あしたも晴れ!人生レシピ「 ありのままの自分を生きる 認知症を受け入れて 」▽こんな話

Eテレ 2021.8.13
蛭子能収さん「認知症になったとしても オレはオレ」ありのままの自分を生きる
認知症を受け入れて どう暮らしたら家族や本人が幸せか考える
町田紀久子さん 自分を詩で表現 夫が絵を添えプログに
幻視をイラストにし、展示会まで開くようになった三橋 昭さん

【ゲスト】ヤマザキマリ、東京慈恵会医科大学 繁田雅弘教授【司会】賀来千香子,小澤康喬【語り】堀内賢雄

蛭子能収さん「認知症になったとしても オレはオレ」ありのままの自分を生きる

今回のゲストは 漫画家のヤマザキマリさんです。
ヤマザキさんは ビオラ奏者のお母様が2年前に認知症になられたということです。

ものすごい聡明な母親だったものですから まさかそういうことになるとは という衝撃のほうが大きくて、「私は あんな 年をとってもああいう施設に入りたくない」とか「ああいうような 子どもだましなことしたくない」なんて かたくなに拒絶していたのに 見に行ったら やっぱり周りの人たちとも 和気あいあい一緒に何か ゲームをしたりとか 楽しんでたりしてたんですよ。

漫画家で タレントの蛭子能収さん。
蛭子流とも言うべき認知症との向き合い方です。去年7月 蛭子さんは テレビ番組の企画で認知症と診断されました。医師の診断をその場で受け入れた蛭子さん。認知症になったことを公表しそれをテーマにした本も出版しました。『認知症になった蛭子さん』本の中では 蛭子さんならではの認知症の捉え方が紹介されています。
その中で 「俺は 認知症になるのはそんなに恐くなかった。年をとったら物忘れがひどくなるのは あたりまえのこと と思っていた」
「認知症になったとしても、そうでなくてもオレはオレ」

蛭子さんは どのような思いで認知症を公表したのか?
インタビューを申し込んだところ妻の悠加さんとともに答えてくれました。
公表に迷いはなかった。秘密にするのはおかしな話だし。隠し事するのはイヤだった。
でも 隠し事 俺が一番多いかもしれない。ごめんなさい。 言いながら ちょっと矛盾してるなと ちょっと思いました。
悠加さん 本当のところどうなんでしょうか?
日常的にギャンブルの負けた金額は少なめに申告したり 言わなかったり。

本は書いたっけ?と蛭子さんは覚えていません。
幻視の症状で 取り込んだ洗濯物が倒れている悠加さんの姿に見え、夜 寝ている時に急に暴れだしトイレに何度も起きることも。悠加さんの不安は高まる一方でした。 悠加さん は胃腸炎で 救急車担ぎ込まれたことが4度もありました。

俺は わりと軽く考えるタチなんで すごい迷惑かけております。
もし別れると言われたら 泣いてでも謝る

認知症の公表は蛭子さんに大きな影響を及ぼしました。テレビ番組への出演は減り体調を考慮し 連載の数も半分に。仕事が好きな蛭子さんにとってはつらいことでした。
蛭子さんは長崎から上京し26歳の時に漫画家として デビュー。
現代社会の不条理を描くストーリーと「ヘタウマ」と称される独特の絵のタッチで マニアの間で熱狂的な人気を誇ってきました。蛭子さんにとって今の自分を築いた漫画の仕事。
認知症になっても できるかぎり続けたいという強い思いがあります。
続けたい理由は お金。お金がないと 自分で生きている感じがしない。

この日 打ち合わせに やって来たのは4コマ漫画を掲載している雑誌の編集者 「サンデー」の藤江さんです。
仕事を続けたいという思いを周りの人たちも受け止めサポートしています。
仕事の場には 20年近く 蛭子さんを担当してきたマネージャー 森永さんが必ず同席します。

ペンの一部が膨らんでいます。空間を正しく捉えることが難しくなっているのです。編集者が握ったペンを見ながらそれを参考に描き直します。
蛭子さんが この日 考えたのは 富士山に座ろうとする謎の男のストーリー。描き進めるうちに 人と山が合体したような絵が出来上がりました。

一旦は仕事を続けたいと言っているので最後まで仕事を続けさせたい。 蛭子さんの画は蛭子さんにしか描けない。やっぱ そこは本当に代えがたいものがありますね。
画を描くことが残っている 蛭子さんの日々の移ろいを 一緒に体験させてもらっている

再び認知症の症状が現れます。次の予定が入っていると思い込み急に焦りだしたのです。
話を否定せず 面白おかしく会話を合わせていく。蛭子さんを見守り 仕事を続けたいという思いに寄り添っています。

マネージャーは 蛭子さんを見守り 仕事を続けたいという思いに寄り添っています。
お医者さんからも やっぱり フェードアウトすると 仕事の場がなくなる。体調を考慮して できる限り仕事を続けた方がいいと言われた。
蛭子さんは仕事を続けたいと言っているので最後まで仕事を続けさせたい

今は時折 ショートステイを利用しているという蛭子さん。
生活は一変しましたが、悪いことばかりではありません。
悠加さんと過ごす時間が増えたのです。今の一番の楽しみは 悠加さんとの散歩。仕事などで刺激の多い日々を送ってきた蛭子さんにとって初めて訪れた穏やかな時間です。
持ち前の「朗らかな天然キャラ」で笑いを届けてくれる蛭子さん。認知症になった今も これまでと変わらず大切にしたいことがあります。笑われてもいいから喜んでもらう方向に持って行きたい

(ヤマザキ)ふだんと違う自分を見せてるって側面がもともと ない方だったので、ありのままの自分を人としての この現象として 一人の漫画家が認知症になったらどうなるか?っていうことですら楽しみの材料にしてほしい というふうに提供できるというのは ものすごくポジティブ

認知症を受け入れて どう暮らしたら家族や本人が幸せか考える

認知症の専門医 東京慈恵会医科大学教授の繁田雅弘さんです。

(繁田教授)公表すれば楽になるという単純なものではないでしょうけども、知っててもらったらちょっと助けてくれとか ちょっと手伝ってくれとか相談もしやすいですし サポートも得やすいと思うんですけどそれが なかなか できないので やせ我慢しないといけないし やっぱり無理をしないといけないから 精神的にも非常に ストレスは強くなって不安も強くなるでしょうし。簡単では ないと思います。

(ヤマザキ)母はものすごくバイタリティー旺盛な人だったですし 昭和一桁生まれで戦争も経験してきてしかも 夫に早く死なれてシングルマザーとして娘2人を育てた
要するによろいかぶとを3重にも4重にも着てるような人で、しかも こうと決めたら絶対それを達成させるっていう すごい理想主義の強い人間だった。
なので その兆候が出た時に 「お母さん おかしい。今 言ったこと何で また繰り返すの?」とか「お母さん大丈夫?」なんて聞くと 「大丈夫よ」っていうふうに ものすごく あらがうんですよ。
その時に何か こう苦しめてるような気がしてしまって、別にいいよっていうふうにしていくことが大事かなって 途中で気が付きました。

認知症になった方が認知症を受け入れる 認知症であることを認めるためには 何が必要だと考えられるでしょうか?

(繁田教授) 認知症になった自分を許せるかどうかだと思うんですよね。
どうしたら進まないかとか どうしたら悪くならないかって 何をしたらいいですか? になってしまうので、それよりは どういう時間を過ごしていったら家族もご本人も幸せなんだろう?どういうふうな暮らし方があるんだろう?
よくお尋ねするのが「もし認知症じゃなかったら何してますか?」すると「実は退職したら旅行したかった」とか 「もっと娘に料理を教えたかった」とか。
たぶん ご本人とかも気が付くと思うんですけど、全部できることなんですよ。

町田紀久子さん 自分を詩で表現 夫が絵を添えプログに

自分を詩で表現することで認知症と向き合うことができた方です。
「認知症のしわざ」 おでんに殻付きの卵を入れてしまった。でもおいしいと言ってくれたから それで満足

この詩を書いたのは 都内に暮らす町田紀久子さん 81歳。4年前 アルツハイマー型の認知症と診断されました。物忘れなどの症状があるため 今は夫の早登さんが家事を担当し夫婦2人の暮らしを支えています。
紀久子さんには大切な時間があります。日々 感じる思いを詩で表現すること。その詩の世界観に合わせて早登さんが絵を描いています。
磯の香りがして爽やかなえ〜と…。
詩を書いているときの気持ちは ワクワクする感じと言います。もうそこで出来たと思う。

紀久子さんは 30代の頃 子ども2人を育てるかたわら 童話作家として活動していました。本を書いたり 朗読会に参加したり創作を楽しんできました。しかし認知症になってからは言葉が すぐには出てこなくなり 気持ちが塞ぎ込んでしまうようになりました。

紀久子さん 「わからなくなったりして だんだん悪くなりつつある。直せないですね。 イライラすることもあった。」
早登さん 「いろんなことが脳の中から消えていってしまうから 大事なモノが消えて出てこない」

そんな時 早登さんと娘から再び詩を書くことを勧められたのです。
娘の手を借り「毎日がポエム」というプログ(こちら)を立ち上げ 詩を発表するように。
油絵が趣味だった早登さんも 紀久子さんを応援する気持ちから詩に添えるための絵を描き始めました。紀久子さんが初めて投稿した文章にはその時の高まる気持ちがつづられています。

紀久子さんは これまで1か月に2つほどのペースで詩を発表。
認知症になってから書いた詩の数は70を超えました。
今の自分に希望を見いだそうという詩も生まれました。思いのままに言葉を紡ぐ喜びを感じた紀久子さんは 生きる力を取り戻していきました。

ふだんの何気ない散歩も 創作意欲をかきたてられる場になりました。
紀久子さんの心躍る瞬間は生き生きとした自然の営みを目にした時。こんな詩が生まれました。
やまから ながれてきた つめたい みずのうえで あめんぼたちが スケートくつをはいて あそんでいる
つめたいみず だいすき きれいなみず だいすき


最近は手の震えが以前より激しくなってきました。
鉛筆を左手で押さえながら少しずつ言葉をつづります。詩を書き進められるのは1日に僅か2行ほど。
それでも紀久子さんは自分を表現することを諦めません。

「表を出すということ 自分の 表現するしかない 私は」

(ヤマザキ)本当に何か羨ましいと思ったのは ご主人がいつも傍らに寄り添っててね 一緒に作って下さってるじゃないですか。一つの作品をね。やっぱり あれは紀久子さんにとっても張り合いになるというか。

(賀来)「表現するしかない 私は」っていうのもね 本当に ありのまま ピュアだしストレートだし それが すごく びっくりしました。

(繁田教授)さっき ストレートっておっしゃいましたっけ。逆に 自然に自分の気持ちが出るようなことができるようになった というふうにも見えるのかな。
ゆっくりとか遠回りって 豊かさをある意味 含んでるじゃないですか。

認知症になっても感情を表現していくということは大切なことですか?

何か自分が感じたり感動したりしたことを伝えるというのは 自分の心も動きますし相手の心が それで動けば 共感することにもなるのですごく すばらしい体験だと思って。
感情面においては変わらないというのは研究でもあって。
認知症の人アルツハイマー病の人と そうでない人 十数名ずつに協力をして頂いて映画を見てもらうんですよ。
いわゆる感情の変化の曲線なんですけど、認知症の人と そうではない人で比べたら 全然違わなかったです。

幻視をイラストにし、展示会まで開くようになった三橋 昭さん

認知症になったあと次々と活動の場を広げていった方を取材しました。
今年6月 神奈川の平塚市で開催されたあるイラストの原画展。
展示されているイラストは何とも奇妙なものばかり。
トランプを首に巻きつけたエリマキトカゲ。花の周りに漂う 意味をなさない漢字。こちらは二足歩行で ジョギングするヤギです。イラストを描いたのは 三橋 昭さん 72歳。2年前 レビー小体型の認知症と診断されました。700枚のイラストは全て実在しないものが見える「幻視」を描いたもの。

幻視が見られるのは 朝目覚めたとき 目を開ける瞬間の2~3秒間、瞬きすると消えてしまう。

イラストを見て認知症のイメージが変わった人も。
幻視のイメージは 怖い物をみる と聞かれることが多い、実際そうじゃない場合もあることも理解してもらえると うれしい

現在 都内で妻と2人で暮らしている三橋さん。日課にしているのが 目覚めた直後に現れる幻視をイラストに描くことです。
この日は寝室の壁にとある町並みが浮かび上がりました。

図書館の館長を務めていた三橋さん。3年前 車の車庫入れがうまくできないなど 認知症の症状が現れ始めました。年齢のせいだと気にも留めずに過ごしていた ある日のこと。
タマちゃんがトコトコとベットサイドに来たので なでてあげようと手を差し伸べたらすっと中に入った。
なんと なでようとした飼い猫は三橋さんの幻視だったのです。
三橋さんには その後何度も幻視が現れるようになりました。最初は困惑したものの 見たものを記録していこうと考えたのには理由がありました。
この先どうなるかわからない中で 少しでも記憶をとっていた方が自分のためになる。生きていた証になるという 思いが強かった。

三橋さんの主治医 昭和大学医学部 脳神経内科 森友紀子さんは幻視のイラストを見てある可能性を感じたといいます
「三橋さんの持っているイラストの力はとてつもない 今までですとレビー小体型の認知症の幻視は怖いイヤだ。レビー小体型認知症だけは嫌だなって 思ってらっしゃる方がいたりとか。もっとたくさんの人に知ってもらいたい。」

三橋さんは 森さんに勧められ認知症の人を中心としたグループに参加。幻視のイラストを発表するようになりました。
さらに グループのメンバーが資金を募り 本まで出版したのです。「麒麟のような馬をみた」
見たものを きちんと伝えたいと幻視の内容も書き添えました。

これからの人生を前向きに変えて 病気になってしまったと落ち込むよりも、付き合っていこうと考えた方が生き方としては楽しく生きられる。
もしかしたら幻視が見えている人もいるかもしれない。その時に見えてもいいんだなぁと思ってくれれば行った甲斐がある。少しでも気が付いた時に 気軽に診断を受ければ その方の選択肢も広がるはず。将来的に高齢者5人に1人は認知症になると言われているので、もっと世間の中で認知症の地位が上がればいいな。
変な言い方ですけど、正しく知ってもらうことが 一番、そのための活動ができればと思ってます。

(ヤマザキ)認知症になった自分が 何を表現してるかということを認識できてる というふうな形で見るとですね認知症って奥が深いなって。
幻視というのは うちの母にも あったことなんですけども。
ある日 たくさん 黄金のお釈迦様が現れたと言うわけですよ。「どこに?」って言ったら「いや いたのよ」と言うわけですよ。でも すごい縁起がいいじゃないですか。「ラッキーじゃん」って言ったら、私のリアクションを見て この子には見えなかったんだなというのが分かってても 落胆してるわけでもないですし、そういうふうになってる自分というのを どこかで やっぱり ふかんで見ていく段階があるんだなということを 感じました。

(繁田教授)昔から言われてることなんですけど、認知症に限らず 本当に重症の精神病の方もそうなんですけれど ご本人の中に決して侵されないというか 障害されない自分というものが一つあって それは決して障害を受けることがない部分があって それが自分を見ている。まさに三橋さんなんかの場合には 全面に出てきていて それが語ってくれているということだと思うんです。
幻視を見て混乱したり 戸惑ったりする自分もあるけれども それを 冷静に見ている自分がもう一人いるっていうことだと思う。

(賀来)認知症になっても自分らしく生きるというためには どう認知症を受け止めればよろしいでしょうか?
(繁田教授)やっぱり進んでいくというふうに考えると自分が失われるんじゃないかって。昔の自分と同じだろうか?変わってしまってきてるんじゃないか? ということで本人も自分を見失いがちになるし家族もまさに本人を見失ってしまうしということなので最後は 最後の最後はやっぱりそれでもやっぱり本人はそこにいるし 本質は変わらないというふうに信じきれるかどうかというところが 分かれ目じゃないですかね。信じれる人は自分も家族もやっぱり幸せに生きられると思うんですけどね。私は私だからとか僕は僕だからっていうふうになると ずっと強く自分らしく生きていけるんじゃないかなと 思うんですけどね。

(ヤマザキ) まだ認知症でない我々が どういうふうな生き方をするべきかということを私ずっと見ながら考えていました。
ありのままの自分って時々 かっこ悪かったり 笑われちゃったりするけどでも それも含めて 自分が好きなんだと思うことがやがて老齢になってって 例えば こういったような認知症を発症した時も もしかしたら役に立つのかも分からないし。
どうしても認知症にならないためにとか 防止とか 認知症になることを ものすごく否定的に見なきゃいけないという この社会の 傾向というのを 根本的に直してもらうところが一番大事かな。

(賀来)今まで認知症って本当に本当 申し訳ないですけど 認知症 何かね 怖いっていうような。今日 皆さんが本当に生き生きと豊かに生きていらっしゃるし だから本当 その本人らしさって大切だなって。

▽まとめ&感想

いろいろなことが抜けていて 認知症が始まった?何て言われている私です。
認知症であっても 受け入れていけたらいいですね。