所japan 最新古文書から本能寺の変 新事実▽信長が光秀を足蹴に、 三好一族との因縁

フジテレビ 4月13日(月)午後10:30~11:24
【明智光秀はなぜ信長を裏切った?最新古文書から本能寺の変(秘)新事実】
出演:所ジョージ、佐々木希、磯田道史、陣内智則、パックン(パックンマックン)
ビビる大木、三田寛子

今回は、歴史学者・磯田道史先生と“本能寺の変”に隠された謎“明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?”について調査する。戦国時代の宣教師 ルイス・フロイスが書き残した「フロイス日本史」に信長と光秀に関するある記述が。「信長と光秀が密室で大声で口論していた」という内容だが、当時、信長に対して長年仕えてきた光秀が歯向かうなど到底、考えられないこと。一体、2人に何があったのか?近年発見された古文書から見えてきた明智光秀の苦悩とは?さらに所ジョージもビックリ!裏切りのきっかけに、ある名刀の存在が…。日本史最大のミステリー“本能寺の変”を磯田先生が独自の切り口で解説!

出典:関テレ HP

宣教師 ルイス・フロイス、「信長が光秀を足蹴にした」

信長と親交のあった、ポルトガルの宣教師 ルイス・フロイスが書き残した「フロイス日本史」(長崎県 大村市 歴史資料館蔵)

・信長と光秀に起こった出来事
光秀が信長に反論、逆上しやすい信長は、怒り、光秀を3度足蹴にした。

信長と光秀は、互いに信頼し合う上司と部下

「信長公記」(高台寺蔵)
光秀の働きは天下に面目を示した。次は 秀吉

「明智光秀 家中軍報」
瓦礫のようだった私をすくい上げてくれた、信長様には、莫大な恩義があり……
(1581.6.2 本能寺の変のちょうど1年前)
口論の原因は?
大河をやると、新資料が出てくる。

明智光秀が、文献初登場の近江・田中城で三好一族と対戦

明智光秀 戦国デビューの記録が、熊本市の県立美術館、新らたな古文書見つかった。
実は、別の文書の裏に書かれており、最近気づいた。

明智十兵衛が、高嶋田中城に籠城永禄9年(1566) 30代半ば
身分の低い足軽と言われている。
『針葉方』 薬の作り方、腹の傷には、ケシの殻などを煎じて飲ませるなど、光秀が医術の知識を、田中城で口伝したと記されている。
光秀は医療の知識でチャンスを掴み、歴史の舞台に登場した。

近江田中城(現 滋賀県高島市)は琵琶湖の西岸北西部にある。
(地図を見たら、足利義輝が身を寄せた、近江の朽木谷の近くでした。)

磯田先生と、千田嘉博先生、ルンルンで田中城へ。
はっきり言って、しょぼい城です。
田中城は、石垣や天守はない、寺の跡地を利用した山城で、各所に防衛のための仕掛けがある。
自然の形を利用した要塞で、切岸(人が上れないよう、人工的に削った急斜面)
磯田先生ダッシュ、道を曲げている、土塁(土を盛った人工の壁)、山頂にはのろし台、つぶて石が大量にありました。

田中城で、光秀が戦ったのは、三好一族
(大河の三好長慶(山路和弘)、松永久秀(吉田鋼太郎)ですね。)
四国・徳島県を治めていた豪族、室町幕府を追い込み、京都に勢力を伸ばしてた。
光秀は、三好バスターズ。

これは、信長と光秀の口論に関係します。

三好一族と、本能寺の変の関わりは?太刀 光忠

岡山市 林原美術館。岡山城の近くで、磯田先生、うちの先祖の仕事場

「太刀 銘 光忠」重要文化財 磯田先生大興奮です。刃文がよく見える光のあて方

実は、欲しかった名刀が引き金。
信長は、光忠が大好きで、20本くらい集めた。
三好一族の討ち死にした武士が持っていた光忠を見て、信長は、三好の持っている、室町幕府から奪った財宝に、心が動いた。
信長の四国外交方針にも影響を与えていた。

本能寺の変 三好、長宗我部との四国外交をめぐって起きた


信長は、四国統一の責任者に光秀を任命。因縁の宿敵、三好一族を討つため、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)と同盟を結び、三好一族を攻撃。
しかし、信長が、三好家と接触、四国を分けろと。長宗我部攻撃も考えている。
光秀は、板挟み状態。
林原美術館の古文書から、光秀と長宗我部元親の、生々しいやりとり
石谷家(いしがいけ)文書』には、光秀と長宗我部元親を、必死に説得するやりとり
斎藤利三書状」に元親、惟任の文字が
信長が出している四国の領地分けも元親のためになると説得(本能寺の変の半年前の手紙)
「長宗我部元親書状」には 何事も何事も頼む。懇願されている。

※光秀は惟任日向守源光秀(これとうひゅうがのかみ)、斉藤利三は春日局の父

ルイス・フロイスが書き残した、信長と光秀の口論は四国外交が原因
光秀の家老の斎藤利三が長宗我部元親の親戚だからって、肩入れして、部下と俺(信長)どちらが大事か!推測される。
結局、光秀は四国担当解任。
信長は、三好と組み長宗我部攻め決行(1582.6.2 本能寺の変当日)
三好は大阪湾の制海権(船で安全に渡る力)を持っていた。
毛利攻めの、安全確保のため、信長は、自分の子どもまで養子に入れていた。
信長が、心変わりしていた

本能寺の変半年後、「近衛前久(さきひさ)書状」光秀と親しかった公家の手紙には、
信長に忍び寄る、怪しい影
四国を三好へやるか、長宗我部にやるか、関白が関わっている。

関白 近衛前久に長宗我部が擁護を依頼、信長の元に行ったが、佞人が暗躍し、讒訴していた(黒背景説)

佞人(ねいじん)( 口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)
讒訴(ざんそ)( 他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。 陰で人の悪口を言うこと )していた。

信長はミスをしてしまった。毛利攻めは、光秀に、四国の外側を、海路で、長宗我部経由で行えば良かった。

▽まとめ&感想

宣教師 ルイス・フロイス、「信長が光秀を足蹴にした」
信長と光秀は、互いに信頼し合う上司と部下であった。
明智光秀が、文献初登場の近江・田中城で三好一族と対戦。
三好一族と、本能寺の変の関わりは?太刀 光忠
本能寺の変 三好、長宗我部との四国外交をめぐって起きた。