所JAPAN 明智光秀はなぜ信長を裏切った?最新古文書から本能寺の変(秘)新事実▽こんな話しでした

歴史に学ぶ 新型コロナとどう生きる?

磯田先生、歴史家として、どんなパンデミックも終わらなかったものはない
100年前スペイン風邪に襲われた。
「3密」を避けるとかしなかったので、約1%の人口を失った。

スペイン風邪:1918年から世界中に猛威を振るったインフルエンザ。
死者数 .. 世界全体4000万人以上、日本約40万人。

首相 原敬がインフルエンザにかかる。
(感染症の最高峰の研究所が記念パーティを中止せず、首相を呼んで開かれ、その帰り道罹患を知った。)
スペイン風邪は終息まで、約2年かかった。コントロール手段を知っている。

滋賀県 犬上郡多賀町の多賀神社に書状:佐目の里で光秀誕生

多賀神社に明智光秀直筆の書状 天正10年6月6日、本能寺の変の4日後

京で信長を討ったら、安土城に少人数送り、大阪に進撃し、近くの敵を破壊するはずなのに、その奥の多賀神社に「うちの軍は、乱暴しません」と出している。
明智光秀は、滋賀を本拠地にしようとした。

大河は、わかっていないので、自由に作れた。道三に仕えていない。
有力な出身地が6個もある。最初に古文書に出てきたのは、滋賀県高島
明智光秀は、滋賀出身、それを裏付ける史料が2020年1月見つかった。
資料は滋賀県大津市の滋賀県立図書館にあった。
江待聞伝録』1672年に書かれた、近江の郷土史。木村重要なる人物が、聞き取り調査した取材メモ。本能寺の変から90年後。

佐目の里(多賀町)に明智十左衛門という侍が美濃国から退き、2、3代住んだ
息子十兵衛光秀が生まれた。近江で、光秀が生まれた。
江州(近江)の生まれなので、山崎の合戦に当国衆が参加して、皆没落してしまった。
多賀大社周辺で、味方を募っている間に、秀吉の中国於お返しを許してしまった。
これほどの情報があるものは、普通は写本がもっと拡がるはず。
明智家の黒歴史でしゃべっていなかった。
光秀は、美濃の土岐という名門豪族の一族であることをアピールするため、滋賀生まれを隠してた。

明智光秀の人物像、野心家で、光秀広告代理店

朝倉義景に、200万石の約束で内定が決まっていた。
川で、大黒天を拾ったものは、1000人を従える大将になると、昔から言われている。
しかし光秀は、1000人の大将は、本望ではないので、捨てた
自作自演でないか疑っている。芸能界にもそういう人いるんでは?

多賀神社近くで、十兵衛をかくまった見津(けんつ)一族

滋賀の多賀神町 佐目に「十兵衛屋敷跡」と書かれた大きな看板が立ち、その前で、見津(けんつ)一族の方がお話をしてくれました。
その名の由来は、光秀の「光」から取られ、『みつ』と読むのはおこがましいから『けんつ』にした。
光秀は『謀反人』のイメージが強く、ひっそり400年、光秀の話が出来なかった。大河ドラマを機に、光秀に誇りを持てるようになり、うれしい。

光秀にまつわる謎・ウワサ

本能寺の変は、妻との死に別れが決心させた

煕子さん、本能寺の前に亡くなっていて、もし失敗して返り討ちにあっても先に亡くなった妻煕子の元に行ける…光秀は失うモノはないから一か八かの勝負に出られたのではないか。

疱瘡を患った煕子殿を見て 「人の容姿は変わっても、心の美しさは変わることはない
煕子様が髪を売って、お金を工面し、光秀を助けた。

比叡山の麓の坂本に、明智光秀一族の菩提寺の西教寺があります。(かなり立派です。)
妻・熙子の墓所もあります。光秀より先になくなり(本能寺の変の6年前)、当時、戦国武将は穢れを避けるため、妻の葬儀に参列しないことが慣わしでしたが、光秀は熙子の墓前で見送った。

光秀の首で一攫千金を狙う、落ち武者狩り

本能寺の変の11日後、山崎の戦いで敗れ、坂本城に向かう途中、明智光秀が落ち武者狩りで討たれたのは伏見の小栗栖というところらしい。
落ち武者狩りは、武将ひとり2000~3000万円もらえたらしい。負けた側が、生存して逃げるのは、合戦より、恐ろしい。
明智藪という石碑が建立されています。その先道はL字になっており、襲うには格好の場所でした。

本能寺の変は死を覚悟していた。

京都御所に近い、廬山寺(ろさんじ)の、源氏庭(げんじてい)に桔梗の咲く庭があります。
(廬山寺は、紫式部が生まれ育った邸宅があった場所で、源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことだそうです。)
ここに、光秀の念持仏の地蔵菩薩が残っていて、陣中にも持ち出していて、お顔がすれて彫りが浅くなるほど、なでていたとのこと。
残っているのは、山崎の戦いに持ち出さなかったから。
神仏を焼き払う、信長を倒したことで、静で平和になるだろう。目的は達成した。

光秀と天海の書状の筆跡鑑定は、別人だった。

天海は、100歳以上の長命であったと言われ、家康・秀忠・家光に仕えた。
明智光秀と同一人物という説があります。
日光に明智平と呼ばれるところがあり、天海がそう名付けたという言い伝えがある。
徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用されている。

(『明智光秀』早乙女貢著 を読んでみたら、同一人物との設定でした。)

そこで、筆跡鑑定を行ってみたところ、別人でした。

▽まとめ&感想

滋賀県 犬上郡多賀町の多賀神社に書状:佐目の里で光秀誕生。
多賀神社近くで、十兵衛をかくまった見津(けんつ)一族。
本能寺の変は、妻との死に別れて決心。
光秀と天海の書状の筆跡鑑定は、別人だった。

光秀にまつわる謎・ウワサということで、大河との関係はゼロ。
どうにでも、想像でき、面白かったです。

滋賀生まれだったら、道三様にも、会っていないことに。帰蝶様とも関係なくさみしくなってしまいます。
天海と同一人物だったら、皆いなくなったあとまで、生きていたことで、すごいことです。
紫式部の廬山寺、お墓のある西教寺など、行ってみたいと思いました。