あしたも晴れ!人生レシピ「 あいまいな喪失 東日本大震災10年 」▽こんな話

Eテレ 2021.3.12
宮城県美里町 本田さん 母を亡くし不明の父の葬儀も行い 父と母は仲よく旅をしていると思い写真に語りかけている。
宮古市の山本さん 行方不明の夫への複雑な感情 が生まれ「Ifの未死」が自分の中の宿題になっています。
仙台市 海沿いの荒浜「バスツアー」や原発避難地区 伝統芸能でふるさとを取り戻す。

【講師】関西学院大学教授 金菱清【司会】賀来千香子,小澤康喬【語り】山根基世

東日本大震災によって まだ2572人が行方不明のまま

東日本大震災によって 行方不明となっているのは 去年12月で 2, 527人です。
この10年 大切な人は どこにいるのか 思い続けてきた人たちがいます。

関西学院大学教授で 社会学者の金菱 清さんです。
去年3月まで東北学院大学で 大学のゼミ生とともに 被災地で聞き取りを行い 震災記録のプロジェクトに取り組んでこられました。
そして去年「震災と行方不明」という本を発表されています。

ある女子学生から「私のお父さんは震災で行方不明なんだけど 本当に亡くなったんだろうか」と問いかけられた。
その学生は必死で耐えながら 話してる最中も とめどなく あふれ出る涙を拭おうとしてました。
当事者である行方不明者家族はで、死の定点が判然とせず うっすら そうだろうな たとえ思っていたとしても 亡くなったことを断定するための証拠というものは 何一つですね 出てきてないわけですね。
けれども亡くなっていないと 言い切ることもできずにいます。

朝 「行ってきます」と行ったきり 大切な人が お骨すら 帰ってこないわけですね。
さて皆さんだったら どこで 例えば死亡届を出すのか お葬式を出すのか お墓をいつ作るのか そこに何を入れるのか どこで手を合わせるんでしょうか。
そのような答えのない 出せない問いに ご家族の人たちは向き合ってきたと思うんですね。

宮城県美里町 本田さん 不明の父の葬儀も執り行う

金菱さんが発表した「震災と行方不明」。大学のゼミ生とともに聞き取りました。
本に登場する一人 宮城県美里町 本田律子さん(62歳)です。
本田さんは震災で 同居していた母親を亡くし 父親は今も行方不明です。
毎日 欠かさず写真に手を合わせ いまだ行方が分からない父 笑さん に語りかけます。

石巻の実家で同居していましたが 震災当日は 顔を合わせることなく別れました。
父親は2階に 母親は1階の奥の部屋にいましたので 職場に出かける時に玄関先から 聞こえるように両親に「行ってきま~す」って言って家を出たのが最後ですね。
本田さんは その後 勤め先で被災。水が引かず 身動きが取れず 3日後 会社から この高台に駆けつけました。
「たくさんの人が営みされていた おうちが 全く なくなってて がれきの山でした。 全部 全て。この状況が 自分でも全然もう のみ込めなくて しばらくは ぼう然と立ち尽くした。その時は 両親は避難していてくれればいいなって それだけでしたね。」

すぐに捜索を始めた本田さん。
自宅のあった場所は跡形も なくなっていました。
毎日4~5時間かけて自宅周辺や避難所を巡り 必死に両親の名を呼びましたが 返る声はありませんでした。
そして2週間後 遺体安置所で母 繁子さんを見つけます。
どうしても 受け入れることができなくて 妹に来てもらって 妹の流す涙で 母親が亡くなったんだと受け入れました。

物静かで優しかった父 笑さん。
毎日 自宅周辺や避難所で、父親の姿を捜しますが 見つかりません。
震災から1か月後 母親の葬儀を執り行うことにしました。
すると菩提寺の住職から 父親も一緒に供養してはどうかと 声を掛けられました。
父親のなきがらの ないままの葬儀。
いつか帰ってくるかもしれないと いちるの望みを感じながらも 一つの区切りとなりました。

宮古市の山本さん 「Ifの未死」が自分の中の宿題

(2020.3.11放送 ハートネットTV)
夫は行方不明のままです。
「これに全部 入ってんのかな。」と CDを再生しました。
夫の幸雄さんは 昆布やワカメの養殖をしていました。

山本さんは慰霊祭にあたり 夫の供養をしてはどうかと 持ちかけられます。
生きているかもしれない人を そんなふうにしてほしくない 死亡届も 私だけは出しませんとか
そうできる勇気はなかった。

息子は もうずっと朝から晩まで携帯いじってるんでね。
そうしたら お父さんに 宛てたメールが出てきたんですよね。

私は もう本当に前向きに生きようと思って お父さんの携帯は 契約 切ったりしてたので 何か すごい
子どもの気持ちをどうしたらいいか分かんなくて すごい つらかったです。

次第に夫への複雑な感情が芽生えてきました。
どうして 自分たちだけ そっちに行って 私にだけ子どもを置いて。 何で自分がこんな思いしなきゃいけないのっていう気持ちがあって。
主人に対して あんなに優しいお父さんだったのに 裏切られたような気持ちがあったんですよね。
でも こう 罪悪感というか すごい いろんな気持ちが 複雑な気持ちがありましたね。

震災当時 地元診療所の看護師長として 多忙を極めていた山本さん。
今は短期大学の保健室で働いています。
「主人に対して 自分の感情を伝えきってないのかも しれないですよね 自分の中でね。
言えなかった自分の中の宿題になってますよね。」

金菱さんは 最後の言葉が非常に重たい というふうに思うんですよね。
宿題というものは 簡単に答えることができない。
その抱えきれない宿題というものを ご家族の方は 背負ってらっしゃるわけですね。
でも亡くなった人は何一つ 答えてくれないまま 姿を消してしまったわけですね。
ただし 家族の方は 亡くなった人の履歴とか痕跡というものを日常から全く消し去る というのではないことで 亡くなった人に 怒ってみたり、あるいは感謝を述べてみたり 見えないけれども そこに存在しているかのごとく そういうふうに対して 責任を背負い続けて 重荷に感じたりしているわけなんですね。

9.11のアメリカ同時多発テロとか 戦争などの行方不明について 長らく調査をしてきた 研究者ポーリン・ボスさんは さよならのない別れ 「あいまいな喪失」という言葉を使ってるんですね。
それは死者がいて お葬式 そして土葬や火葬というふうに 象徴的な儀礼によって 送り出されるということを明確な喪失と呼んで区別してます。

行方不明者の家族にとって死とは、ご遺体が上がらないままの 実感の湧かない死であるとも言えて、
死の定点に揺らぎがあるということを論じたわけですね。

そうすると あいまいな喪失というものは、多くの人々に 長期にわたって 深刻なストレスフルな状態
引き起こすとも言えるわけですね。
その通過儀礼のない別れというものは 死の追認が難しくて 被災地での死生観に大きな変容を与えた
というふうに私どもは考えています。

VTRの山本さんは ご主人のVTRを本当に どれだけ ご覧になっただろうと 思うんですけれども
でも そうやって ご覧になってるうちに いろんな複雑な感情が交錯しますよね。
生き残った家族にとってみれば もしかすると亡くなった人を救えたんじゃないだろうかという
罪悪感に ものすごくさいなまれることになるわけですね。
これは一般的には「サバイバーズ・ギルト」というふうに呼ばれます。
サバイバーズ」というのは生き残りということですね。
「ギルト」というのは 罪意識なんですけれども。
なぜ自分だけが 生き残ってしまったんだろうかという 自分を責めるような自責の念に 駆られることも あるわけですね。
地震や戦争などで特徴的に表れる意識 ですけれども、私は それを「Ifの未死」と 呼んでいます。
未死というのは 死んでいないという意味で もし自分自身が何々していたら こうなって あの人は生きているはずなのに けれども戻ってこない。
この答えのないという問いに さいなまれてるというふうに言えます。

本田さん 父と母は仲よく旅をしている

父親が行方不明のままの本田さん。
震災から数か月後 考え方が変わる出来事がありました。
それは ハワイのオアフ島まで 震災のがれきが 漂着しているニュースでした。

父と母は仲よく旅をしていると 前向きに考え、朝も晩も 写真に語りかけることにしました。
「ハワイは あったかくて とても いい所でしょ? お母さんと一緒に あちらこちら 夫婦楽しく旅行できてお父さん よかったね。」
旅の話題から 身の回りで起こった出来事まで 語りかけることで 両親の存在を身近に感じるようになりました

それから本田さんに 両親とのつながりを 感じさせる不思議な出来事が起こります。
当時 独身だった本田さんに運命の人が現れました。会社の同僚 竜也さんです。
震災から数か月後のこと。会社で見かけた竜也さんの姿に 本田さんは驚きました。
「光の中に こう浮き上がって見えて それで主人の目がですね 少女漫画のように 星が キラキラキラ~ってなったんですね。 両親が「この人よ この人を選んでね」っていうようなふうに感じました。」

震災から2年後 結婚。
つらい境遇を共に乗り越えてきた 竜也さんは よき理解者であり 心の支えです。
今では 父親が行方不明という現実を 受け入れられるようになりました。

金菱さんは、行方不明に対して それぞれの向き合い方と工夫をされている。
これが正解ということはなくて、本当に納得するまでの時間は まちまちなんです。
本田さんの場合は お父さんの 笑さんが生前 寡黙な方で 自分の思いを伝えて 人に迷惑を
かけたくない人だったそうで、もしご遺体が見つかると 娘さんたちに手続きや 心理的なショック
を2度 与えてしまうんだという意味で これ また 父親らしいんだというですね。」

家族が行方不明となられた方の歩み

「震災と行方不明」の中での本の中で 学生が それは調べたケースです。

●石巻市で奥さんが行方不明となった荻原さんは いまだ 遺骨も見つかっていない状態で 死というものを認めることはできずに いまだ本当の葬儀を行ってはいません。
翌年から仮設住宅団地の 会長職を引き受けるなど 住民への声がけなど 積極的に活動されていました。

荻原さんが10年前の自分に宛てた手紙

本当は何度も 一緒に 海の底に沈むことが出来ればと 思っていた。でも 今自分を生かしているのは 女房が家族のために動いてくれたことで、それを裏切らない気持ちなんだ。

『永訣 あの日のわたしへ手紙をつづる』


●南三陸町で最愛の夫が行方不明となった 高橋吏佳さん
夫の行方不明だけに とらわれないようにというふうな形で、考える余裕がないほど 仕事とか 家事まで こなしてきたわけですね。
その中では泣き顔を見せるというよりも いつもどおり忙しい姿を見せてあげる ということのほうが 夫もですね 喜ぶんではないんだろうかというふうに考えています。

その吏佳さんをですね 調べた学生は「コールドスリープ」というふうに名付けるんですね。
それは いわば記憶の冷凍保存で 忙しくしていると、気持ちが落ち着いて、だけども気が向いた時に
夫と向き合いたい時に向き合って 記憶の冷凍庫から出して 一瞬 解凍することで 自分の心の状態と
相談しながら 穏やかに夫と向き合うということを 可能にしている方もいらっしゃいました。

忘れることも大事だし、そこに向き合って 記憶と一緒に家族と こういうことがあったよね、楽しいことあったよねっていうことも思い出すということも同時に いいことだというふうに思うんですね。

仙台市 海沿いの荒浜「バスツアー」や原発避難地区 伝統芸能でふるさとを取り戻す

分かち合いの会などのセルフヘルプグループ、いわゆる自助グループの活動を通じて 同じ境遇の家族が定期的に集まったりする中で 喪失の悲しみを癒やしたり 語り合う機会を 持ったりしてます。
同じような体験を分かち合うということで 心の支えにもなっています。

このあいまいな喪失は、人についてだけではありません。
慣れ親しんだ風景や記憶 そして ふるさとについても 行方不明だと感じることが あるといいます。

仙台市 海沿いの荒浜地区
津波の甚大な被害により町並みが失われ それまでの営みが奪われました。
災害危険区域に指定され 845戸が内陸へ集団移転しました。
かつて松林の広がる風光明美な海岸は住民が愛した ふるさとでした。
しかし震災により 住民と土地が分断され ふるさとが行方不明と感じる人たちもいるといいます。
そんな荒浜に 震災から4年が過ぎた頃 突如 バス停のオブジェが現れます。
制作したのは地元の美術作家が 「ふるさとを取り戻すきっかけになれば」との思いで設置しました。

荒浜を走る路線バスは 住民の大切な交通手段で ふるさとの象徴でした。
終点は海水浴場のある「深沼」。
しかし震災後 海岸の路線は廃止となり バス停は姿を消しました。

2016年 行方不明となった ふるさとを、取り戻したいと 1日限りの路線バスが復活します。
市民団体と仙台市が手を組みました。
市バスを荒浜へという そういった思いをですね 私たちも一緒になって応援したい ということで
今日のオモイデツアーになりました。
バスツアーの名は 今日は市バスに乗って荒浜へ

荒浜の元住民を乗せたバスは 仙台駅を出発。
そしてバスは 廃止路線となった海岸へ進みます。

車窓から思い起こされる、震災前の様子のバネルが 掲げられます。
荒浜の思い出を乗せて バスは走ります。

ツアーの翌年 路線バスは 「荒浜小学校前」まで 走るようになりました。
しかし まだ終点だった海岸までは 運行されていません。
そして 今もバス停のオブジェが 未開通の場所に置かれています。

ふるさとの行方不明
存在は するんだけれども もう変貌してしまって 暮らしになじんできた景色と違うため 違和感を覚えてしまう。
あるいは福島では原発事故によって 避難区域となって居住制限がかかったり 立ち入りの制限が かかったりすることに あります。
いつでも 前 自分が慣れ親しんだ光景と 比較してしまったりしますでしょうね。

やっぱり私たち 日常生活というのは 落ち着く場所、こういう日常が毎日 続くからこそ こうやって こういう行動をして みたいなリズムが できてくると思うんです。
そのリズムを失った時に 私たちの生活というものを どういうふうに立て直していくのか というのは かなり困難を伴うことだと 思うんです。

私が行方不明を考える きっかけにもなったのは、それは冒頭でも お知らせした 原発の避難地域出身のある学生の「私のお父さんは消防団活動に 行ったまま あの日以来 帰ってきてない」と相談でした。

故郷の福島 浪江町も 父親も 今は いないんだけれども 伝統芸能をずっと続けてきていて その中の田植踊というものを 自分自身が舞うということで 懐かしい光景が よみがえったり、その中で父親が想起されたり そういうつながりを認識したという体験です。

東日本大震災から10年ですよね。
非常に長い年月だと感じますけれども、その中をず~っと あいまいな中で 葛藤を続けてこられて この先も まだ そうした自問自答を続けていかれる方たちが いらっしゃるということを当然 忘れてはならないと思いますし いつか穏やかな答えに たどりつかれることを 願わずには いられませんね。

▽まとめ&感想

宮城県美里町 本田さん 母を亡くし不明の父の葬儀も行い 父と母は仲よく旅をしていると思い写真に語りかけている。
宮古市の山本さん 行方不明の夫への複雑な感情 が生まれ「Ifの未死」が自分の中の宿題になっています。
仙台市荒浜「バスツアー」や原発避難地区 伝統芸能でふるさとを取り戻す。

東日本大震災から10年、ニュースで当時の様子を見ると、あのように大変なことだったのに 忘れてしまっていました。
あいまいな喪失で ずうっと 10年間。本当にいろいろな葛藤があられたと思います。
お一人お一人 皆さんが それぞれ少しでも いい方向に 向かわれることを祈っています。