NHK総合 2022.8.4OA
日本軍は B29から重要施設を守るため 煙で隠そうとしていたフィルムが見つかる。沖縄では 戦争体験を小学校で聞く 平和学習が大事。アメリカ軍は 日本向けの焼夷弾を研究して投下、防空法 爆弾が落ち 火事になったら 火を消す。逃げたものには罰則があった。アメリカ軍は 日本をしっかり分析していた。
【司会】所ジョージ 木村佳乃 ホルコムジャック数馬
【出演】ryuchell,東京大学史学編纂所教授…本郷和人,ホルコムジャック和馬,【語り】吉田鋼太郎
日本軍は B29から重要施設を守るため 煙で隠そうとしていた
去年 存在が明らかになった一本のフィルム「要地遮蔽」、31分間の映像には 杉や藁など さまざまな素材を燃やし 大量の煙を発生させる様子が 克明に記録されている。
フィルムを製作したのは「第八陸軍技術研究所」という機関。
真相を探るため 訪ねたのは、日本陸軍と海軍の資料を 保管・公開する防衛省の研究機関 戦史研究センター 柴田調査員に映像を見てもらうと「重要な施設がB29に空襲されないよう 守るための方法の1つとして どんな煙が有効か探るために実験は行われた」という。
こちらの研究機関には 実験に関する詳細な資料が残されていた。
資料には 昭和19年6月 (マリアナ諸島が占領され B29が進出してきた時期)に 川崎市にある軍需工場(兵器をつくる工場)で煙幕実験が行われたと記されている。
昭和16年 真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争。当初は 昭和17年マニラ占領など 日本の優勢が続いたが、 昭和17年 ミッドウエー海戦など 日本軍は 各地で敗北を重ね 昭和19年7月にはサイパン島が連合軍に占領された。実験から1年後の昭和20年7月25日。川崎の軍需工場が攻撃された。
柴田さんは「実戦で使った記録は残っていない。ピンポイントでの爆撃を阻止できても B29が本格的に爆撃するようになってからは 無差別攻撃なので まったく 効果は期待できないです。」
沖縄では 戦争体験を小学校で聞く 平和学習が大事
長年にわたり 要地遮蔽のフィルムを保管していたのは 高知市の田野岡精一さんで 7年前 95歳で亡くなっており 娘夫婦が出してくれた。帝国大学工学部で工業化学が専門のエリートだった。陸軍第八技術研究所で陸軍兵技中尉として 煙幕実験に参加していた。フィルムが見つかったのは 父・精一さんが まだ元気なころ 押し入れから出てきたが 大事なものでないと言っていた。
父の死後 初めてフィルムを見たという娘夫婦は「日本軍がここまで せっぱ詰まって こんなことまでしなければいけなかったのかな」と語った。
戦後 長きにわたり 沈黙を守り続けてきた一本のフィルム。戦争体験者が 年々 少なくなる中 二度と過ちを繰り返してはならない というメッセージを 私たちに届けるため 姿を現したのかもしれない。
(所)すごいフィルムが出てきましたね。あそこまで せっぱ詰まってたんですね。
(木村)まさか 空襲を避けるために煙で視界を悪くする、風向きでは効果ゼロですね。
ryuchellさん 若い人達が戦争について ちゃんと考える機会 なかなかないですね。
(ryuchell)でも それって若者だけのせいではなくて 教育かなと思う。平和学習をしっかり受けていないと戦争や平和について考えにくい。沖縄にいたとき小学校のときとかに ひめゆり学徒隊の方とか 戦争の悲惨な体験をしてきた方々の お話を聞く機会がすごく多かったので しっかり 僕たちの世代がつないで 平和を伝えていくことが大事と 改めて思いましたね。
(所)平和学習って 確かにそういうことだよね。今 平和だから 何も 今 戦争の話しなくていいてなっちゃうじゃん。でも 平和を維持するのには 考える時間は必要だよね。
(本郷)本当に ryuchellさんが言ったとおりだと思うんですよ。 どういうわけか 太平洋戦争の歴史研究は研究者の間で タブー視されている。 例えばですね レイテ島っていう所に 8万4, 000人っていう兵隊さんが 送られていて 食料不足もあり 7万9,000人が 亡くなっている。何でそんな作戦が実行されたのか。そういう きちんとした研究が進んでないっていうのが現状です。ヨーロッパでは戦争がどれだけ残酷なものかも 研究している。
(所)戦争の話っていうと 何か 人間の残虐性とか 何か そういうもののほうが出てくるんで
あんまり話さないほうがいいよって 何か こう なっちゃうんじゃない?
アメリカ軍は 日本向けの焼夷弾を研究して投下
ほぼ同時期にアメリカでも 空襲に関してある研究が行われていました。
米軍岩国基地がある山口県で 原爆や本土空襲について長年研究している 工藤洋三さんが「こういう写真があるんです。」と見せてくれた。
写っているのは日本家屋で よく見ると 作業員が 日本人のようには見えない。
アメリカ ユタ州のグレートソルトレイク砂漠につくられたダグウェイ実験場に 1943年 内部まで精密に再現された 日本家屋が 突如 誕生したという。 アメリカ本国の実験場で 日本に対する焼夷弾の投下をシミュレーションをするんですね。
焼夷弾とは 家屋を焼き払うことに重きを置いた爆弾。爆発で攻撃目標を破壊するものとは異なる。
これは 日本家屋に焼夷弾を落とす実験映像。無数の小さな炎が上がり やがて大きな炎となって家を焼き尽くした。
工藤さんによれば アメリカ軍は 日本を空襲するにあたり 新しい焼夷弾の開発に取り組んでいたという。
「焼夷弾っていうのは イメージとしては 斜めに入ってくるんですよね。屋根にたどりついたあとは
この屋根は貫通するけども 1階に落ちないで 屋根裏に留まるのが理想。できるだけ 発見されにくい所にとどまる。そうすると 火が回る ということになるわけですね。」
(木村)嫌な実験。
複数の異なる焼夷弾を投下させ 狙いどおり 屋根裏 もしくは 2階でとどまる 焼夷弾を探ろうとした。
その結果 M69というのが非常に性能が良かった。ミニチュアを使って説明してくれた。
「爆撃の際には このM69を上下19本ずつ 計38本 束ね鉄の容器に入れて投下、下降しながら 斜めに入ってきて 真上に来たら こういうふうに…。」
上空で鉄の容器が外れると 38本のM69が無差別に降り注いだ。
さらに 中の薬剤も 日本家屋向けの薬剤が採用された。粘着性の高いゼリー状の焼夷剤は爆発すると この焼夷剤に火がつき 飛び散る。すると 壁に張り付いても 落ちない。壁に張り付いた状態で燃えるので 非常に燃焼効果が高い。
わざわざ 日本家屋を建設して行った 実験の結果 日本の街を焼き尽くす焼夷弾 M69は選ばれた。
サイパン島の基地から 日本へ空爆に向かう B29の搭乗兵たちに アメリカ陸軍航空軍の司令官 ヘンリーアーノルドは次のように語った。「日本の兵士達 パールハーバーは忘れない。B29は日本人に思い知らせてくれる。何度も何度も!」
こうして 終戦までの間に 数え切れないほどの焼夷弾が 投下され50万人近くが犠牲になった。
(木村)嫌だ 戦争って…。

防空法 爆弾が落ち 火事になったら 火を消す。逃げたものには罰則
空襲で 大勢が 犠牲になった背景には日本側の事情もあると語る人物もいる。
大阪にある弁護士事務所で 昭和20年の大阪空襲に関連した 裁判を担当し 空襲被害に関する研究をしている 大前治弁護士は「犠牲者が増えたのは防空法があったため」と語る。
防空法は 空襲が始まって 爆弾が落ち 火事になったら 逃げずに火を消しなさい。逃げたものは 懲役刑または罰金刑に処するという法律。
こちらは 昭和17年に発行された空襲されたときの手引書。棒と縄を組み合わせた「火叩き」の作り方や、ぬれたむしろの かぶせ方など 市民ができる消火方法が紹介されている。
さらに当時の新聞には まるで 焼夷弾が危険ではないかのような記述まであった。
見せてくれた記事には 「手袋の威力」、「焼夷弾も熱くない手袋を使えば 安全 安心ですよと」、「空襲は火を消せば大丈夫、空襲で火の海になることはないと安心させる」
しかし 空襲の際 市民は本当に 防空法に従ったのか?
まさに この防空法に従ったことで多大な犠牲が生じた例がありました。
昭和20年7月 青森市内に米軍機から まかれたビラ。そこには「近日中 青森を含む いくつかの都市の中から 4つを爆撃するので 市民は逃げるように」と書かれていた。これを見て 怖いと思った 青森市民の人たちは 知り合いの家とかに避難していった。
それに対し 当時の青森県知事は 防空法を盾に次のように語ったという。「避難をした市民に断」。「無届けで勝手に逃げた者に対しては食糧配給を停止するぞ」。ということはね もう食べていくことができない。
生きることができないわけですよね。そして 多くの市民が街に戻った日。青森は空襲を受け 大勢の市民がその命を奪われた。
「焼夷弾はそう簡単には消せない火を振りまく恐ろしいもの、防空法がなければ被害が少なく済んだと思う」
防空法が廃止されたのは終戦の翌年のことだった。
(所)はあ~…。 でも 青森県知事だって そのときは 国に従ったわけだからね。
思うのは あれですね 戦争も何も みんなが同じ方向を向いちゃうのが一番こわいこと。今のネット時代 ちょっとしたことで みんなが同じ方向を向く。
VTRにありました防空法に関して 少し 補足いたします。
公布されたのは昭和12年。空襲の際の被害を軽減することが目的でした。当初は 夜間空襲の際に
攻撃目標とならないように照明の使用を制限する「灯火管制」や 大規模な事業者に対しては 消火訓練への参加を義務づけることなどが定められていました。
それが 昭和16年に改正され 新たに加えられたのが 灯火管制の間は、退去 すなわち 避難の 制限または禁止。そして 消火活動の義務化などが加えられた。
専門家によると これらは 小規模の空襲に対しては 効果を発揮したものの 戦争末期の大規模な無差別爆撃に対しては 結果として 犠牲者を増やすことにつながったとも 考えられると指摘しています。
(本郷) 一般市民の犠牲が出ると知っててね あんな研究をしていた米軍も またひどい。それから 日本の政府が方針を変えなかったこと。本当に ひどい話ですね。
(ryuchell) 僕は昔から 戦争の話をいっぱい聞いて平和学習を受けたからこそ もしかしたら 今のままの 世の中だったら、また戦争が起きてしまうんじゃないかと 危機感を持って暮らしている。
(所)本当だよね。 だから 太平洋戦争って 今からちょっと前じゃないですか。まだ80年くらいの前の話をもうないものだと思っている。
(ryuchell)それこそ 僕も 慰霊の日 6月23日に 毎年 SNSで発信をしてるんですけど、反応してくれる方 反響を頂くのは やっぱ平和について関心がある若い方だけなんですよね。SNSを使って 平和のことを若い人に考えてもらおうと思っても 根本的な解決はできない。そんな単純なものでないと思う。1人1人がまず平和について考える。この平和が当たり前ではないと感謝して意識して生きていく。それしか方法ないんじゃないかなって思います。
(本郷)もうね 今日は ちょっと ボケてる場合じゃねえなと思って ボケは封じてますけどね。
もしも戦争が もう2度と起きない過去のものになっているなら 戦争や平和について考える必要はないが、ウクライナの状況を見ても 戦争がいつどこで起きるか分からない。だとしたら 報道のしかたも
ちょっと 考えたほうがいいのかもしれない。例えば ウクライナ戦争 その犠牲が どんなにひどいものか
っていうことを 日本の放送局 テレビなんかは あんまり見せないですよね。 それが 本当に正しいのかどうかね。それこそ 子どもたちが 何か 危険だからっつって はさみ取り上げるみたいなことに なっちゃってねえかなと思って。
アメリカ軍は 日本をしっかり分析、冷静に良識ある判断を一人一人が持つ
アメリカが 日本向けに新たに開発した焼夷弾の 効果を高めるため 日本に関するさまざまな情報が
集められていたようです。こちらは 1944年 昭和19年にアメリカ軍が作成した機密文書。
何が書かれているのか現地スタッフに教えてもらう。
「Fire-fighting」って消防について 資料には「日本人は 火災に対する訓練が行き届いている」「火が大きくなる前に素早く消すことができる」といった分析が紹介され、「焼夷弾の量を増やすべきだと 意見書は書いている」
このリポートを書いた人物は、外資系の火災保険会社に勤務し 開戦直前までの18年間日本に駐在していたという。こうした意見をもとに投下される 焼夷弾の量は 計画当初の3倍以上に増やされた。
18年間暮らした国を焼き払うために アドバイスをしなければならない。そこにも 戦争のむごさが
あるのではないでしょうか。
(ryuchell)沖縄の話になっちゃうんですけども。6月23日 慰霊の日が近づくと 学校の給食も変わって お芋など質素なものしかでなくなる。多くの人が亡くなったことを 感覚的に小さいときから理解していく
、東京の若い方とかは 僕 上京してきて 若い人同士でしゃべっても やっぱり 戦争についての意識が薄いなって 正直 思ってしまって。例えば 多くの人が亡くなった 3月10日に東京でも 給食を質素なものにするなどして 平和学習をするなど変えていってもいいのでは
(本郷) 戦争ってね 結局 最終的に力と力が激突するわけですけど、そこに行き着くまでに政治がある。外交の積み重ね、経済があるワケで、絶対に停めるチャンスがある
だから 感情的になって 相手を たたきつぶしてやろう。さっき司令官が「日本人なんか みんな たたきつぶせ」みたいなことを言ってたじゃないですか。だから 冷静に 良識ある判断を 一人一人が持ってそれで 落としどころを見つけていく。
(所)そうだね。これ 何か こう戦争を始める人もいるわけじゃないですか。そういう人たちって たぶん 何かね 甘いもの食べてね けんか腰になるやつ いないから。
そういうふうになりそうになったときは 周りの人間が 「まあまあまあ ようかんでも食べて」と出せって話よ。ようかん食べて「この野郎!」なんて 言う人はいないんだから。
▽まとめ&感想
私は60代ですが 戦争について 何も学校で教わってきた気がしません。
聞きたくもないことであったし 知りたいとも思わずいました。時間ができて 昭和史など少しづつ見るようになって ウクライナがあって 各国の様子を見ると日本は本当に幸せな国だったと思います。いつまでも続きますように。

