北畠親子が奥州に出陣 護良は廉子の企み?
元弘三年十月、北畠親房(近藤正臣)・北畠顕家(後藤久美子)親子は幼い義良親王を奉じて奥州へと出陣した。これは帝が公家を通して 直接が支配するという 後醍醐帝の考えを実行に移したものだった。護良親王一派は、この奥州行きを別の視点からとらえていた。
護良親王(堤大二郎)のところへ文観(麿赤児)が呼ばれ、 殿の法印から、自分達の派である北畠親子を奥州に行かせ 自分達から遠ざけようというのは、阿野廉子(原田美枝子)の企みで たぶらかされていると責めた。
護良は「おろかな局よ。我らは同じ公家ぞ。公家が公家の力を削いでどうなる。敵は武家 足利じゃ!」と叫ぶ。
足利の関東支配認められ 直義が成良親王と鎌倉に行く
そのころ足利尊氏(真田広之)は帝(片岡孝夫)に関東への足利軍派兵を求めるべく参内していた。
千種忠顕(本木雅弘)が廉子に告げると、帝に取り次がずに 女房達に立花の手ほどきに来ていた佐々木道誉(陣内孝則)に尊氏の相手をさせるように命じる。
派手な赤い直垂の道誉は、待たされている尊氏に、帝がひとたびダメといえば、望みが無くなる、まずは 廉子に会わせる。
廉子のそばには千種忠顕と坊門清忠(藤木孝)が控えていた。忠顕が都を守る役目の尊氏がなぜ、無法な振る舞いに及ぶ護良親王をそのままにしているの問い、さらに護良が皇太子の座を狙っていると口にする。
廉子は、尊氏に 子と離れて暮らしているのは似ており、助け合おう、帝に伝えておくので、明日また参内つかまつれとあしらう。
内裏から引き上げようとする尊氏に、道誉が、廉子は護良を討てば 話を聞くと要求しているのだと、教える。尊氏は「わしは取引など嫌いじゃ。」と、内裏の奥へと進んでいった。
尊氏はついに後醍醐天皇と向かい合った。廉子や清忠、忠顕たちも集まって様子をうかがう中、尊氏が足利の兵を関東送りたいと申し出る。
後醍醐は「朕の定めし儀に異議があると申すか!」尊氏に「直答を許す」と言って御簾をあげさせ、そばへ近づける。
尊氏は東国を公家の手だけで乗り切れるとは思えず、北畠親子につけられた 結城の一門に、北条につく者がおります。東国には北条に恩を感じ、事あらばと弓矢を離なさないものが、大勢いる。奥州で乱が起これば関東、都にまで広がるのは早い、新田殿の鎌倉攻めを見れば おわかりだろうと訴えた。
「関東では朕の政が通らぬと申すか?」と問う。
尊氏が 最近の公家方が争い、武家も角突き合わせて、関東を治めるなど遠い道と訴える。
後醍醐は公家の争いは自分の不徳のいたすところ、だが武家の束ねは尊氏に託したはず。
尊氏はそれを認め「武家は力あっての武家 。関東1つ任せられぬ武家、他の武家がなびかない。関東を任せて。」と訴える。
後醍醐天皇は心を落ち着かせ「ありていに申せ。そちはこの都を捨てて再び北条のごとく関東に幕府を開く心づもりであろう。」
尊氏は「それがしは天下を率いて立とうとは思いませぬ。天下を率いるは肩が凝りまする」と答え、自分は臆病者で、ただ乱で死んでいった者達のために良い世の中を作りたいのだと述べる。
この言葉に後醍醐も、「朕とて同じじゃ。尊氏の申す通りじゃ。天下を率いるは肩が凝る。よろず己が決め、おのれが見るのじゃ。肩が凝る。」と言い、尊氏に関東へ兵を送ることを許した。なれど尊氏は都の守り 動いてはいけない。鎌倉には弟の直義を遣わすよう命じた。
そして「そうか、尊氏も肩が凝るか?朕も、肩こりじゃ。ハハハハハ!」と、笑うのだった。
そうして、直義は軍を率いて鎌倉へ下っていった。
朝廷は、帝の皇子 成良親王を直義に預け これで足利軍が帝の意思による、帝の軍であることを認めたのである。足利家が、関東の支配を公に認められた 瞬間であった。
軍の出発を内裏から見送る後醍醐に、廉子が「なにゆえお許しになられました?」と問う。
後醍醐は「足利は子を鎌倉に置き、関東に 布石を打っている。許さぬと申しても詮無きこと」
足利以外に関東を、押さえられるものがいないことを認め「北畠と競わせ、東国を守らせるも面白かろう。朕の政には強き手足が要る。足利は欠かせぬ男よ。あれを敵にしとうはない」
「せめて護良が足利ほどの器量なればのう」とつぶやく。
この言葉に廉子は複雑な思いだった。
護良方 足利討つべし
護良は猿楽の宴にかこつけて四条隆資・一条行房といった公家や新田義貞(根津甚八)・義助(石原良純)兄弟、岩松経家(赤塚真人)、楠木正季(赤井英和)らを集める。
足利が鎌倉に派兵し、関東の主になったことで、鎌倉に幕府を開き、朝廷にやがて牙をむくだろう。
廉子は子を帝にしたいため、尊氏に結びついたとみた。
各地の武士にに足利討伐の令旨を発して兵を集めることを宣言、「足利討つべし!」と一同で気勢を上げる。義助や正季はすっかりその気になっていた。
しかし義貞と経家は迷っていた。
経家は足利について鎌倉の御家人として生きる道もある、と義貞にもちかける。
しかし 義貞は「誰の支配も受けたくはない。わしを支配できるのは帝だけじゃ」護良にも尊氏にもつかないことを明言する。
その時、義貞は物陰に気配を察して短刀を投げつける。
「足利尊氏を討つ 心あるものは都に待つまれ」護良の密使が諸国へ走った。
鎌倉幕府が倒れて、僅か半年もはや、都はきしみ始めていた。
建武 になり 新政を進めるが黄信号・石は美濃の土地を得る
年が明け(1334)年号が「建武」と改められた。後醍醐は平安時代のような大内裏の造営を考え、その財源として全国に「二十分の一税」をかけることとした。
また当時流通していた輸入宋銭に代わる新貨幣の鋳造を計画し、それによって経済の大元を押さえ、同時に天皇の権威を示そうとした。しかし戦乱が続き、納税に応じられる人は少なかった。貨幣の鋳造の計画も虚しかった。
そんな世相を「このごろ都にはやるもの、夜討ち・強盗・偽綸旨…」と風刺する長文の落書が二条河原に掲げられ、都の人々の評判となる。(ろくなものしか 流行らない)
これを藤夜叉(宮沢りえ)・不知哉丸の母子が眺めていると、「これは先が思いやられますなあ」と、柳斎に扮した一色右馬介(大地康雄)がと声をかけてくる。
そこへましらの石(柳葉敏郎)が駆けつけ、決断所の役人が置いていった 綸旨を藤夜叉に見せる。
俊基の書き付けの件での不手際を認め、代わりに美濃 遠山荘に土地を与え、その地の代官に任じるというものであった。
落書を見ていた男達が「偽綸旨ではないか?」とからかう。
お上が、何でも決めるから、偽綸旨が流行るそうだ。
石は怒って男達を追い払い、正季に確認してもらおうと飛び出していった。
藤夜叉に右馬介は「あれは真の綸旨」と保証して美濃に行くよう勧める。綸旨は尊氏が手を回したものだった。
石が正季の屋敷に行くと、屋敷内は兵であふれ、足利との戦の準備に忙しい。
驚く石は、正季に綸旨の確認を求めようとするが、戦に出てしまう。
宮派 集結 ・足利が仕掛ければ開戦
都に向かい畿内各地の軍勢が押し寄せてきた。それに呼応するように 都の中の有力大名達が、護良親王館に集まり始めた。宮派の軍勢が戦に向かい走り出した。
これを予期したように、足利家も六波羅一帯に兵を集めた。
都は一気に開戦前夜に突入した。
ところが当の尊氏は登子にあてた手紙などを書いており、のんびりしていた。
そこに、赤・緑・黄のきらやかな直垂の、佐々木道誉が尊氏の屋敷に駆けつけて来た。
道誉は「戦じゃ 戦じゃ!」と意気込んできて、宮方は続々兵を集めている。神泉苑から向こうは2万の兵で固められているというぞ。 こちらは兵は揃って居るかと尋ねる。
尊氏は師直があちこち駆け回って集めているがのう、直義が鎌倉に半分持っていたのでままならぬようだ。
道誉はいらついて護良派についた武士を次々と挙げる。
だが尊氏は道誉に菓子をすすめて、「わしは、戦はせぬ。戦をすれば 再び京は灰になる。」
右馬介に探らせたので、義貞や岩松など内心腰が引けており、こちらが仕掛けない限り、動こうとはしないだろうと尊氏は見ていた。
ただ弟君が動いており、楠木正成の動向だけは読め ない と尊氏は言う。
右馬介が「あとお一人、佐々木判官殿のご心底も分かりませぬ」、道誉が護良の腹心・殿の法印と何度も会い、足利との戦になれば、宮方につくと聞いていた。
青ざめる道誉に尊氏が懐から紙を出し「判官どの、菓子くずが」と投げる。
道誉は「これはしたり」と苦笑い。
ここで道誉は「自分が宮方につくと言えば宮方が勢いづく、いさんで、宮が立つ。宮が立たなければ 尊氏は立てない。いくら何でも、宮を相手に、足利が仕掛ければ、世のそしりを受けると思い、「御辺がやりよいように動いてみたんじゃ。」
尊氏が「私に戦をさせようとするのか?」 と聞くと
「宮がいては都はまとまらぬ 。この機に乗じて、宮を討ち天下を取る下地を作るべきだ。」
すでに新政の行く末に見限った道誉は、尊氏に開戦をけしかける。
「御辺が公家に勝てば 皆 お御辺になびく」
この夜、公家と武家の戦いが まさに火蓋を切ろうとしていた。
▽まとめ&感想
北畠親子が奥州に出陣 護良親王は足利を嫌い 廉子の企みを疑う。
足利の関東支配認められ 直義が成良親王と鎌倉に行く。
護良方 足利討つべし。
建武 になり 新政を進めるが黄信号・石は美濃の土地を得る。
宮派 集結 ・足利が仕掛ければ開戦 道誉 宮を討つことけしかける。
朝、太平記を見ていて、夜 麒麟がくるを見ていると、派手な婆娑羅の佐々木道誉が今井宗久に
頭が混乱してしまいます。
佐々木判官の衣装、派手ですね。これにばかり、目が行ってしまいます。
やることも派手で、宮を討つことを、けしかけます。