を伴って新田義貞(根津甚八)のいる武者所を訪れ、北山殿で西園寺卿が帝を罠にかけ、殺すつもりなので、早く手を打たれるがいいと告げる。
義貞は自分が鎌倉で討った 得宗 高時の 弟 泰家が都に入っていたことに驚く。
尊氏が自らの手柄とせず、なぜ教えてくれたのか尋ねる。
尊氏は「帝をお守りするのは武者所の役目」と答え、護良親王のときの借りもある。

義貞は、「謀反が多すぎる」とヒゲをさすり、判らぬが、帝は大内裏のため全国に税を課す。自分の越後でもゴタゴタしている。
尊氏は「帝は美しい都をつくりたいのじゃ。威光を示したいのだ」
「よかろう、わしは戦に勝てばそれでよい。帝をお守り奉ればそれでよい。それが武家というもの」と義貞は言い、出撃していった。
義貞が立ち去ると、右馬介も関東に発つと言う。公重のよれば関東のどこかで北条残党が立つことになっていて、鎌倉が心配だった。

新田義貞が乗り込み 北条泰家 諏訪に逃亡 高時の遺児 時行と鎌倉奪回へ

義貞率いる武者所の兵は西園寺邸に入り、抵抗する者を斬り、公宗らをつかまえた。しかし、北条泰家は逃げてしまっていた。

逃げた北条泰家は、一騎でまっしぐらに 信濃国の諏訪に走った。
諏訪には北条高時の遺児・時行が隠れていたのだ。この地の豪族 諏訪頼重と共に 鎌倉奪回を狙っていた。時行と 諏訪頼重は、鎌倉を目指し乾坤一擲の戦を仕掛けていた。信濃守護・小笠原貞宗の軍を破り、武蔵国 女影原で足利軍と合戦になり、これも破った。関東に動乱の火がついたのである。

美濃では代官としてきた ましらの石(柳葉敏郎)が、領主と農民の間で板挟みになっていた。
帝の大内裏のための税を とりたてようにも、貧しい農民達には「死ねと言うのか」と泣きつかれ、税を取り立てる姉小路家の名代には「三日以内に差し出せ」と責め立てられる。

石は藤夜叉(宮沢りえ)と自分達の畑を耕しながら「わしは税の取り立てのためにここに来たのではない」とぼやく。北条の時代よりも税が重くなるなど、ぼやく石を、藤夜叉は「良くなるよ。世の中きっと良くなる。戦もなくなって税も軽くなる」と慰める。
石が 関東で足利が敗れていて、敵は 北条時行で まっしぐらに鎌倉に攻め込んでいるそうだ と言っていると、不知哉丸が「足利は負けん」と足利の肩を持つ。
「わしの前で足利、足利言うな。足利はわしの母を殺したのだ」と石が言うと、不知哉丸は「大将がか? 足利の大将は負けん。石のおろかもん!」と持っていた木刀を投げ 駆けだしてていく。

「不思議だ。あいつはどんどん 足利びいきになっていく。足利が何をしてくれた?わしの方がよっぽど父親らしいわ」と石はぼやく。
藤夜叉が「不知哉丸も村人も親子だと思っているはず」
「誰もわしとお主を兄妹とは思わない。みんな夫婦と思っている でも、他人だもんな。わぬしも不知哉丸も」と石は言う。
夕陽の中、遠くを騎馬武者たちが走っていくのが見えた。
村人が、「鎌倉が危うくなり足利が美濃に助けを求めてきたそうだ。」

北条時行の反乱軍が足利軍を撃破し 鎌倉に迫る 尊氏は諸国の兵を催促するため帝に参内しようとするが廉子が阻止

北条時行の反乱軍が、小手指原と府中の合戦で、足利軍を撃破し、鎌倉に迫った。

この驚くべき知らせは、次々に 京都 六波羅尊氏のもとに もたらされた。
高師直(柄本明)が 敵は関戸まで 押し寄せ、御舎弟が 井出ノ沢まで、迎え撃ちに出られてる由。
もはや 敵の足音は鎌倉に聞こえております。
三河にいる兵が動かせないかと尊氏が言うが、吉良貞義(山内明)は信濃に 別隊がおり、木曽路を下り、三河を攻める 動きが有ります。
師直は鎌倉が落ちた場合のためにも三河の兵を残して置かねばならないと進言する。
誰も関東に駆けつけられないと悟った尊氏は「わしが行く」と言い出す。高師直(柄本明)が都には7、800の兵しかいないと言うと、尊氏は諸国の武家に兵を催促すると答える。
師直は、この度の戦、鎌倉のために、新田や楠木や結城も動かない。

尊氏は「関東が北条に渡れば、奥州も危ない。帝に 武家すべてを動かす許しをもらって 征夷大将軍に任じていただく。参内じゃ。内裏へ参る!」と言い出かけた。
突然の発言に師直と貞義は「殿はいま、何とおおせられた?」「征夷大将軍を望むと!」「征夷大将軍!ようやく仰せられた!」と喜ぶ。

征夷大将軍とは、武家の棟梁たるものが、帝より授けられる 最高の仁であり、称号であった。

尊氏の参内が阿野廉子(原田美枝子)に伝えられた。
公家達と花を立てている廉子は「鎌倉にはせ下りたいので、帝の許しが欲しいのだろう 捨て置かれるがよい」と言う。
千種忠顕(本木雅弘)、坊門清忠(藤木孝)は帝が風邪だと言って追い返し、明日もまたお風邪だ。しかる間に 鎌倉の足利が滅びる。足利は大きくなりすぎた。
廉子 は「我が子 成良は 海から逃がしてある。案ずることはない。」
あまたの公達を追い払ってきた勾当内侍(宮崎萬純)に、追い払うよう命じる。

尊氏のもとへ勾当内侍が現れ「本日は帝は風気の気味にて拝謁を許されない。」と伝える。尊氏は執拗に食い下がるが、内侍はひたすら頭を下げ続けた。

足利軍敗れ 登子 成良親王 逃げ、護良親王殺害

一方、鎌倉 足利亭。7月22日 時行軍を迎え撃った足利直義の軍は関戸でも敗れ、鎌倉陥落は時間の問題となっていた。
傷だらけの細川和氏が戻り、登子(沢口靖子)千寿王に藤沢で待っているという直義の言葉を伝え、右馬介が藤沢までお守りする。
和氏は成良親王の消息を右馬介に聞く。右馬介が成良を海から大磯に逃がしたことを告げ、護良親王も自分が連れて行くと答えると、お連れせずともよいとの 御舎弟様の 命じゃ 殺し奉れ との命じゃ
「そのようなこと、聞いておらぬぞ!」
「すでに淵辺が東光寺に向かっておる」、右馬介は飛び出していった。

鎌倉の 東 薬師ヶ谷の小さな館に護良親王(堤大二郎)は幽閉されていた。
ここに送られ、すでに八ヶ月過ぎていた。この時も護良は写経をしており、「無死無生」の一句を写してじっと見ていた。
どこからか風が吹いてきて、「南か、警護の者もいずこかへ走り去ったわ。足利は北条に苦戦しておるようじゃのう」と護良が言っていると、淵辺義博が刀を手に静かに部屋にいた。
淵辺が足利の家臣、と名乗ると「されば足利に伝えよ。すでに護良は都にて死せし者。足利は死せし者の影におびえ、死者をむち打つかと!」と言って、淵辺をカッとにらみつける。それから護良は静かに経台にむかって姿勢を正した。
「御免!」刀が振り下ろされ、経文に鮮血が散った。

内裏の後醍醐天皇(片岡孝夫)はハッと目を覚ました。全身汗びっしょりである。
阿野廉子が早馬の知らせを伝えた。22日 足利勢は北条時行の軍に敗れ、鎌倉を捨て三河に逃げ始めた由。
後醍醐は成良親王の無事を確かめると 千種、坊門、新田を内裏に呼ぶよう命じた。
後醍醐が「護良は?」と尋ねた。「それはいまだ…」と答える廉子。
そこへ尊氏が参内してきたことが伝えられる。

尊氏には、すでに関東の全域が反乱軍の手中に収まったとの知らせがもたされていた。
事態の悪化は 予想以上の早さだった。

尊氏と話す前に、後醍醐は千種、坊門、義貞を集めて意見を聞く。
忠顕は「足利は存外 戦が弱い」と言い、清忠も「足利を排し他の武家を持って こたびの乱にあたるべきか」と進言する。
後醍醐が義貞に問うと、関東は北条の根城であり、幕府が倒れても 北条の縁者はあちこちにいる。誰が行ってもむずかしい。寝返りもの 足利への怨念が 北条方を鬼神のごとく 奮い立たせている。それがしが足利なれば軍を率いて関東へ行く」と尊氏を擁護するような発言を行った。
これには忠顕も清忠も面白くなかった。
「行けとの大命なれば新田はどこへでも参り合戦つかまつりまする。北条ごとき ……」と義貞は言いつつ、「さりながら、それがしは同じ関東者ゆえ、……」と付け加えた。

一同を下がらせた後、後醍醐は廉子に新田はどうか 聞いた。
「気の利かぬ者でござりまするが、心根は信ずるに足る者かと」と廉子が答える。
後醍醐はうなずき「あれは頼りになる。古風な武者じゃ。あれでよい」と微笑むのだった。

義貞勾当内侍に案内されながら退出、途中、足を止め「それがしは帝の御前で奇妙なことを申し上げたやも知れぬ。お笑い下され。お公家の方々に囲まれると臆してしまう。関東の田舎武士でござる」
すると内侍は「新田殿の申されたことは、奇妙なことは何一つございません。お公家の方々がよほど奇妙でござりました」。義貞と見つめあった。

そこへ尊氏を召し出す声が響き、尊氏が義貞とすれ違っていく。尊氏は義貞に黙礼をして進んでいった。

この翌年。尊氏と義貞は天下を二分して戦うことになる。
その運命はこの夜、帝によって もたらされることになるのである。そのことに、尊氏も義貞も、まだ気づいていない。

▽まとめ&感想

北山の西園寺公宗の館で北条高時の弟 泰家達が後醍醐天皇暗殺の企みがあった。
足利尊氏がこのことをキャッチ、新田義貞が乗り込み 北条泰家が諏訪に逃亡した。
高時の遺児 時行と鎌倉奪回へ動き出し、足利軍を撃破し 鎌倉に迫った。 尊氏は諸国の兵を催促するため帝に参内しようとするが廉子が阻止していた。
足利軍敗れ 登子らと、 成良親王 逃げ、護良親王を殺害した。

風雲急に、足利軍が負けてしまいました。
あっという間に 護良親王が殺されてしまいました。
美濃の 夕陽の中、遠くを騎馬武者たちが走っていくシーン キレイでした。