大河 徳川慶喜 第49回 (最終回)「無血開城」▽あらすじメモ(超ネタバレ)

チャンネル銀河 2020/11/20(木) AM8:00~

山岡鉄太郎は勝海舟に託され 西郷吉之助に会い 慶喜の処分を説得

慶応4年(1868)2月

駿府 大総督府本営
山岡鉄太郎(伊武雅刀)は勝海舟の使者として 東征軍 参謀長 西郷吉之助(渡辺徹)と会っていた。
江戸攻めを免れる条件のうち、慶喜を備前藩に預けることでもめていた

西郷「すべての条件は、満たさなければならぬ。これは朝命です。」
山岡「徳川家家臣は絶望し お城に火を掛け自刃する事になる。大奥とて同じです。」
西郷「静寛院宮様、天璋院様の命を 狙うと仰せか」
山岡「いえ、家臣の激高抑えきれるか約束できない。上様を他藩に預けるということは上様の死を認めること。お尋ねする 島津公が殿と同じ立場なら どうされる
西郷「考えましょう。」「有り難きお言葉です。」

上野 寛永寺
慶喜(本木雅弘)を寅之介が訪れ 後日、勝殿が西郷と会い、話を詰めることになったと伝えた。
水戸藩主は、数日中に水戸に下られることになった。
市川三左衛門達は水戸から脱走したそうです。ただ慶篤のお体の具合 芳しくない噂があります。

水戸城
貞芳院(若尾文子)永原帯刀(佐藤慶) が「都に詰めているものが尊王の志を回復されるべく勅旨をいただき戻るとの事であります。」
貞芳院「知っている。慶篤も戻るそうだ。綾小路 これを 有栖川宮熾仁親王様にお届けするのだ。」
永原「私が参ります。有栖川様は 今 官軍の 東征大将軍 でおなごには無理です。」
貞芳院「おのこが行けば 怪しまれます。しのと2人で行くのだ。この間の文にご返事いただいた。私からと言えば お目もじ頂けるとと思う。」

永原「何も役に立たず 申し訳ありません。」
貞芳院「あなたは 右手が不自由なのだ。淫らな本を書くこともなく 人を斬ることもなくなった。あなたは 私のソバ近くにいて、共に余生を終えればいい。それより心配なのは 子供達だ。」

勝海舟 西郷吉之助 に嘆願申し入れ 持ち帰り検討引き出す

上野 寛永寺
慶喜(本木雅弘)を西周(にしあまね:小日向文世)が訪れ「官軍の 先鋒は 今駿府にいます。
勝殿との談判のため、参謀長の西郷が明日都に参ります。」
慶喜「最後通牒ということか」
西「そのようです。勝殿は今イギリス公使パークスと終始連絡を保ち、官軍が江戸を攻撃するときがあれば、諸外国は市場を失い 数年に渡り日本に戦争が広がるだろうと圧力を掛けています。」
慶喜「勝にその方達の力貸すのだ。なんとしても江戸が戦いの場にならぬよう。」

江戸 高輪 薩摩藩邸
西郷吉之助が 陸軍総裁 勝海舟(坂東八十助)を迎えて、「勝先生 おひさりぶりです。」
勝「あなたと敵味方となって 会うのは残念なことです。」

この日は挨拶程度で終わった。翌日に膝を詰めて話しあうことになった。
官軍はこの日 イギリス公使パークスと会っていた。それを勝は知っていたそうだ。

イギリス公使パークス万国公法をもってすれば、徳川慶喜は降伏し、無抵抗を表明しているから これを時化にすることは出来ない。また朝廷の目的は、あくまでも 徳川幕府を潰し 政権を奪取することであるから 今や江戸城を受けとることで 完結するはずである。 旧幕府は引き渡すと言っている それを一方的に攻撃するのは 万国公法に反する。さらに戦争を始めるならこの横浜居留地にも関係するので、日本政府から諸外国に正式な通知がなくてはならない。それは日本が無政府状態であるということだ。

江戸 高輪 薩摩藩邸
西郷吉之助に勝海舟が「過日駿府でご提示いただいたことに対し、徳川家からの嘆願書です。あなたの正義に頼るほか道なく嘆願いたすものです。」
西郷「勝先生 お手をお上げ下さい。早速ですが 少々異なるものあります。前将軍 慶喜 水戸への退去。軍艦武器引き渡しについて 相当数を徳川家の残すことなど。これらは徳川家再興に繋がるもので 受け入れがたきものです。」
勝「これは身を伏しての嘆願です。上様が水戸への退去認められれば 益々恭順謹慎するでしょう。また 軍艦武器を徳川家にの残すのは 一大名として 家臣への配慮です。徳川家 家臣と申せ、これから先 生きていかなければなりません。そのもの達を養うため 武士としての誇りが 保てるよう何ほどかのものは必要にございます。それが騒乱を呼ばぬ配慮です。我が国全体を 沈静させる 手立てです。」
勝「いずれにせよ、それがし1人では判断出来ぬもの。これを総督府に持ち帰り検討いたす。」

東征大総督 有栖川宮に西郷が嘆願書示し 江戸攻め中止に

駿府 大総督府本営
東征大将軍 有栖川宮熾仁親王に西郷は 、徳川家からの嘆願書を見せた。
有栖川宮は「戦のことはよく分からないが、穏便に運べるならそれに越したことはない。慶喜の、恭順謹慎は偽りではないんだろう?」
西郷「そのように 望むものです。」
有栖川宮「朝廷の方に、静寛院宮様から重ねて 嘆願書が差し出され、わしの方にも多くのものがきている。宮に万が一のことあれば それこそ一大事にて 朝廷会議の結果でるまで、江戸攻めを延期してはどうか」「はい」
有栖川宮「早速、江戸総攻撃をひととき 延期すると命令をお出しなさい」「はい 承知つかまりました。」

江戸 浅草 を組
若衆を前に 新門辰五郎(堺正章)が 「まもなく 総督軍だが知らないが 江戸に攻め入ってくるって話だ。
俺たち 町火消しは、公方様のお膝元を守るために今日まで働いてきた。この新門組は 都まで公方様のお供をした格式のある 町火消しだ。敵が入ってきたら1匹だって容赦するな。」「へぇい」
「首引きだけでは間に合わない。それぞれ槍や刀探してこい」「へぇい」
辰五郎「今 上野の寛永寺に公方様おいでだ。彰義隊や新撰組がその廻りを守っている。」

れん(大原麗子)が慶喜様が恭順謹慎しているのに他所で騒ぎを起こしたらまずいんでないか?心配する。
ガンツム(山下真司)が戻り「大変だ。彰義隊から聞いた、官軍の江戸攻撃は、明日という話だ。
辰五郎が飛び出ようとすると、およし(清水美砂)が「慶喜さんは負けたんだ。そとしておいてあげなきゃかわいそうじゃないか。人の不幸を楽しむな。」と言う。
そこに、ガンツムの母おとき(三条美紀)が「これはお上のケンカで町方に関係ないんです。」と現れ連れ帰る。れんも およしも 「そうだよ私達に関係ない。終わったんだ。」

上野 寛永寺
それからしばらく 裏の方で いろんなやりとりがあった。
そちこちから 嘆願書が出たり、パークスが圧力を掛け 江戸攻めは寸前で 取りやめになった。

西郷ら江戸城へ入城 徳川慶喜の死一等を減じる勅旨

江戸城
慶応4年(1868)4月4日
大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。
橋本らは大広間上段で、下段の16代当主 田安亀之助(後の徳川家達)に対し、徳川慶喜の死一等を減じる勅旨を下した。

江戸 一橋家
御当主様のお出ましと、一橋家 当主 徳川茂栄(石丸謙二郎)が  徳心院(鶴田真由)美賀(石田ひかり)を訪れた。
茂栄「吉報です。上様 死罪一等のお許しがあって 水戸にて謹慎となりました。」
美賀「上様にいつお目もじできるのだ?」
茂栄「お許しがあっても 謹慎の身分でしばしは無理かと存じます。」
徳心院「徳川家のご処置はどうなったのか」
茂栄「家臣は残ることになりましたが、お城を明け渡すことになるました故、領地そのほかにつきましては、いかなることになるか 判りません。」
徳心院「上様の命が助かったのだ。それに勝ものはありません。美賀よかったな。」

水戸慶篤 亡くなる 薩摩出身の天璋院も立ち退き

水戸城
貞芳院(若尾文子)が病床の慶篤(内野聖陽)の手を握って、名前を呼んだ。
慶篤は「母上、ここはどこでございますか。」「水戸城藩主の部屋じゃ。病に負けてはなりません。」
慶篤は「慶喜 …」言いかけ、亡くなった。

永原が、慶喜に 「慶篤様が最後まで 上様の身を心配し 息を引き取りになられたと貞芳院様が仰せになった。慶篤様13歳にして、斉昭公を継がれ 藩主の座につかれたが、藩内が2つに分かれて争いご苦労の絶えることありませんでした。此度も本圀寺勢が勅書をもって戻りましたので、新たな戦いが始まると思います。

江戸城 大奥
勝海舟が将軍家定の正室 天璋院(篤姫・深津絵里)を訪れた。
高部(園佳也子)が「安房守殿、なぜ 天璋院様が お城を立ち退かなければ いけないのですか」
勝「天璋院ばかりではなく 海軍との取り決めでお城を明け渡し、城内に住居するものは立ち退くことになったのです。」
高部「官軍とは 薩摩を中心ではありませんか。 天璋院様は薩摩島津家の御出身。他の者とは違います。」
勝「そのことは 重々承知しています。 官軍の参謀長は 西郷吉之助でございましょう。西郷を呼びつけなさい。」
瀧山(佐々木すみ江)が「安房守殿、城明け渡しと言っても 形の上でのことでしょう。2.3日でまだお戻りになるなんて、気ぜわしいではありませんか」
勝「そうではござらん、徳川家は負けたのです。城明け渡しは 朝廷の命令で、従わなければなりません。静寛院宮様は昨日 清水家の方にお移りあそばした。」
天璋院「安房守、朝廷は徳川家の家名を許したので ありましょう。この城を預かるは尾張藩と聞いている。尾張は徳川御三家の一橋家じゃ。されば尾張藩主 徳川慶勝殿と話す。私が動かずともよいようにいたします。」
勝「尾張藩預かりと申しても、それは一時のこと 新たな措置が決まると存じます。尾張藩もまた負けたのです。」
天璋院「なぜ私が立ち退かねばいけないのだ、無礼でしょう。」

天璋院様も 結局立ち退かれた。

慶応4年4月11日 無血開城 慶喜水戸で謹慎

慶応4年4月11日 いわゆる 無血開城となった。

江戸城から 公方様がいなくなるなんて 考えられない事だった。
慶喜様は、その日 朝早く 上野を発って 水戸に向かわれた。あっちら千住までお見送りしたけど、うちの人は水戸までお供することになった。

水戸 弘道館
番人 幸吉も加わり、皆で清掃して迎える準備をした。
上様は至善堂が出発点、幼少よりここで勉学に励まれた。
永原、梅沢孫太郎(中原丈雄)、寅之介が迎えた。「お帰りなさいませ」
辰五郎に「ご苦労であった。」「他の者もご苦労であった。」
「皆、下がってよい」「はい」

夜になり、貞芳院が訪れた。
貞芳院「お帰りなさい。 長い間ご苦労様にございます。」
慶喜「朝敵の汚名を被りましたこと、父上、母上に申し訳なく 深くお詫び申し上げる。」
貞芳院は駆け寄り「徳川宗家を救った。よくやりました。外国とも戦争にならず、この国が二手に分かれて争うこともなく、江戸の町も救ったではないか。よくやりました。そのための汚名なら、母も喜んでお受けいたします。そなただけを朝敵にいたしません。斉昭公もきっとそなたを誇りに思っているでしょう。」と言い慶喜を抱きしめ、「そなたのために 何もしてやれなかった母を許して下さい。」
慶喜は、今までと打って変わって、赤子のように涙しました。

それから1月ばかりの間に 彰義隊の事件や 東北の方で戦いがあったし、水戸では天狗派の人達が、帰ってきて色々あったらしいけど 慶喜さんは謹慎の身だから たいしたことは出来なかった。

— 回想—-

番人 幸吉が さくらは江戸に戻っていたが、水戸に帰らず、彰義隊の男と上野の山にいたそうです。彰義隊と一緒にあの戦で消えてしまったということです。

生麦 旅籠 麦屋に 洋装のうめが帰ってきた。

結局 徳川家は江戸から駿河に移って70万石になった。 この年の9月8日に 明治という年号になった。慶喜は水戸から駿府に移って 1年後に朝敵の汚名を返上することが出来た。

— 美賀と貞芳院に挟まれた 集合写真—

その後日本に起こったことは 皆さんご存じの通りだ。

西南戦争、大日本帝国憲法発布、… … 平成大不況
(完)

▽まとめ&感想

山岡鉄太郎は勝海舟に託され 西郷吉之助に会い 慶喜の処分を説得。
勝海舟 西郷吉之助に嘆願申し入れて、持ち帰り検討する事引き出す
東征大総督 有栖川宮に西郷が嘆願書示し 江戸攻め中止に。
西郷ら江戸城へ入城 徳川慶喜の死一等を減じる勅旨がでる。
水戸慶篤 亡くなる 薩摩出身の天璋院も立ち退き。
慶応4年4月11日 無血開城 慶喜水戸で謹慎に。

※この放送は、字幕が出ません。私が理解できない言葉があり、間違っていたらゴメンナサイ。

最終回になりました。
歴史の 江戸城 無血開城が こんなにも 詳細な事情があったことに 驚きました。
大河は 史実 なのが改めて感じました。

そして今回は女性陣が強く 皆 凛としてました。
貞芳院、天璋院、静寛院宮、徳心院、れん、およし