大河 徳川慶喜 第39回 「将軍急死」▽あらすじメモ▽

チャンネル銀河 2020/11/6(金)AM8:00~

慶喜は通商条約の勅許を得て、懸案の長州征伐急がせる

二条城
中納言慶喜(本木雅弘) に老中 松平周防守康英若年寄 立花出雲守種恭が条約勅許に多大なる尽力を賜った御礼を述べ、公方様も喜んでいると昇任 褒賞を口にする。
慶喜は、これを辞退し、「条約勅許の兵庫神戸は都に近く 断固拒否すること 4カ国公使に伝えられていない」と聞いているので、伝えてください。

老中達が 総辞任する事になったと伝え、慶喜に政務輔翼という相談役になって欲しいと依頼した。

慶喜は、しばらく考えさせてといい、それよりも 町中は 値上がり激しく、下々の者が騒ぎ出すを起こしている。長州の件 速めに 許すのか 討伐するのか 決着を急ぐべきと伝えた。
また、薩摩の 西郷 大久保は公家の屋敷を廻り共和政治を説いていると聞いてる。
共和政治とは有力な藩が集まりお上の元新たな国是を作り政を衆議して決める というもの』、要するに幕府に政を任せぬということ 。急がれよ。

京都 薩摩藩屋敷
大久保一蔵(池田成志)は、薩摩藩 家老 小松帯刀に、公家に共和政治をの話をしても 理解してもらえないと嘆く。
家老 小松は、今回は 一橋慶喜の 素早さに負けた。一橋様はお上のお気に入り 手足を出せば こちらがやけどを負う。それより 長州征伐を中止させることだ。

京都 慶喜の 宿館 小浜藩邸
およし(清水美砂)が 慶喜の肩を揉み、「私か来て良かった?」と訊ね、酒を交わす。
さくらという芸者のことを口にする。
慶喜は さくらは この間の大火で死んだ。私が水戸から江戸に連れてきた 幼なじみと話す。
およしは、さくらが生きている噂を聞いていたが 口にしなかった。

和宮の母 観行院 亡くなり 辰五郎達は 都の町人の暮らし案じる

江戸 大奥
和宮の母 観行院(山本陽子)が思わしくなく、和宮(小橋めぐみ)に「夢を見ました。いくつも 楽しい 夢ばかり。いつでも 私がいてお守りさせていただきます。」と静に目を閉じた。和宮は、涙を流しながら「おたあさん」と呼んだ。
天璋院(篤姫・深津絵里)が「お気をしっかり いたすのだ。」と慰め、和宮は「公方様は いつお戻りになる」と訊ねた。
天璋院は 「今しばらく待つことだ。長州を再び攻めるよう 勅命を賜ったそうだ。心配はいりません。私達徳川宗家の者は、御台様の味方です。」。和宮「ありがとう」

和宮が詠んだ和歌 「よる方もなぎさのあまの…… は中納言 橋本実麗(観行院の兄で ずっと尊王攘夷 討幕派の人)に書いた。]

元 侍従 岩倉具視(寺脇康文)洛北の岩倉村で蟄居生活していた。宮廷 非蔵人 松尾相永が訪れ、差し入れを持参し、 都の様子を伝えます。
岩倉は、神州日本の姿を回復すると熱く語ります。

京都 慶喜の 宿館 小浜藩邸
慶喜を新門辰五郎(堺正章)中山五郎左衛門(藤岡琢也)が訪ねます。
五郎左衛門は、都では 幕府をよくいうものは誰もいない。小さなガキでさえ、「異人にペコペコ 旗本サムライ 腰抜けや 長州なんかに勝てやせん」と笑っている。公方様 上洛後何もいいことがない。戦、火事 で 何でも値上げしてしまい、長州征伐の前に 手を打たなければあきませんか?

辰五郎は、余計な事と注意し、夕べも たみさん達の店で、危うく斬り合いになるところだったと語る。
慶喜は、たみ と みよ 二人で出した 飯屋は繁盛しているか 訊ねた。
辰五郎は、二人は元気で 江戸風の飯屋を売り物にしようと頑張っている。おなごは不死身ですと言うと慶喜は笑っていた。
辰五郎は、およし を気にし訊ねるが、慶喜は 大丈夫といい、これからも 町人達の様子 探るよう頼んだ。

江戸 浅草
この年の暮れ 浅草から火が出て、大火に。れん(大原麗子)の家でも炊き出しを準備し、逃げだそうとしていた。れんが泣いていると 会津藩士 寺岡勘十郎(柴俊夫)が火を出してくれ、れんは泣き崩れる。
そこに ガンツム(山下真司)が現れ、邪推する。

長州 薩摩が結びつき イギリスから武器調達 薩長同盟成立

慶応2年(1866)1月
京都
京都守護職 松平肥後守容保(畠中洋)が慶喜に 長州が2枚舌でいつ攻め込んでくるか判らない。
昨年幕府が派遣したら尋問使に、うわべは平身低頭ながら、藩主の呼び出しにも応ぜず、裏で異国の商人から武器を買っている。長州は武器が揃うまでの間、曖昧なこと言い続けている。

新選組局長 近藤勇(勝野洋)は 尋問使に同行した私が、長州はすでに下の者が 藩の実権を握り幕府軍と戦う決心をしているようです。しかし尋問使を応対する者は、素性を隠しています。
家老は、本当の家老でなく執政 目付も皆名を偽り、下の者が身代わりとなって尋問使の前に現れているようです。長州の兵は皆 様式の服装で 鉄砲を持ち、銃は火縄の無い洋式銃です。

容保は、長州の言い訳を聞いているときでは無く攻めるべきだと慶喜に 具申した。
そして、あれほど仲の悪かった長州と薩摩が長崎あたりで、出会っているようで、グラバーとか言うイギリス商人が間に入っているとか、さすればイギリス公使が後ろにいると考えられる。

近藤が、我が配下の者が大阪の商人から聞いた。その商人は、長崎に出向いた折耳にしたそうです。

慶喜はフランス公使 ロシアを挟んで 幕府は横須賀に製鉄所を作ることになった。いずれにしろ長州討伐を急がなければならない。

薩摩藩士 西郷吉之助(渡辺徹)長州藩士 桂小五郎(黒田アーサー)を呼び3日も碁を打ち 酒を飲んで、話を 言い出せないでいた。
催促され、西郷は 長州藩と薩摩藩のわだかまりをなくして欲しいと 切り出した。
桂は、「私は 一藩士にすぎなくそのような大事なこと約束できない」というと、西郷は「 長州藩全体の約束など無意味、あなたの約束をいただきたい」と迫り、「あなたが水に流す」と仰せになれば信じます。それがしも今この時をもって 水に流します。それがしを信じてください。信じられないなら、この場でそれがしを切りお帰りください。我が藩と 貴藩の間に 和が生まれなければ、新しい日本を作ることなど出来ません。あなたを信じることが その第一歩にござる。

桂は「水に流しましょう。」

慶応2年(1866)1月21日
薩長同盟成立。
薩長密約は6ヶ条からなる軍事同盟である。

京都 慶喜の 宿館 小浜藩邸
慶喜は 老中 板倉伊賀守勝静小笠原図書頭長行 より、老中職に久しぶりに 再任になった挨拶を受けた。
慶喜は、公方様より 「政務輔翼」という相談役がごとき役を命じられているが、禁裏御守衛総督と言う役目も賜っており、此度 長州再討伐という話があって、その意見を聞かれた。
よって所信を申し上げる。まず 長州を討伐せよという意見と 寛大な処置をという意見がある。お上は 即刻 長州を討伐せよと命令を下されている。拙者の意見は 長州藩主を尋問し、長州藩内で何が起きているか よくよく尋問し 何が起きているのかよくよく調べることが重要。その上で領地を半分没収し 藩主親子を蟄居させる 事だ。さすれば、お上の御心を安んじ 同時に将軍家の面目も立つ。

幕府の処置を訊ねると 板倉は 長州は一度謝罪したのだから、長州36万9千余石の内 10万石没収、藩主 毛利敬親を蟄居のうえ隠居させその子定広を藩主に据えてはというものです。
慶喜は、嫌に甘いではないか

小笠原は「長州藩は連合艦隊との戦い以来 混乱を極め 今や下の者達が実権を握り我らと戦う決心をしているとの事です。 たとえ藩主を尋問しても 藩を押さえる力なく 無意味かと存じます。また討伐に踏み切った場合 反対している 薩摩 外様の者 いかに動くか 皆目 見当がつかない。此度は この辺で手を打った方がいいという 幕閣、及び有志の考えでです。

慶喜は 此度は、勅命で無く 将軍家自ら、討伐に向かって進発になったのであろう。長州と手を打つためにお連れしたのかと 問う。
イヤ そのようなことは無い言うが、
徳川将軍家の意思を示せ。大阪にもう一度戻り 公方様が笑いものにならないようにせよ。

長州討伐 公方様出撃に松平春嶽 大阪城留守居役に 実は幕府は資金不足

大阪城
3ヶ月の間 幕府と長州でやりとり 結局 長州討伐をする事になった。
長州軍が西洋式で強かった。

将軍 家茂(進藤健太郎)が病で倒れた。

前 福井藩主 松平春嶽(林隆三)が慶喜を訪ねてきた。
慶喜は、その節は無礼だったと謝り、春嶽は 天狗党のお見舞いを述べた。
慶喜は、それがしの力足らず、見殺しにした。いろいろ思うようにならない。

春嶽は、公方様出撃で、大阪城の留守居役を命じられたといい しかし公方様の具合が良くないと聞いている。
慶喜は、春頃から お胸が痛いと仰せになり 未だに回復の兆しが 見えないとのこと。
では、御出陣どころではないな
慶喜は いかなる事があっても 公方様の出陣は止めてください。幕府軍に勝つ力はありません。
兵達に 戦う気概が無いと 聞いている
私は、最初から 再討伐 反対している。諸外国が押し寄せてきているときに、国内に戦があるなど論外だ。
実は、公方様の出陣となれば 新に130万両必要とのこと、今幕府には 2万両の小判しかありません。
よって 大高の商人に 300万両の御用金を命じましたが、未だ集まらぬとのこと

それでどうやって御出陣になるのだ。
無謀を承知しての出陣でしょう。何度言っても 老中、有志達は聞く耳を持たない。

春嶽は「幕府は 1日も早く つぶれた方がいいのかもしれない。さすれば 騒ぐこと無く 大政奉還される。

慶喜は徳川宗家がつぶれた方がいいなどとは、一度たりともない。
幕府は 徳川宗家の事、幕府がつぶれるということは、徳川宗家がつぶれるということ。
そのため、まず幕府を支えている者を叱咤激励し、幕政改革を行い諸外国と貿易を盛んにする。

春嶽は「薩摩の言う 共和政治みたいな形にすればいい。」

まずは、徳川政府を再生する。春嶽殿 力をお貸し下さい。

将軍 家茂 大阪で 死去

大阪城
将軍 家茂(進藤健太郎) が重体になり、慶喜も駆けつける
慶応2年(1866)7月20日 将軍 家茂 死去

▽まとめ&感想

慶喜は通商条約の勅許を得て、懸案の長州征伐を幕閣に急がせる。
和宮の母 観行院が亡くなり 悲しみに包まれる。 辰五郎達は都の町人の暮らし探る。
長州 薩摩が結びつき イギリスから武器調達し薩長同盟成立。
長州討伐 公方様出撃に松平春嶽が大阪城留守居役になり、実は幕府は資金不足だった。
将軍 家茂 大阪で 死去。

※この放送は、字幕が出ません。私が理解できない言葉があり、間違っていたらゴメンナサイ。

幕府の資金が明らかになりました。本当に幕府は弱体化していました。
将軍 家茂 大阪に駆り出され気の毒にも 亡くなってしまいました。